今日で、息子の二年生の一学期が終わり。
持ち帰ってきた通知表は、「できた」「もう少し」の二段階評価だった一年生から一つ増えて、「よくできた」「できた」「もう少し」の三段階評価。
一年生の一年間は、全て「できた」だったし、一歳から五歳までを海外で過ごしていたこともあって、英語のクラスに通っていた幼稚園年中の時には、英語で筆算の足し算・引き算を学んでいたし、一年生で英検五級に合格、「学校で初めて知ったと思えることは、音楽のクレッシェンド・デクレッシェンドぐらい」と言うほど、今も漢字や算数を先取り学習しているレベル。
なのに、全て「よくできた」ではなく、各科目の中で1・2個ずつ「できた」に丸がついていて、正直驚き。
公立の小学校の通知表って、絶対評価ではなく相対評価なの?
日本の学校教育の中で評価されるのは、「みんなと同じことを、周りに迷惑かけることなく積極的にできる人」だということを実感。
確かにそういう意味では、息子はマイペースだし、みんなと同じよりも、自分の個性を発揮したがるタイプ。
そう考えていくと、学校の通知表って、ある意味、子供の自信を失くさせてしまったり、個性を潰してしまう可能性をはらんでいると思う。
私は息子の評価に納得いかないし、そもそも公立の小学校へ通わせていること自体を少し後悔している(特に学習内容のレベルの低さ)ほどだから、ますます日本の学校教育への不満は増すばかり。
だけど、たとえ学校での評価が納得いかなくても、私にとって息子は、世界で一番の存在。
他人からどんな評価をされようとも、ただ生きていてくれるだけで尊い存在で、何よりも誰よりも大事な宝物。
そんな想いを毎日何度も言葉にして伝えている。

私は、私自身が幼かった頃、自分に自信のない子供だった。
それは中学生頃まで続いたけれど、高校生以降は少しずつ自分に自信をもてるようになっていき、社会人になってから今までは、日に日に自己肯定感が増していった。
今振り返ると、幼い頃の自信のなさは、日本の学校教育が私には合っていなかったのだと思う。
小学校へ行くことが嫌いだったし、学校で勉強したことが、将来どんなふうに役に立つのか甚だ疑問だったこともあり、勉強することも大嫌いだった。
それが、大好きなもの(私の場合はフルート)に出会い、音大で専攻して極め、音楽関係のメーカーに就職することができて、自分に自信をもつことにつながっていった。
私自身の生い立ちを振り返ると、いかに日本の学校教育での評価が、意味をなさないものなのかが見えてくる。
その実感は、四年間の海外生活で、外国人の思考や生き方に触れて、更に加速した。
だから私は、息子の通知表の評価なんて気にならない。
そんなことよりも、「自分の時間」を生きていける、自律した大人へと育てるために、これからも本物の体験をたくさんさせてあげたい。