友人は妄想
友人という存在は、不確かで、主観的なものに過ぎない。
言葉の端々で、自分の考える「友人」と他人の考える「友人」の理想像に相違があることが如実だと理解できる。
もはや私には「友人」はいない。
「友人」は消えた。
損得勘定を含まぬ関係を真の友情と言うのであれば、その損得勘定は一体誰の価値観により決まっているのだろう。
必死だった感情が、熱を失ったようにさめていく。
私は必要なかった。
誰も私を必要とはしない。
私ですら自身を必要としていない。
あるべき理由を失った。
泣く者がある傍らで、笑う者がある。
私は後者になれはしないのだと悟った。
いったい何を私は期待していたのだろう。
のばしても、それを受け取ってくれる手は差し伸べられないとわかっていたのに。
水のない場で水車が回る。
意味もなく。
死への恐怖が潰えたときに消えてしまいたいと強く願う。
名言
個人的に好きな名言や好きなフレーズを。
陰があるから、光が眩しい。
冬があるから、春が暖かい。
自由だって、一緒ですよ。
――ショートアニメ「むきだしの光子」
高い壁を乗り越えた時、その壁はあなたを守る砦となる
――出典不明
どうにもならない今日だけど平坦な道じゃきっとつまらない
君と生きてく明日だから這い上がるぐらいでちょうどいい
――歌詞「wind climbing~風にあそばれて~」
失くしたものが増えたさみしさを身軽になれたんだと笑えるかい
――歌詞「太陽の真ん中へ」
成功が努力よりも先に来るのは辞書だけである
――出典不明
ルーシー
「SOMETIMES I WONDER HOW YOU CAN STAND BEING JUST A DOG..」
(時々,あなたはどうして犬なんかでいられるのかと思うわ…)
スヌーピー
『YOU PLAY WITH THE CARDS YOU'RE DEALT..WHATEVER THAT MEANS』
(配られたカードで勝負するっきゃないのさ…それがどういう意味であれ)
――スヌーピー(谷川俊太郎訳)
Impossible(不可能)をI’m possible(可能)に
――ダイナブックのCM
No rain,No rainbow(雨なくしては虹はでず)
――ハワイのことわざ
あなたが死にたいと願った今日は、昨日死んだ人が生きたいと願った明日
――出典不明
陰があるから、光が眩しい。
冬があるから、春が暖かい。
自由だって、一緒ですよ。
――ショートアニメ「むきだしの光子」
高い壁を乗り越えた時、その壁はあなたを守る砦となる
――出典不明
どうにもならない今日だけど平坦な道じゃきっとつまらない
君と生きてく明日だから這い上がるぐらいでちょうどいい
――歌詞「wind climbing~風にあそばれて~」
失くしたものが増えたさみしさを身軽になれたんだと笑えるかい
――歌詞「太陽の真ん中へ」
成功が努力よりも先に来るのは辞書だけである
――出典不明
ルーシー
「SOMETIMES I WONDER HOW YOU CAN STAND BEING JUST A DOG..」
(時々,あなたはどうして犬なんかでいられるのかと思うわ…)
スヌーピー
『YOU PLAY WITH THE CARDS YOU'RE DEALT..WHATEVER THAT MEANS』
(配られたカードで勝負するっきゃないのさ…それがどういう意味であれ)
――スヌーピー(谷川俊太郎訳)
Impossible(不可能)をI’m possible(可能)に
――ダイナブックのCM
No rain,No rainbow(雨なくしては虹はでず)
――ハワイのことわざ
あなたが死にたいと願った今日は、昨日死んだ人が生きたいと願った明日
――出典不明
人に科せられた罰
人に科せられた罰と罪について、皆さんは考えたことがありますか。
私は常々思うのですが、いつも答えは出ません。
ただ、ひとつの大きな罰として「老いること」があると思うのです。
生きることもそれに準ずると言えます。
ではそれは何故か?
個人的な情緒の問題なので、深くは考えないでお読みいただければ幸いです。
老いること。
それは人間に限らず、極端な話をいえば短命である蝉や蛍も死に向かい老いています。
また、さらには広義では、細菌なども老いているということになります。
ただ、人間にあってそのほかの動物にないもの。
それは、人間が情緒をもつ生き物だということです。
もしかしたら、私たちが知らないだけで、動物はおろか植物すらも情緒をもっているかもしれませんが、それはまた少し隅のほうに置いておくとします。
(ちなみに、季節に哀愁を感じるなどの情緒は、おそらく人間特有の感情ではないかと思っております)
親なり兄弟など、周囲の愛する人が先立つ苦痛。
ときを経て変わり行く風景。
見知ったものが次第に消えていく悲しみ。
人は老死に近づくにつれ、背負う悲しみもいっそうのものとなり得るのではないかと思うのです。
(若くしてその命を終えてしまう方では、また違う悲しみや辛さもありましょうが、ここでは触れないでおくこととします)
高齢者の無縁死や孤独死が増えているこのご時勢では、より「老い」への恐怖や不安が募ることでしょう。
この世に生を受け、子を成し、愛するものを見送り、また、見送られる。
おおよそ一世紀のあいだを生きていく中で、培われる感情や思い出は計り知れません。
老化に伴い、物事を忘れるようになってしまうことは、細胞の衰えでもありますが、情報や思い出がしまいきれずに溢れ出てしまうということでもあると思うのです。
それほどに、人間は、多くの様々な思い出の中で生きているのです。
老いるということは、ある種、可変のものを受け入れ続けていかねばならないということ。
様々なものを、たとえ思い出としてしまおうが、「なくしていく」ということ。
愛するものを残し、自分を「なくす」ということ。
それこそが、人間に科せられた罰なのではないかと思うのです。
知識や知恵をもつかわりに、その「知恵の実」に苛まれることが。
私は老いることが最も恐ろしいです。
見知ったものや風景が移り変わる現実を、受け入れたくないのが本音です。
成長および老いとは、悲しみとも向き合っていかなければならないということだと常々考えさせられます。
ほんの刹那の幸せを感じるために、数多の苦痛に悩むのなら、私は生きることに価値観を見いだせません。
それでも生きることを本能でおこなっているのだから、おかしいですね。
生きたい本能と死にたい理性のはざまで、結局は本能にしたがう自分が、滑稽で致し方がありません。
少しの幸せを追い求めることができるという可能性にすがっているに過ぎないのかもしれません。
いつか答えが見つかったとき、私はこの世に別れを告げるでしょう。
きっと、すべてを悟ったならば、死に恐怖もなく、生きることの無意味さを嘆くことで。
幸せはまやかしだと、ある種の麻薬ですらあると、私は信じて疑いません。
幸せのその先にはなにがあるというのでしょう。
終には悲しみや恐怖を経た死が待ち受けているというのに。
何をも知らぬまま、しずかに消えてしまえたら、それが一番の幸せかもしれません。
私にとってはそれだけが望みであり、一縷の光なのです。
私は常々思うのですが、いつも答えは出ません。
ただ、ひとつの大きな罰として「老いること」があると思うのです。
生きることもそれに準ずると言えます。
ではそれは何故か?
個人的な情緒の問題なので、深くは考えないでお読みいただければ幸いです。
老いること。
それは人間に限らず、極端な話をいえば短命である蝉や蛍も死に向かい老いています。
また、さらには広義では、細菌なども老いているということになります。
ただ、人間にあってそのほかの動物にないもの。
それは、人間が情緒をもつ生き物だということです。
もしかしたら、私たちが知らないだけで、動物はおろか植物すらも情緒をもっているかもしれませんが、それはまた少し隅のほうに置いておくとします。
(ちなみに、季節に哀愁を感じるなどの情緒は、おそらく人間特有の感情ではないかと思っております)
親なり兄弟など、周囲の愛する人が先立つ苦痛。
ときを経て変わり行く風景。
見知ったものが次第に消えていく悲しみ。
人は老死に近づくにつれ、背負う悲しみもいっそうのものとなり得るのではないかと思うのです。
(若くしてその命を終えてしまう方では、また違う悲しみや辛さもありましょうが、ここでは触れないでおくこととします)
高齢者の無縁死や孤独死が増えているこのご時勢では、より「老い」への恐怖や不安が募ることでしょう。
この世に生を受け、子を成し、愛するものを見送り、また、見送られる。
おおよそ一世紀のあいだを生きていく中で、培われる感情や思い出は計り知れません。
老化に伴い、物事を忘れるようになってしまうことは、細胞の衰えでもありますが、情報や思い出がしまいきれずに溢れ出てしまうということでもあると思うのです。
それほどに、人間は、多くの様々な思い出の中で生きているのです。
老いるということは、ある種、可変のものを受け入れ続けていかねばならないということ。
様々なものを、たとえ思い出としてしまおうが、「なくしていく」ということ。
愛するものを残し、自分を「なくす」ということ。
それこそが、人間に科せられた罰なのではないかと思うのです。
知識や知恵をもつかわりに、その「知恵の実」に苛まれることが。
私は老いることが最も恐ろしいです。
見知ったものや風景が移り変わる現実を、受け入れたくないのが本音です。
成長および老いとは、悲しみとも向き合っていかなければならないということだと常々考えさせられます。
ほんの刹那の幸せを感じるために、数多の苦痛に悩むのなら、私は生きることに価値観を見いだせません。
それでも生きることを本能でおこなっているのだから、おかしいですね。
生きたい本能と死にたい理性のはざまで、結局は本能にしたがう自分が、滑稽で致し方がありません。
少しの幸せを追い求めることができるという可能性にすがっているに過ぎないのかもしれません。
いつか答えが見つかったとき、私はこの世に別れを告げるでしょう。
きっと、すべてを悟ったならば、死に恐怖もなく、生きることの無意味さを嘆くことで。
幸せはまやかしだと、ある種の麻薬ですらあると、私は信じて疑いません。
幸せのその先にはなにがあるというのでしょう。
終には悲しみや恐怖を経た死が待ち受けているというのに。
何をも知らぬまま、しずかに消えてしまえたら、それが一番の幸せかもしれません。
私にとってはそれだけが望みであり、一縷の光なのです。
正論を語ろうとする者
私は様々なことに対して自分の思いを記事にあらわしていますが、そこに絶対の正義を強調することはしておりません。
もしもそういった風に受け止められる方がいらっしゃるのであれば、あくまでも一個人のひとつの考えだと捉えていただけたら幸いです。
皆さんに嫌いなものはありますか?
私は正直にいえばあります。
ですが、それをここに羅列したところで何かが変わるわけではありません。
私が嫌うものを好きな人が、不快な思いをするだけです。
自分が攻撃もしくは非難を受けたとき、人は防衛機制に入りがちです。
自分そのもの、またその価値観を否定されていることと等しいからだと思います。
‘言いわけ’をすることは誤りではありません。
自己の考えや主張を、説明することで補い、より人に理解してもらおうとする行為だからです。
ただ、反射的に、あわよくば人を傷つけかねないことを言動にしてしまう人があります。
それは正しいでしょうか。
自分が傷つけられたからといって、自分もまた、だれかを傷つけてよいものでしょうか。
結局は、いたちごっこになりかねない傷つけ合いを、繰り返す意義はあるのでしょうか。
自分の正義や価値観を押し付けることほど虚しいことはありません。
またそれを公に発してしまうことほど滑稽なことはありません。
自分が正しいと思っている人があるのならば、それは正しくもあり誤りです。
自分にとっての正義に違いはありませんが、他人に押し付けられるものではありません。
そういった方々は、中途半端に自分を美化している人ほど多い傾向にあると私は思うのです。
もしもそういった風に受け止められる方がいらっしゃるのであれば、あくまでも一個人のひとつの考えだと捉えていただけたら幸いです。
皆さんに嫌いなものはありますか?
私は正直にいえばあります。
ですが、それをここに羅列したところで何かが変わるわけではありません。
私が嫌うものを好きな人が、不快な思いをするだけです。
自分が攻撃もしくは非難を受けたとき、人は防衛機制に入りがちです。
自分そのもの、またその価値観を否定されていることと等しいからだと思います。
‘言いわけ’をすることは誤りではありません。
自己の考えや主張を、説明することで補い、より人に理解してもらおうとする行為だからです。
ただ、反射的に、あわよくば人を傷つけかねないことを言動にしてしまう人があります。
それは正しいでしょうか。
自分が傷つけられたからといって、自分もまた、だれかを傷つけてよいものでしょうか。
結局は、いたちごっこになりかねない傷つけ合いを、繰り返す意義はあるのでしょうか。
自分の正義や価値観を押し付けることほど虚しいことはありません。
またそれを公に発してしまうことほど滑稽なことはありません。
自分が正しいと思っている人があるのならば、それは正しくもあり誤りです。
自分にとっての正義に違いはありませんが、他人に押し付けられるものではありません。
そういった方々は、中途半端に自分を美化している人ほど多い傾向にあると私は思うのです。
決められた価値と平等の普遍性
すべての生き物は同等の価値をもち、また、だからこそ、上もなく下もないのが本来のあるべき私たち生き物の姿なのだと思います。
かの有名な福沢諭吉で知られる学問のすゝめですが、そこには概ね「人は平等ではありませんよ、学こそが差をつけるのですよ」といったことが著されています。
そこでいう差は、人間としての差というよりかは、どちらかというと社会における差だと私は解釈しています。
ただ、社会的に差があれど、人間としての価値に差が生じるのかといえば、それは誤りなのではないでしょうか。
よく私は人に見下されますが、そのときに常々思うことがあります。
「私とこの人のあいだにどれほどの違いがあるというのだろう」と。
秋田に住んでいたときには見たことのなかったホームレスの方々や、家柄や一定の土地に住まいを持っているだけで差別を受ける方々。
夏に飛び回る蚊や、忌み嫌われがちなゴキブリ、犯罪者。
上に挙げたものと私とのあいだに、どれほどの隔たりがあるというのだろう、と。
優劣を、大概の人が勘違いしている。
自分を基準に、誰が有益であり、だれが無益であるかを考えるほど愚かなことはありません。
仕事においてはその限りとはいえませんが、あまりにも、思い違いをしている人が多すぎる。
平等や平和という言葉は都合が良いですね。
つねに基盤は大多数に便乗している自分の固定観念であるということを自覚している人が、いったいどれくらいあるというのでしょう。
たとえ自分は平等な精神を持ち合わせていると自負している者でも、果たしてその深層心理はいかほどのものなのでしょう。
一様に言えるわけではありませんが、得てして、自分の‘立ち位置’を決定づけてしまう人が多いのが現実だと思うのです。
かの有名な福沢諭吉で知られる学問のすゝめですが、そこには概ね「人は平等ではありませんよ、学こそが差をつけるのですよ」といったことが著されています。
そこでいう差は、人間としての差というよりかは、どちらかというと社会における差だと私は解釈しています。
ただ、社会的に差があれど、人間としての価値に差が生じるのかといえば、それは誤りなのではないでしょうか。
よく私は人に見下されますが、そのときに常々思うことがあります。
「私とこの人のあいだにどれほどの違いがあるというのだろう」と。
秋田に住んでいたときには見たことのなかったホームレスの方々や、家柄や一定の土地に住まいを持っているだけで差別を受ける方々。
夏に飛び回る蚊や、忌み嫌われがちなゴキブリ、犯罪者。
上に挙げたものと私とのあいだに、どれほどの隔たりがあるというのだろう、と。
優劣を、大概の人が勘違いしている。
自分を基準に、誰が有益であり、だれが無益であるかを考えるほど愚かなことはありません。
仕事においてはその限りとはいえませんが、あまりにも、思い違いをしている人が多すぎる。
平等や平和という言葉は都合が良いですね。
つねに基盤は大多数に便乗している自分の固定観念であるということを自覚している人が、いったいどれくらいあるというのでしょう。
たとえ自分は平等な精神を持ち合わせていると自負している者でも、果たしてその深層心理はいかほどのものなのでしょう。
一様に言えるわけではありませんが、得てして、自分の‘立ち位置’を決定づけてしまう人が多いのが現実だと思うのです。
