このところ連続してエッセイを読んでいる。辻邦生、小林信彦、亀和田武、筒井康隆。そういえば山田風太郎の日記もエッセイの中に押し込めようとすればできないこともない。次々と変化する書き手の肌の質感、一人一人の個性と世の中への臍曲がり的発想を競うが如くの論理的志向がワクワクさせるのだが、いかんせんエッセイは閉じた文学とでも言おうか、世の中はこういう流れだが、それは断じて許さん、本当はこうなのだというロジックが前面に出すぎていて、実はその部分において、みんな似たり寄ったりに読めてしまうのだ。その鼻に付く部分が好きならば問題ないわけだが、そうした共通項としての反骨精神に魅力を感じるのは若い時に限るのであり、今の年齢となっては何の刺激にもならない。面白いのは自分が書き手の歳を超えてしまうと、突然に書かれた文章が幼く見えてくことだ。読んでいて、もしかしてと思って本の奥付やなんやから書き手の年齢を類推して突き止めると、ああ、やっぱりと会得することが多々ある。
それにしても読み間違いが増えた。「例のアイデア」とあったから、そんなアイデアが出てきたかしらんと前のページをせっせと手繰って見ても出てくることはなく、再度読み直してみれば「別のアイデア」だった。こうした表面的な誤読があちこちで起きていて、ページがちっとも前に進まないのが悲しい。
今のところのエッセイの醍醐味は、例えば自分が足を運んだ時にコンサートの内幕が書いてあったりすると嬉しい、そんなところにある。その点、亀和田武のエッセイには、中野サンプラザで行われた松本伊代のコンサートのことが書かれていて、その後に某文芸誌で松本伊代を迎えての座談会を錚々たるメンバーでしたことに触れていた。なぜかそのコンサートには行っていたのであるが、座談会には呼ばれなかった。そんな時、東海林さだお風に「グヤジイー」となるわけだ。