人は、  
知らないものを恐れる。

でも本当に怖いのは。  
“知ってしまうこと”なのかもしれない。

     ◆

病室の窓。

そこに。  
“それ”は立っていた。

黒い人影。  
輪郭だけがぼやけている。

顔がない。  
なのに。  
笑っているのが分かった。

ニタァ――。

「……ッ!!」

悠の全身が凍りつく。  
呼吸が止まる。

心臓だけが、  
嫌な音を立てていた。

「朝比奈くん?」

白石ミナが振り返る。

「どうしたの?」

「窓……!!」

悠が指を向ける。

でも。  
次の瞬間。

そこにはもう、  
何もいなかった。

ただ雪が降っているだけ。

「…………」

悠の喉が震える。

「いたんだ……本当に……」

ミナの顔色が変わる。

「見えたの?」

「黒い影が……」

その瞬間。  
ミナの瞳が、  
わずかに恐怖で揺れた。

「……ダメだ」

小さく呟く。

「早すぎる」

「何が」

「普通、  
 そこまで見えるのもっと後だから……」

悠は混乱していた。

「なんなんだよ、  
 あれ……」

するとミナは、  
少しだけ迷ってから答える。

「……“観測者”って呼ばれてる」

「観測者?」

「私も詳しくは知らない」

「でも、  
 気づき始めた人の前に現れるって……」

ゾワッ。

悠の背筋に悪寒が走る。

     ◆

病室の空気が重い。

テレビは消えたまま。  
時計の秒針だけが響いている。

カチ。  
カチ。  
カチ。

その音すら、  
妙に不気味だった。

「……なんで俺なんだよ」

悠が俯く。

「俺、  
 別に特別じゃないのに」

ミナは静かに悠を見る。

「たぶん、  
 特別だからじゃない」

「え?」

「逆」

彼女の金色の波紋が、  
ゆっくり広がる。

「朝比奈くん、  
 ずっと“感じすぎてた”でしょ?」

悠は黙る。

幼い頃からそうだった。

人の機嫌。  
怒り。  
空気。

全部を読みすぎる。  
だから疲れる。  
だから一人になる。

「感受性が強い人ってね」

ミナが続ける。

「本当は、  
 世界の違和感に気づきやすいんだと思う」

「違和感……」

「みんな、  
 苦しいのが普通になりすぎてる」

「学校も」  
「仕事も」  
「人間関係も」

「でも本当は、  
 もっと自然に生きられるはずなの」

その言葉を聞いた瞬間。

悠の胸の奥が、  
ズキッと痛んだ。

まるで。  
忘れていた何かを、  
思い出しかけるみたいに。

     ◆

「……俺さ」

悠が小さく呟く。

「ずっと思ってた」

雪を見る。

「なんでみんな、  
 こんなに苦しそうなんだろうって」

「大人になるほど、  
 目が死んでいくし」

「みんな、  
 本当は嫌そうなのに働いてるし」

「なのに、  
 それが“普通”って言われるし」

言葉が止まらなかった。  
今まで誰にも言えなかったこと。

「俺、  
 社会出るの怖いんだ」

その本音が漏れた瞬間。

病室の空気が、  
少しだけ静かになる。

ミナは笑わなかった。  
否定もしない。

ただ。

「……うん」

優しく頷いた。

「私も怖い」

その一言だけで、  
悠は少し泣きそうになった。

     ◆

その時。

ブゥゥゥゥン――。

また、  
あの低い振動音。

病院全体が微かに揺れる。

悠が顔を上げる。

窓の外。  
空。

黒い雲の向こう側で、  
巨大な“何か”が動いていた。

ゴォォォ……。

空が回転している。

いや。  
空の“裏側”が見えかけていた。

「……っ」

悠の視界が歪む。

そして。  
一瞬だけ。

空の向こうに、  
巨大な壁が見えた。

終わりのない壁。

その表面に。  
無数の“目”が埋まっている。

『観測継続』  
『感情反応、正常』  
『記憶層、開放開始』

「やめろ……!!」

悠が叫ぶ。

すると。

病室の電気が一斉に消えた。

パチン。

暗闇。  
静寂。

そして。

悠の耳元で、  
誰かが囁く。

『君は、  
 思い出してはいけない』

冷たい声。

でも。  
その奥に、  
どこか悲しさが混ざっていた。

悠がゆっくり振り返る。

暗闇の中。  
ベッドの隣に。

“白い少女”が立っていた。

雪の日に見た、  
あの少女だった。