フラーレン水晶ボール
自己意識の拡大と創造について、考えてみよう。
スピリチュアルでは「自己」の概念を広げて「ハイアーセルフ」という言葉で表す。
地上の肉体の中にも魂という霊的エネルギー体は宿っているが、それは本来の自己のエネルギーの一部であって、大部分は霊天上界に残っていると考える。
天上界にある自己のエネルギーは、個性あるエネルギー体であるが、それは形あるもののように、全体との境界があるわけではなく、その最奥は、神のすべてとつながっている。
逆に全体の方から見ると、その全体のエネルギーが三次元の時空に焦点を当てた光が意識であるということになる。
三次元に現象化する時は個性化される必要があるので、ちょうど太陽の光を神の上にレンズで集めて小さく輝いているようなものを、私たちは自己意識と呼んでいるという考えだ。
レンズの役割を果たしているのが、神様の一つの個性である。
紙に当たるものが、時間空間で形作られた物質の世界である。
一つ一つの個性の周りに世界が現れている。
全てである神がたまたま焦点を合わせたものが自己意識であるとすると、自己意識という実体があるわけではない。神の光があるだけだ。
でも、今ここに焦点が合っているので、個別の意識があるように見える。
それが、もっと広がって、ある単位の個性のエネルギーの集合を自分と考えるようになったら、ワンネス意識となる。
さらに拡大して、全体と融和したら、どこにも焦点がないので、意識としては空になる。
それは、もし物質的に翻訳したら、光の焦点だけが集まった、物凄い光の存在になるだろう。
さて、自己意識とはそのような、時空のスクリーンに焦点があった光であるとする。
意識の奥の、全部のエネルギーに思いを向けてみよう。これが、世界と自分を支えている実体だ。
その力を仮に愛のエネルギーと呼ぼう。
本当は、自己意識などというものはなく、時空以前の時空にいる源の源、その力、それが私である。
この力と融和して一つになるにはどうしたらいいだろう。
「自己」意識を広げて、源の場所に戻って、恩寵に感謝しつつ、神の一部として存在する(活動する)と意図することが、愛のエネルギーと融和することになるのではないかと思う。
源の場所に意識を向けて、(地上に聖なる真善美の光を表現しようと願っているであろう彼のために)無私なる「願望」を意図したときに、創造は成し遂げられている。
愛の動機からのうずきとして昇ってきた願望は、神の願望であり、思いは原因の世界では思った時に実現しているので、目に見えるものは気にしないで、あとは実現を待てばよい。
いや、待つことすら必要ない。手放してしまえば良い。
時空以前の時空にいる、源の源にアクセスするには、自己に深く沈潜する必要がある。
そのためには、静寂や瞑想を生活に取り入れる必要がある。








