日々の忙しさに託けて、毎年、直前まで覚えていながら、結局、当日は何となく過ごしてしまってから気づくのは、2月7日、父の命日。
あの頃…高校に入学してからの10年間は、私の人生の暗黒時代だと思っている。
高校生活が始まるとすぐに待っていたのは、父の破産。昔からの知人から借金の保証人を頼まれ、エエカッコシイの父は、母がどんなに頼んでも断ることが出来ずに引き受け、お決まりのように、父は破産した。
当時の父は自分の設計事務所を経営し、当時開局したばかりの地元放送局の役員になることも決まっていたとは母の話だが、40代に突入したばかりの父は、築き上げてきた人生のポジションを、なんとも呆気なく、全て手放した。金策に走り回り、債権者から逃げている間に、設計事務所は不渡りを出し、借金を被り。夜逃げしたままに、自宅は競売にかけられた。
全てを失い、唯一残った借金は五千万を数え、私たち母娘は暫くは父とは連絡もつかぬままに、どん底の生活に突き落とされた。
私は希望に満ちた筈の高校生活は一変、教科書や辞書などは揃えた後だったが、僅かに千円の生物の参考書が必要だと母に言えずに1週間悩んだ。今ならランチ一回分にも満たない金額が必要だと言えず…改めて全てを失ったことを知らされ、小さな新居へと帰る電車の中で、ひとり、涙を拭った。
あれから10年。
父は、東京のある建設会社に縁あってお世話になることになった。初めて会社の方にお目にかかった時、
「お父さんには積算をやってもらおうと思っています!」
と会社の上司にあたる方が娘の私にまでも穏やかな笑顔で、早く自宅を用意して、家族揃って暮らせるようにしましょう、と私たち家族の今後について気遣ってくださった時の驚きはあの日以来の衝撃で、嬉しさと驚きとが入り混じった…久しぶりに感じた幸せだった。
それから数ヶ月。
私は、54歳になった父と東京の片隅で暮らし、母と妹を迎えるプランを相談していた。
しかし、残念ながらあの頃の私は、10年ぶりに一緒に暮らす初老の父と、あの、若く颯爽とした、オシャレな若き父との差を受け入れられずにいた。
その夜、成人の日を挟んだ連休を利用して遊びに来た母と姉と甥を上野駅へと送って行った。
一日遊んだ帰り道。コンビニへ寄りほかほかの肉まんをお土産に買い、楽しい時間の余韻に浸るかのように笑顔の父は、その肉まんを炬燵の上に置いた。
『一緒に食べないか?」
嬉しそうに少し声を上擦らせた父を、あの日の私はキッパリとシャットアウトした。
いらない!とだけ返事をした私は父の寂しげな視線を無視して、自分の部屋へ戻った。
翌朝。まだ外は暗い早朝、私を呼ぶ父のくるしそうな声で目を覚ました。
経験したことのない激しい痛みに動けない、と訴える父は、自ら、救急車を呼んでくれ!と言った。驚きながらも私は、自分でそこまで指示できるのであれば大したことはないだろうと、たかを括っていた。
しかし、検査の結果、父はくも膜下出血との診断、一刻を争うとの医師の説明を私は、冷静に聞いた。母に、叔父にと連絡を取り、自分でも驚く程冷静に対応した。
父の脳出血は大量であるばかりでなく、脳の中でも難しい場所であるとの説明を受け、すぐには手術出来る状態にないとの説明を受け…それからちょうど3週間後、父は旅立った。
葬儀から出棺と、いつも冷静な母はひとりでは歩けないほどに憔悴し、泣き崩れるばかりだった。
私は涙は出なかった。
幼い頃は大好きな父であったけれど、私はあの、高1の夜逃げの日以来、私は父を受け入れることがが出来なかった。かつてはあんなにも自慢の父だったのに…。
今年も、もうすぐその日を迎える。
そろそろと穏やかな気持ちで、父を思い出すことができつつある。
大丈夫よ、お父さん、
ビールとタバコは、私が用意するわ。
今年は忘れずにね。
