普通に生きたい。  
ただ、  
それだけだった。

なのに。  
世界は少しずつ、  
“普通”を壊し始めていた。

     ◆

病院の朝は静かだった。

看護師の足音。  
点滴の機械音。  
遠くのテレビ。

みんな、  
何事もない顔をしている。

でも。  
悠には見えてしまう。

人々の周囲を漂う、  
感情の波紋。

黒。  
灰色。  
濁った赤。

疲労。  
怒り。  
諦め。

『帰りたくない』  
『また仕事だ』  
『お金がない』  
『苦しい』

「……っ」

悠は俯いた。

聞きたくない。  
なのに。  
勝手に流れ込んでくる。

まるで世界中が、  
叫び続けているみたいだった。

     ◆

「朝比奈くん」

白石ミナが、  
自販機の紙コップを差し出す。

「飲む?」

「……ありがと」

温かいココア。  
悠は少しだけ落ち着く。

ミナは窓際へ寄りかかった。

「ねぇ」

「なに」

「昔から、  
 変なこと考えてなかった?」

「変なこと?」

「なんで人って、  
 こんなに苦しそうなんだろうとか」

「なんでみんな、  
 本当は嫌なのに同じことしてるんだろうとか」

悠は苦笑した。

「……それ、  
 ずっと思ってた」

学校。  
勉強。  
将来。  
競争。  
“普通”。

みんな苦しそうなのに、  
誰も止めない。

まるで。  
最初から決められているみたいに。

     ◆

ミナは静かに呟く。

「もしかしたらさ」

「この世界って、  
 本当に“自然”なのかな」

「……え?」

「みんな、  
 最初から何かを忘れてる気がするの」

悠の胸がざわつく。

「忘れてる?」

「うん」

ミナは窓の外を見る。

空。  
冬雲。  
遠い太陽。

「本当はもっと、  
 自由だった気がする」

「…………」

「もっと優しくて、  
 もっと静かで」

「争いも、  
 お金も、  
 上下もなくて」

その言葉を聞いた瞬間。

悠の頭の奥で、  
何かが反応した。

ブゥゥゥゥン――。

低い振動。

そして。  
一瞬だけ、  
知らない景色が流れ込む。

巨大な草原。  
青白い空。  
笑い合う人々。

誰も怒っていない。  
誰も怯えていない。

暖かい。  
懐かしい。


「――ッ!」

悠が頭を押さえる。

「朝比奈くん!?」

「今……また……」

映像はすぐ消えた。

でも。  
胸だけが苦しかった。

あの場所へ、  
帰りたいと思ってしまったから。

     ◆

「ねぇ」

悠が震える声で言う。

「俺たち、  
 どこか別の場所を知ってるのかな」

ミナは少し黙る。  
そして小さく答えた。

「……たぶん」

「でも、  
 思い出しちゃいけないのかもしれない」

「なんで」

「思い出した人から、  
 壊れていくから」

悠は息を呑む。

ミナの表情は真剣だった。

「実際、  
 昔からいたらしいの」

「“見えすぎる人”」  
「“気づいてしまう人”」

「でもみんな、  
 途中で消えたり、  
 おかしくなったりしたって」

ゾワッ。

悠の背筋が冷える。

「……誰に?」

その瞬間。  
ミナの瞳が揺れた。

言ってはいけない。  
そんな顔だった。

     ◆

その時。

病室のテレビニュースが流れ始める。

『原因不明の集団体調不良――』  
『若者を中心に、  
 強い倦怠感や鬱症状――』  
『SNS依存との関連も――』

悠はぼんやり画面を見る。

でも。

次の瞬間。

アナウンサーの背後に、  
巨大な黒い波紋が見えた。

『働け』  
『消費しろ』  
『考えるな』  
『疑うな』

機械みたいな反響音。

同時に。

画面の奥に、  
黒い“目”が浮かぶ。

ギョロリ。

「――ッ!!」

悠が立ち上がる。

テレビ画面が、  
一瞬だけ歪む。

すると。

ニューススタジオの背景が消えた。

代わりに見えたのは。

巨大な壁。  
そして。

無数の人間を監視する、  
黒い瞳たち。

『同期率上昇』  
『対象、  
 覚醒段階へ移行』

「やめろ……!!」

悠が叫ぶ。

ガンッ!!

突然、  
テレビが真っ黒になった。

病室が静まり返る。

「朝比奈くん……」

ミナの声も震えていた。

悠は呼吸を荒げる。

「なんなんだよ、  
 これ……」

すると。

病室の窓へ、  
ゆっくり“何か”が映った。

黒い人影。  
顔がない。

ただ、  
こちらを見ている。

そして。

ニタァ……と笑った。