わーすれてしまいたいことが~♪
とんでとんでとんでとんでとんでとんでとんで
・・・という歌。
酷い統合失調症などの治療においては
電気ショックで記憶を消すということが
おこなわれるそうですね。
わたしが、例の禁則地で学んだ結果
この治療はなるべくやらないほうが良いなと
考えています。ま。
よっぽどじゃないと電気ショック治療は
やらないようですけれども
古いインドの思想の中に
人体の周りにエネルギー
エネルギーの周りに感情
感情の周りに認知
認知の周りに記憶
というものがあると言います。
記憶そのものを消すと。
ひもづいて、身体に整合性が保てなくなる気がしています。
アイデンティティにかかわることで
存在にとって重要な項目が欠損するのです。
認知を変える。
ココが肝心要なのだと思います。
日本人の宗教観の中に
神様/仏様という区分がありますけれど
認知にかんしては仏様の分野ではないかと
わたしは感じています。
感情が産まれるのは
記憶のせいではなくて、
事象をどう認知したかにかかわってきます。
ぶたれた
ののしられた
さげすまれた
その様子は、記憶と認知と感情が
癒着して団子になったような感じです。
そんなブルーな出来事を
一旦、
記憶と認知と感情に仕分けをして
認知をバラ色に塗り替えることです。
良い認知が良い感情を産んで
良い感情がよいエネルギーを産みますから
肉体が健康で元気になります。
そして、どんな体験もバラ色にかえるために必要な
ストーリーこそが。
自分で人生を選んで生きているんだ。という
強い意志の思いじゃないのかな。って
言うことでした・。・
バラ色に塗り替えられない記憶は
じつのところありません。
ショートケーキのイチゴを先に食べるか
後でたべるか
ちゃんと自分で選んで産まれてきているのです。
憎い親だっても
離れる辛さを考えたならば
憎いとはありがたいことなのです。
ぶたれてすぐなくなる子供だって
その生き様を社会に問いかけようとして
選んで産まれます。なにも
罪や罰を背負って産まれてくるわけでは
ないのです。
だれもがみな自作自演の主人公なのです。
幸せをしっかり感じ取るために
ちょっとした不幸さえもをわざと人生にしこんで
この世にやってくるのです。
具体的にネガティブに感じられる出来事について
いかにポジティブな意味づけができるかが鍵です。
たとえば、苛め。
そこに居続けられないほど苛められなかったらば、
自分が白鳥の子供だと気づくこともなく
退屈な一生をおえるでしょうね。
失恋とかいうけれども。
恋自体がそもそも病気じゃないのですか。
恋に落ちるとは、
風邪をひく。キャッチコールドと同じこと
恋の病。恋わずらい。
振られたなり醒めたとかは、悲しむことではなく。
喜ばしいこと。
病気が治ったってことですもん。
恋は治るもの。一生病気でいたいと望むほうが
よほど異常なんですよね。
まあ。他にもネガティブに感じられることが
たくさんあるようにみえるけれども
どんなこともよい意味づけができます。
どうしてもよくかんがえられなかったら
それはバラ色の人生が
輝いてみえるためのスパイス
シナリオの一部なのですよ。
そう考えて過ごしていれば。
なんか、いろいろ楽じゃないですかね。
すべて自分で書いて体験している事柄ならば、
人目を気にして我慢をしなくていいじゃないですか。
嫌な場所や人からは離れたらいいのです。
根性なしと叫んでいるのは
しょせん。脇役のその他大勢でしょ?
被害を受けたダメージを受けたといっては
自分を余計に苛めなくていいのですよ。
わたしが主人公なのですから!