母の意識と人生を思う。


わたしの母の話をしようと思う。

わたしが20歳の時病気で他界した。


母は 木材商を営む祖父、大阪からお嫁に来た祖母、母、母の妹の4人家族で


自他共に認める箱入り娘 だったそう。


子供が好きで 教育学部に。

保育士として働きながら

単身赴任でほぼいない父と結婚して子供を4人育て


37歳で癌になって

49歳で亡くなるまで。


入退院 抗がん剤 手術 臓器を摘出したり


言わなければ癌患者とわからないくらい

ニコニコしてて元気で、可愛い人だった。


毎年 誕生日とクリスマスには手紙をくれて。

ブランドのバックとデパートのお菓子とおしゃれが大好きで。

どんな時でも こどもの味方で居てくれた。



最期の年。骨転移するまでは

弱音などは聞いたことがなかった。



私が20歳で子供を産めなくてダメにした時。

【孫の顔見損ねたのか】と言われて

そのあと間も無く 危篤でICUに入った。


泣きながらタクシーにのった夜を今も覚えている。



病院についた時母は自力で呼吸が出来ず、

いつ急変するかわからない危険な状態だった。


呼吸器をつけていないといけないので


会話ができず あいうえおのボードを指さしてもらって

意思疎通をした



【い か せ て】


あんなにショックだった言葉は今までなくて

母を心配させまいと病室から離れた待合室で

堪えきれず、1人で1時間近くわんわん泣いた。


私のせいだ。

わたしがお母さんに心配をかけたから。


兼ねてから 父親に

『お前たちがお母さんに心配をかけたから悪くなったんじゃ❗️』と言われた言葉が頭の奥でリフレインした

(※今思えば父も自分が悪いと思う思いからバツが悪く、自覚があったんだろう)


看護師さんが見つけてくれて

随分と 慰めてもらったように思う。


小さな子供のように泣きじゃくっていた。


看護師さんは ただ

『大丈夫』といって 背中を撫でてくれた。



泣くしかなかった。


それでも、2週間の間に

少しでも寝泊まりするICUの生活を楽しもうと


母の好きなぬいぐるみ(ぬいぐるみ)を枕元に置いて話しかけたり

母の好きな音楽をかけたり

祖母と母の体を撫でて浮腫んでパンパンになった足が綺麗になったり

元は保育士をしていた母に頼まれて

絵の得意な私が ガンを食べるキラー細胞

おいもちゃん の

絵本を作って読み聞かせたり(本)


泊まり込みの生活で少しでも楽しもうと

好きなお肉やさんでコロッケを買ってみんなで食べたり

その時の仲間に誘われて元々予定していたガラス吹き体験に

いつでも戻れるようにしながら参加していたりした。

(今もそのグラスは大切に使っている)


その友達のお祖母さまも同じく癌で保育士をしていて

完治させたのち 山にも登った というエピソードを

お見舞いで病室に来て話してくれた。


母は 嬉しそうに

その時自由に動く足をあげておどけてみたりして

嬉しそうだった。


私もとっても嬉しかった。



何度も危篤になって

その度に電気ショックや処置をする為に

待合室で待った。

死が迫るのは分かっていたけれど、それでも恐怖と少しでも状況を楽しもうとする事の繰り返しで



気づけば2週間。


7月の天気の良いよく晴れた空で。

空がとっても綺麗だった。


最期の日。



お医者さんから危篤最初の日に説明をうけて

覚悟はしていたものの


肺に水がたまり 呼吸ができなくなり

何度目かわからない緊急処置。



看護学校に通っていた親友が

耳は最後まで聞こえるから 声をかけ続けて。


と言ってくれて


その時レコード会社がついてデビューで地方を回っていた兄が戻るまでは


と 母を呼び続けた。



泣きすぎて

叫びすぎて 過呼吸になって私は倒れた気がする。

(記憶が少し飛んでいる)


最期に父が 母の耳元で

【吸って 吐いて】


と 優しく声がけしていたのを

記憶の片隅で覚えている。




最期にきてくれたのは

看護学校に通っている親友と親友の母。

その時 諸事情で別れていたもののお世話になっていた 彼のお義母さんの、3人だった。

(当人は別の女性のところに行っていて 間に合わかなかった)


私は気づいたら別の部屋で倒れて

覗き込まれていた。




この時助けてくれた恩を私は忘れていなくて。

絶対に恩返ししようと思った。


私が出来ることはなんでもしようと誓ったのを覚えている。


だから彼に対してやれる事は全部やった。





母のお葬式には

保育士時代の教え子や

市長さんなど

たくさんの人がきてくれて。


薔薇が好きで菊が嫌いな母のために

会場はピンクのバラ(薔薇)

棺桶も薄いブルーにピンクの薔薇の刺繍が入った特注だった。

枕元には危篤時に一緒に過ごしたぬいぐるみ(ぬいぐるみ)


メルヘンでラブリーなお葬式会場だったなと思う。


火葬場に向かう途中

職場の前を通ったら 母がいた職場の人たちが出てきて頭を下げてくれた。


火葬場にもたくさんの母を慕う人が来て

棺桶から顔に向かって話しかけてくれていた。



火葬のボタン(ボタン)を押して

控室にみんな歩いていく中


父親が目頭を押さえて泣いているところを初めてみた。




墓跡にも 母が大好きで集めていたペコちゃんの石像が飾られた。

墓標には亡くなる前にきいていた歌から

【いつもそよ風のように】と刻まれた。



ここまで 書いて思う。


母の想い。母の人生。



結局 孫の顔を見せることも叶わなかった。

父は 母が亡くなってから沢山のことをしていたけど

生きてるうちに もっとしてあげてほしかった。


生と死 についてこだわらないならば


母の人生は死しているけれど

母の想いは 私の胸に今も息づいて 生きている。


今年1月実家の和歌山で暮らした時も 母のことを覚えている人が 沢山出会って よくしてくれた。



ただ、それは 美談として後から語った

外から見た話だ。




亡くなる前。

母は病気で夜中に具合を悪くしては

激しく咳き込んだりして

よく夜中に私は背中をさすったり 手を当てたりした。


父は隣で寝ていたにもかかわらず

起きなかったらしい。






母は孫の顔を見ることもできなかった。

私が産むという意思をもっと強く持てば 状況が変わったかもしれない。



流れだ 空気だ そんな状況だっただ


もう沢山だ。


母は仕事でも 病気をしている為に

母より仕事もしない 後から入った社員が上の役職についてお給料をたくさんもらっている、悔しいと嘆いてもいた。


1人で 弱音を吐かずに

辛いことや病気がしんどくても

すぐに気持ちを切り替えて笑顔で


私たち子供にも全力で向き合って。


最期の年 薬の影響で髪が抜けると泣いて。


母は幸せだったのだろうか。



世界で一番尊敬はしている。

でも 母は自分を大切にできていたのだろうか。




わたしは今まで自分を大切にしなかったばかりに

我慢してたばかりに

大切なことを大切なタイミングで伝えられなかったり 悲しい出来事がおきたり

やりたい事を出来なかったり 誤解されたり

奪われたりした。



怒っていいし

自分の望みを大切にしていい。


調和のために自分が我慢する。

どれだけ自分にひどいことをしていくのか。


母はそれが我慢ではなかったかもしれない。

でも

私はやっぱり悲しいという気持ちに嘘はつけない。


もっとわがままでもいいから

母にも好きなように生きて欲しかった。



そうしないと わたしも好きなように生きることに罪悪感が消えないから。



自分の幸せを 自分で選んでいい。

母のことを尊敬しているけれど

母のように生きなくてもいい。


選んでいい