人は、  
忘れることで生きている。

もし全部を覚えていたら。  
きっと、  
壊れてしまうから。

     ◆

「朝比奈くん!!」

遠くで声がする。  
揺れている。  
世界が。

視界が白く滲む。

頭の中へ、  
大量の映像が流れ込んでいた。

燃える空。  
崩れる塔。  
黒い津波。  
泥に沈む街。

誰かが叫んでいる。

『逃げろ!!』  
『空を見るな!!』  
『また始まる!!』

「……ぁ……」

悠の呼吸が乱れる。  
苦しい。  
頭が割れそうだった。

知らないはずなのに。  
全部、  
“知っている気”がする。

     ◆

「しっかりして!!」

白石ミナが、  
悠の頬へ触れる。

その瞬間。  
金色の波紋が広がった。

温かい。  
静かだった。

すると、  
少しだけノイズが遠ざかる。

「……っ、はぁ……」

悠は荒い呼吸を繰り返した。

「今の……なんなんだよ……」

声が震える。

ミナは少し迷うように俯いた。

「……見えたんだね」

「何が」

「昔の記憶」

「昔?」

悠は混乱していた。

「俺、あんな場所知らない」

「でも、  
 知ってる感じがしたでしょ?」

「…………」

否定できなかった。  
それが怖い。

初めて見る景色なのに。  
懐かしかった。

     ◆

病院の窓の外。  
雪はまだ降っている。

静かな夜。

でも。  
悠にはもう、  
世界そのものが不気味に見えていた。

「……俺、  
 おかしくなったのかな」

小さく呟く。

するとミナが、  
ゆっくり首を横に振った。

「違うと思う」

「じゃあ何なんだよ」

「……たぶん、  
 思い出し始めてる」

「だから何を!?」

思わず声が大きくなる。

その瞬間。  
廊下の奥から、  
黒い波紋が揺れた。

看護師。  
患者。  
家族。

みんな、  
何かを抱えている。

『怖い』  
『死にたくない』  
『帰りたい』  
『助けて』

感情が、  
音みたいに流れ込んでくる。

「ッ……!」

悠は頭を押さえた。  
もう限界だった。

聞きたくない。  
知らない人の苦しみなんて。

なのに、  
勝手に入ってくる。

     ◆

「ねぇ」

ミナが静かに言う。

「朝比奈くんは、  
 昔から生きづらくなかった?」

「……え」

「みんな普通にできることが、  
 苦しかったり」

「学校が疲れたり」

「人に合わせるだけで、  
 すごく消耗したり」

悠は黙る。  
全部、  
当たっていた。

「……なんで分かるんだよ」

「私も同じだから」

ミナは少しだけ笑った。  
でもその笑顔は、  
どこか寂しかった。

「たぶんね」

彼女が窓の外を見る。

「私たち、  
 普通の人より少しだけ、  
 “ノイズ”を受け取りすぎるんだと思う」

「ノイズ……」


「感情とか、  
 記憶とか、  
 世界の違和感とか」

雪が静かに降る。

「でも本当は、  
 みんな少しずつ感じてるんだよ」

「え?」

「なんでこんなに苦しいんだろうって」

「なんで生きるだけで疲れるんだろうって」

「なんで、  
 本当にやりたいことが分からないんだろうって」

悠は何も言えなかった。

それは、  
ずっと自分が感じていたことだったから。

     ◆

その時。

病院の時計が、  
カチ、と鳴った。

午前二時。

瞬間。  
空気が変わる。

ブゥゥゥゥン――。

また、  
あの低い振動音。

悠の背筋が凍る。

病院全体の照明が、  
一瞬だけ暗くなった。

そして。  
“見えてしまった”。

天井の向こう。  
夜空のさらに上。

巨大な黒い層。

まるで、  
空そのものが偽物みたいに。

「……っ!?」

悠の瞳が揺れる。

すると、  
その黒い層の向こう側で。

巨大な“目”が開いた。

ゾワッ。

全身に悪寒が走る。

見られている。  
いや。  
“気づかれた”。

『観測者を確認』

声。  
機械みたいな、  
冷たい響き。

『記憶同期率、上昇』

「な……に……」

悠が震える。

ミナの顔色が変わった。

「ダメ!!」

彼女が悠の目を塞ぐ。

金色の波紋が、  
一気に広がった。

その瞬間。  
世界が戻る。

病院。  
雪。  
廊下。

全部、  
元通りだった。

「……はぁ……はぁ……」

悠は荒く息をする。  
ミナも震えていた。

「今の……何……」

するとミナは、  
苦しそうに呟く。

「……たぶん、  
 “見えてはいけないもの”」

     ◆

その夜。

悠は眠れなかった。

ベッドへ横になっても、  
頭の中でノイズが鳴り続ける。

そして。  
目を閉じるたびに。

あの巨大な“目”が、  
こちらを見ていた。