作者:内田百閒
出版社:岩波文庫(横浜市立図書館)

内容(「BOOK」データベースより)
日常の中に突如ひらける怪異な世界を描いて余人の追随を許さない百閒文学、後期の傑作七篇を収録。東京幻想紀行とでもいうべき「東京日記」をはじめ、「白猫」「長春香」「柳検校の小閑」「青炎抄」「南山寿」「サラサーテの盤」を収録。

怪奇な物語、でもそれは人間の精神がもたらすもの、人間には皆どこかおかしなところがある。

自分は不自由な明け暮れに歳を重ねてきた。もうこのごろは胸の中にもつれたような、割り切れぬものは何も残っていない。そういう気持ちがいつかほどけて、片付かぬものが片付いたというわけではなく、もつれ合ったなりに、片付かぬままに薄らいで、いつの間にか消えてしまった。

もう一度振り返って丸ビルの建物を眺めたが、まったく何の変ったところもない。しかし今まで自分が知らなかったので、これだけ大きな建物になれば、時々はそういう不思議なこともあるのだろうと考えた。

労災は夕飯の膳を片付けたあとに手枕をして、年甲斐もないあどけない顔で転寝をしている。片頬が枕にした腕にくっついて、少し引っ張られているせいで、口元の緩んでいる様子が可愛いように見えるのが不気味であった。

はっとした気配で、サラサーテの声がいつもの調子より強く、小さな丸いものを続けざまにつぶしているように何か言い出したと思うと、「いえ、いえ」とおふさが言った。そのわからない言葉を拒むような風に中腰になった。「違います」と言い切って目の色を散らし、「きみちゃん、お出で。早く。ああ、幼稚園に行って、いないんですわ」と口走りながら、顔に前掛けを当てて泣き出した。