サザエさん的台風一家
昨日、台風直前の新宿、その緊迫した中、「サザエさん」を見るのはなかなかに楽しい。この家族の能天気さは、笑って誤魔化すしかないような神経戦のようなものかもしれない。って言いながら、あれ、って気が付いた。この悪気だらけの登場人物は、いかに自分の冒したミスを誤魔化すためだけに生きていると。なんでもかんでも誤魔化す話ばかりである。そう思って見ると、そのお人好しさの中に見る殺意を感じてぞくぞくしてしまう。まるでハニー・フラッシュのようなものだ。冷たい熱帯魚のようなものだ。意味不明。
ちなみに波平が死んでもマスオさんには一銭の財産も入ってこないそうである。タラちゃんには1/12だかが入るそうだ。そうなると怪しいのは? 先日、週刊誌の遺産相続の分かりやすい例として「サザエさん」一家が取り上げられていた。それを読んでいたらスパゲティ、ナポリタンスープ、コーヒー付き800円を吹き出してしまった。それにつけても、あのナポリの後のタンというのはどういう意味なんだろう。それが知りたいところである。話はそれたが、要するに言いたいことは「サザエさん」一家は一触即発の様相を呈しているということだ。
そういう意味では「チビまる子」ちゃん一家は幸せだ。滅多に脚光を浴びないお母さんがいい。アル中で釣り好きで何の仕事をしているか分からないひろしがいい。何の仕事をしているか分からないというのがポイント高い。つまり、胡散臭いということだ。ということは殺意に発展しないということ。何故なら胡散臭い人間は悪事に手を染めないのである。すぐ捕まるから。コリン・ウィルソンがそう書いていたような。ほんとか。
昨夜は「希望の国」を撮り終えた園子温監督がNHKのETV特集で取り上げられていた。映画も早く観たいが、原発事故、これも誤魔化すだけに終始した1年半だと捉えることもできるんじゃないだろうか。もしかして、歴史ってすべてその範疇で語れるものかもしれない。昔、井筒監督が若者と歴史について語る番組に登場した時、ある若者に対して「そんな薄い歴史の見方はだめだ」と発言。それを聞いた某大学教授が猛烈に怒りだしたことがある。井筒監督の断定した歴史観があまりにも歴史から遠いところにあると反論したのである。歴史なんてものは習ったものだけの世界でしかない。ホロコースト同様、第二次世界大戦はなかったと教科書に載れば、それを信じた生徒に何ら非はないのと同じだ。
今、読んでいる「奴隷文化の誕生」は、フィールド・ワークを通して、過酷な黒人奴隷時代を抉り出した労作。これをジャズを聴く根拠として読み始めたのだが、自分とジャズと奴隷が理屈なしで結び付けることは不可能だ。本を読みながら、結局はそれを思い知らされることになる。例えば、昨日の大風で倒れた老木、これだって歴史の一部なのだ。だが、どれほど重要な歴史なのかと問われたら、どれだけ老木と関係付けた自分がそこにいたかにほかならないと答えるしかないではないか。そこに人は身を裂かれるのである。太鼓のリズムに多くの苦難を感じるのは自分には出来ない。それが出来る人を今の所十全に信じること自体無理なのだ。
だが、知りたい衝動は確かにある。身を乗り出し、身を裂きながら知っていく小さな塊の集成こそ、素晴らしい野性味たっぷりの土着観なのではないか。
