東京・新宿 輸入ピアノ.com オーナー伊藤のひとりごと

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先日(6月15日)、ハンガリー・ブダペストのリスト音楽院学部長兼主任教授

ドラフィー・カールマン先生と再会した。今年の1月以来の再会だ。

先生は、少しお腹が出てきて、かなり気にしておられるご様子。

話題は、当然ながら、フランツ・リストとブラームスに及んだ。特に、両者に共通しているジプシー(ロマ)音楽との関係だった。

勿論、ハンガリー音楽との関係は、それぞれ異なっている。

ブラームスは、いわゆる古典派の影響を受けながら、民族音楽とりわけジプシー(ロマ)の影響が際立っている。

しかし、彼自身は、ドイツ(ハンブルグ)出身で、ハンガリー人ではない。

1853年にハンガリーのヴァイオリニスト、エドゥアルト・レメーニと演奏旅行に行き、彼からジプシー音楽を教えてもらったことが創作活動に大きな影響を及ぼした。また、『ハンガリー舞曲集』で分かるように、レメーニから教わったジプシー音楽(当時はハンガリーの民俗音楽だと思われていた。)の影響も受け、『ピアノ四重奏曲第1番』などにその作風を取り込んでいる。

 一方、リストは、ハンガリーのドイツ領で幼少期を過ごし、ハンガリアンは、全く話せなかったが、自身の帰属意識は、ハンガリーにあり、ハンガリーの民族音楽(実はそれはジプシー音楽だった。)の影響を色濃く受けていた。

 もともと、ロマ音楽(ロマおんがく)は、西アジアやヨーロッパなどで移動型の生活を送る、あるいは送っていたロマ民族(ジプシー)を中心に発達してきた音楽だ。

ロマは北インドに起源を持つ移動型の民族であり、中近東、北アフリカ、ヨーロッパなどで生活している。ロマは西暦1000年以前には北インド、ラジャスタンを離れ、放浪生活に入っていったと考えられている。一方、現在もラジャスタンで演奏家や旅芸人として生活しているロマもいる。

 

ロマは各地を放浪し、音楽の演奏やダンスなどを行う旅芸人として生計を立ててきた。彼らによってもたらされた音楽は、現地の音楽に影響を与え、また影響を受け、相互に発展してきた歴史がある。ロマは北インドをたった後、イラン、イラク、アルメニア、その他中近東に現れるようになった。西暦1050年頃には既に、コンスタンティノポリスで音楽の演奏をしていたと考えられている。15世紀ごろにはエジプト、スーダン、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、ギリシャ、クロアチア、マケドニア、セルビアなどへと居住地を拡大、やがてヨーロッパ全域へと広がっていった。スペインのフラメンコの原型もロマの音楽とダンスであったと考えられるなど、彼らは放浪先の中近東やヨーロッパ各地の音楽文化に強い影響を与えてきた。

 

ロマの音楽の大きな特徴として、テンポや強弱の激しい変化や交替、細やかなリズムや奔放で自由な修飾、ソウルフルなヴォーカル、そして音高をすべるように移動するグリッサンドの多用などが挙げられる。音階の上では、和声的短音階の第4音を半音高くして二つの増二度音程を持つ独特の音階(ハンガリー音階などと呼ばれる)が用いられることが多いのも特徴である。ロマの音楽の影響力は特にハンガリーにおいて顕著であり、人口の上では多数派であるマジャル人を差し置いて、ロマの音楽がハンガリーの代表的な音楽と見做されるに至っている。ヨーロッパでは“ハンガリーの音楽”という言葉がロマの音楽と混同して用いられる傾向さえある(リストの「ハンガリー狂詩曲」やブラームスの「ハンガリー舞曲」などはそうした例である)。特にチャールダーシュと呼ばれる舞曲がハンガリーのロマを代表する音楽として親しまれている(ウィキペディア「ロマ音楽」参照)。

ある意味では、ジプシー(ロマ)民族は、差別されながらも、自由の民でもあった。

ユダヤ民族がそうであったように、北インドで発祥し、中近東、北アフリカ、ヨーロッパへと足跡をすすめ、国境を越えて、広大な地域でその独特の文化を広めてきた。

 カールマン教授によると、ロマの音楽家は、格段に評価が高く、人気を誇り、結婚式などへの出張演奏はハンガリーなどでは、欠かせないものだったという。

 そのような背景を持つハンガリー音楽の中でも、リストの「ハンガリアン・ラプソディー(狂詩曲)」は、とりわけ有名で、今でも映画音楽に使用されるなど、世界的に人気を保っている。

 次に、渡欧する折には、是非ともハンガリーを訪ね、本場のハンガリアン・ラプソディーをロマの演奏で聴いてみることにしたい。