韓国の現状①ソウル蚕室(チャムシル)の「三田渡碑」 | 「ぶわっ」

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ソウル地下鉄2号線の蚕室駅界隈はロッテグループの施設が集中している。これは地下鉄を出たところにある地下街の泉。ロッテというよりローマ風?待ち合わせ場所に作られたのだろうか?泉の中にはコインも投げ込まれていた。

 

地下エリアにはロッテリアもある。

 

蚕室駅へ行く途中の駅の乗り換え地下鉄通路。クレジットカードを使いセルフサービスで外貨換金できる設備が整っている。外国人旅行者向けの金融サービスやIT通信システム、観光情報提供サービスは充実している。こういう先端テクノロジーでは日本のかなり先を行っている。

 

地k下鉄の通路にある展示物。これは日本領土・竹島(韓国でいう独島)。独島はわが領土というアピールである。こういうコーナーは地下鉄などのいたるところにあり珍しいものではない。だがふだんは国民の関心は薄いようで韓国人でわざわざ見ている人は見当たらなかった。

 

地下鉄2号線「蚕室駅」の地上に出ると夜でも明るい。人通りもあり車も多い。蚕室は江南の中心地のひとつである。

 

ロッテワールドタワーを見上げる。韓国で一番高い!123階建ての超高層ランドマークタワーである。

 

上のロッテワルドタワーの一階外観部分。

 

ホテルもある。変わった光彩を放つ人形?が宿泊客を出迎えている。

 

蚕室へ来たのはロッテを見るためではない。地下鉄「蚕室駅」を出るとロッテワールドのある石村湖がある。そのほとりに建っている「三田渡碑」を見るためである。

 

ソウルの江南(カンナム)地区といえば韓国でも最も富裕層の多い場所である。
そのなかで蚕室(チャムシル)と言えばロッテグループの本拠地として知られている。
韓国人も無関心のようだが実はこの蚕室に韓国がシナ属国の歴史をいまに残す「三田渡碑」がある。

「三田渡碑」(さんでんとひ、サムジョンドビ、삼전도비、Samjeondo-bi)

三田渡碑の全体。夜間のライトアップもしている。

あたりは暗く男女のペアが碑の影のベンチで何か語らっていた。碑のまわりは人通りも少なくこの歴史的にも重要な石碑は忘れ去られたかのようにひっそりとたたずんでいる。

 

三田渡碑はロッテワールドのある石村湖のそばに設置されている。湖のまわりはジョギングや散歩コースに整備されている。



李氏朝鮮は14世紀末の建国以来、明の朝貢国であったが、17世紀に入ると満州(中国東北部)で女真族が建てた後金が勃興した。
後金は1636年、ホンタイジが皇帝を称し、国号を清と変更すると、朝鮮に対して朝貢及び明への派兵を求めた。
しかし朝鮮の仁祖は清国への朝貢を拒絶し、清皇帝を認めないと公表した。
これに激怒したホンタイジが10万の大軍で朝鮮に侵攻した。その結果、朝鮮軍は敗北(丙子の乱)し清へ服属をする。
このとき清国は徹底的に反抗した朝鮮を叩きのめした。
まず敗戦した朝鮮の「仁祖」は漢江南岸の「三田渡」にある清軍陣営に出向いたのだがここで屈辱的な清に対する降伏の礼を行わされた。
仁祖は朝鮮王の正服から平民の着る粗末な衣服に着替え、受降壇の最上段に座るホンタイジに向かって最下壇から三跪九叩頭の礼による臣下の礼を行い許しを乞わされた。
さらに戦後和議として、11項目からなる「丁丑約條」が結ばれた。

 

朝鮮王は最下壇から三跪九叩頭の礼による臣下の礼を行い許しを乞わされた。


かつては石碑のそばに碑文の内容を説明するための上のレリーフがあった。

だがいまはあまりに屈辱的な朝鮮王の姿が浮き彫りにされているためか撤去されている。


長くなるがその内容を列記してみると次の11項目だ。

朝鮮は清国に対し、臣としての礼を尽くすこと。
朝鮮は明の元号を廃し、明との交易を禁じ、明から送られた誥命と明から与えられた朝鮮王の印璽を清国へ引き渡すこと。
王の長子と次男、および大臣の子女を人質として送ること。 
清国が明を征服する時には、求められた期日までに、遅滞なく援軍を派遣すること。 nogo
内外(清国)の諸臣と婚姻を結び、誼を固くすること。
城郭の増築や修理については、清国に事前に承諾を得ること。 
清国皇帝の誕生日である聖節・正朔である正月一日・冬至と慶弔の使者は、明との旧例に従って送ること。 
清国が鴨緑江の河口にある島を攻撃する時に、兵船50隻を送ること。 
清国からの逃亡者を隠してはいけない。 
昔の慣例に従い日本と貿易を行うこと。
清国に対して黄金100両・白銀1000両と20余種の物品を毎年上納すること。

さらにホンタイジは、自身の「徳」と仁祖の「過ち」、そして両者の盟約を示す碑文を満州語・モンゴル語・漢語で石碑に刻ませ、1639年に降伏の地である三田渡に建立させた。これが「大清皇帝功徳碑」(「三田渡碑」)である。この碑は紆余曲折を経て現在ソウルの蚕室(チャムシル)ロッテワールドのある石村湖のほとりにある。

 

 

石碑


●碑文の大意●
愚かな朝鮮王は、偉大な清国皇帝に逆らった。
清国皇帝は愚かな朝鮮王をたしなめ、己の大罪を諭してやった。
良心に目覚めた朝鮮王は自分の愚かさを猛省し、偉大な清国皇帝の臣下になることを誓った。
我が朝鮮はこの清国皇帝の功徳を永遠に忘れず、また清国に逆らった愚かな罪を反省するために、この石碑を建てることにする。


 

一番下に日本語での説明文もある。この画像を拡大すれば一部を読むことができる。


その後、清の属国となった李王朝はどのように清国から扱われたのか?
清の支配体制に組み込まれた朝鮮は、清からの勅使派遣を迎え入れるために迎恩門を建てさせられた。
清からの勅使は1637年から1881年までの244年間に161回に及んできる。
そのたびごとに朝鮮国王は迎恩門に至り、三跪九叩頭の礼により迎えた後、慕華館での接待を余儀なくされた。
たかだか清国の役人が来るのを李王朝の朝鮮国王が遠い郊外まで出向いて土下座して出迎えるのである。

李朝時代の「迎恩門」(右)。その左奥に見える建物が「慕華館」。朝鮮王はここで清国の使者である役人を三跪九叩頭の礼により迎えた。

 

 

つまり朝鮮の国王は清国の皇帝によって任命されその地位は清国廷臣以下であった。朝鮮は典型的な清国の属国奴隷国家そのものだった。
「清朝皇帝の廷臣の下にあった。つまり朝鮮国王といえどもその地位は皇帝の奴隷のまた奴隷である」
(「歪められた朝鮮総統府」 黄文雄著 光文社)

逆に朝鮮から清への朝貢使(朝鮮燕行使)は500回以上にも及んでおり(当初は毎年4回、1644年以降は年1回)、これは当時の清の冊封を受けていた琉球(2年に1回)、タイ(3年に1回)、ベトナム(4年に1回)などと比べても突出して多いものであった。
このような清と朝鮮のこのような関係は、日本と清による日清戦争で日本が勝利し、下関条約で日本が清に李氏朝鮮の独立を認めさせる1895年まで、約250年間続いた。
以上はWikipediaの内容を参考にした。


いまだに韓国はシナ属国である。それはいまに始まったことではないのだ。
「三田渡碑」はその証拠である。
ソウルへ行かれる方は時間あれば蚕室でこの碑を見物されてはいかがだろうか。

●「三田渡碑」についてさらに詳しくお知りになりたいときは以下のブログを参照ください。

 

 


 

史跡第101号
http://krruins.cho88.com/kyonggido/seoul/pg165.html

李氏朝鮮、清への服属の碑・三田渡碑【ソウル・松坡区】
https://blog.goo.ne.jp/rekimania/e/3cdd22424af3ca513014f076bf18eb6b

<丶`∀´>屈辱の歴史を忘れるなニダ!三田渡碑赤ペンキ事件
https://ameblo.jp/yamanakaseiniku/entry-12372786128.html