彼はこう囁いた。

「揚げ饅頭おごるよ」

この人は何を言ってるんだろう、この状況で、揚げ饅頭はない。揚げ饅頭を食べたことはないけど、そりゃ一度は食べたいけど、別れ話でそう来るか?

そう、一事が万事それだった。黒崎の鼻の近くで素潜りをしている時もそうだった。クラゲに刺された私を見て、「ステロイドで治るよ」って言ってた。ステロイドなんて無いのに、何言ってんだろ。でもあの頃は、付き合い始めたばかりだったから、笑ってた。でも、今はもう違う。

いつから、すれ違ったのだろう。なんでこうなったのか。やはり、人は一人で生きて行くものなのか。諦めに似た感情を私は感じていた。

彼の赤く見える目を飛び越えて、ガラスの向こう側を見ている自分に気がついたとき、目の前をアルファロメオが通りすぎた。あー、イタリアの車だなって思った瞬間、聞きたくない音が響いていた。

キキーィ、そんな漫画みたいな音ってある?でも、それは命を砕くような音だった。

そんな時、彼の動きは迅速だ。外に飛び出ると、跳ね飛ばされた少女を抱きかかえていた。いや、頭をそんなに持ち上げなくて、動かさないでと言いたかったけど、知らない子の為にそこまではできなかった。

「うーん」って、これも漫画っぽいけど、本当に言ってたのを、今でも覚えている。正直、死んだなと思ってたから目を逸らしてたけど、その声を聞いて、やっと正面からその子を見るとことができた。とっても小さい女の子で、髪の長い子だった。

「大丈夫か?」ステロタイプな聞き方をする彼。「多分、平気」しっかりした口調で答える女の子。それは不思議な音色を持つ声だった。心がざわついたのかもしれない、つい、「大したことないじゃん」って口走っていた。

そんな私に何を感じたのか、「これから、この子を病院に連れてく。遅くなるから、先に帰っていいよ」、優しさをオブラートにした拒絶、私は自分の言葉を後悔しながら帰るしかなかった。

〜〜〜〜〜

彼はこう呟いた。

「マカロン食べたくない?」

この前の少女の一件で、お流れになった別れ話の続き。なぜ、そうなるか。お菓子で誤魔化して、また元どおりにできると信じてるのだろうか。公園のベンチで、近くにお店もないのに急に言い出す、そんな彼の姿は滑稽だけど、愛おしく思えた。この前の自分の醜さに我ながら萎えてたからなのだろうか。やっぱり、この人しか居ないのかな、そう思ってしまう自分を感じていた。

「やっぱり、あなたのことが、」と言いかけた時、目の前をバイクが横切ったのを忘れられない。多分、ハーレーだと思う。バイク詳しくないから、断定はできないけど。そのハーレーは、斜めに滑って行った。誰かを避けるように。

やっぱり、彼は一番に駆けつけて、倒れた人を抱きかかえていた。何も知らない人だなってまた私は思っていた。

ハーレーにひっかけられたのだろう、メタル風っていうのかな、ドクロのTシャツに革ジャンを着ている女の子は呆然としていた。顔立ちは、中学生にしか見えなかった。ドクロを着ても可愛らしさの補強にしかならない。そんな感じだった。私にない若さ可愛さ。彼女を抱きかかえる彼。なんでだろう、その場を離れる私を上から見ながら、心が閉じて行くのを感じていた。

〜〜〜〜

彼はやっぱり変わらなかった。

「イチゴって美味しいよね」

三度目の正直。今日こそ、全てにケリをつけよう。あなたの優しさは知ってるけど、もうダメなんだ。ゴメンね。今までありがとう。

何度も練習したけど、喉がざらついて言葉が出なかった。だから、ずーっと黙ってたんだよ。

二度も邪魔されたから、今度は道が見えない場所で話したかった。だから空港に来たんだよ。二人で大きな空を見るためじゃないよ。心の声ではそう言ってたけど、言葉にはならなかった。

でも、自分のことだから自分でするしかない、長い沈黙の後、足りない勇気を振り絞ったんだよ、あの時。

「で、さあ、やっぱりさあ、」喉がカラカラになってたよ。

でもね、見ちゃったんだ。小さな女の子が飛行機の前にいるのを。あの頃はまだジャンボがあったんだね、動き始めたジャンボの前におかっぱの女の子が歩いてた。

三度目の正直っていうか、今度は私が先に駆け寄った。彼は体が大きいから膝を痛めてるのを知ってたから。空港のフェンスは高すぎた。

ジャンボのタイヤは大きくて、轢かれたらペチャンコになるけど、タイヤの横がその子を掠めただけだった。それでもすごく跳ね飛ばされてて、体が変な方向に捻れてた。

彼が抱きかかえるのをどうかと思ってたけど、そんな女の子が居たらやっぱり抱きかかえるしかないって、自分の番になってやっと分かった。身体中の骨がバラバラになったって思ったら、抱きすくめるしかなかった。でも違った。その子の体は新体操の選手みたいに柔らかいだけだった。

意識を失ってる女の子はその愛らしさで私の母性本能をくすぐって、あり得ない事態なのに、私の心はなぜかそんなに動揺してなかった。

フェンスをやっと乗り越えてきた彼は、そんな私を見てどう思ったのだろうか。今でもちょっと気になる。

〜〜〜〜

テレビの中で彼とあの子たちが歌って踊ってるのを見ると、今でも鮮明に蘇る、ちょっと昔の淡い思い出