(4)なぜインドで次々と大乗経典が創作されたのか? そして、衰退したのか? | 相の谷古墳と乎致ノ命

(4)なぜインドで次々と大乗経典が創作されたのか? そして、衰退したのか?

(4)なぜインドで次々と大乗経典が創作されたのか?

(6)なぜインドで仏教は衰退したのか?


少し長くなりますが、まとめてお話しします。


お釈迦さま入滅後、直弟子の存命中はまだ釈迦の教えがそのまま伝えられていました。
入滅直後に「第一結集」(経典編纂会議)が王舎城・七葉窟において行われましたが、その時、5百人のおもだった弟子たちが集まり、お釈迦さまの教説(法と律)の確認が行われました。


会議の座長には摩訶迦葉(まかかしょう、マハーカッサパ)、「経(法)」は阿難(あなん、アーナンダ)、「律」は優波離(うぱり、ウパーリ)が担当しました。


特に「経」については、お釈迦さまの身の回りのお世話をされていた阿難尊者が、「私はこのようにお聞きしました」=如是我聞(にょぜがもん)と、記憶している教えを唱え、その内容を確認し合い、出席者全員で間違いないということが確認された上で、詩の形で暗誦されました。(当時は文字として記録するということがまだ習慣としてなかった)


この「第一結集(けつじゅう)」(経典編纂会議)でまとめられた聖典(マガダ語といわれている)が、後に「第二結集」を経て、サンスクリット語、パーリ語の聖典となり、中国で漢訳され「阿含経」となりました。(サンスクリット語の「アーガマI(伝承・つたえうける)」が音写され、「阿含(あごん)」となった)


その後、仏滅後約百年頃に仏教の歴史にとって重要な出来事が起こりました。

いわゆる「根本二大分裂」です。


この頃、インドの社会は急速に貨幣経済に移行しつつあり、その時代の流れで、在俗信者をもっと積極的に受け入れるべきだと主張する急進派(若手派)の「大衆部(ダイシュブ)」と、

これまで通りの出家者を中心とした教団を維持しようと考える保守派(長老部)の「上座部」との間で意見が対立し、

最終的には「上座部(長老部)」が急進派の「大衆部」を教団から追い出す形となりました。


教団を追い出された「大衆部」はお釈迦さま直説の「アーガマ」を持っておらず、仕方なく自分たち独自の経典を作り始めました。

もちろん、「アーガマ」を真似て作ることは可能ですが、それでは「上座部」と同じ教えになるため、「大衆部」の独自の経典が必要となったのです。


それが、いわゆる大乗経典の創作の始まりです。

その後、後期大乗である「密教」の成立まで、千数百年の長きにわたり大乗経典が創作されることになったのです。


ではなぜ、これほど長きにわたって多くの大乗経典が創作されたか、ということを簡単に述べたいと思います。


それは、所詮はブッダではない”人”が創作したものですから、そこには当然、欠陥があります。

その経典に欠陥があることがわかると、信じていた人は離れていきます。

その欠陥を修正するため、また新たな経典を創作する、ということの繰り返しの結果、これほど長きにわたり、多くの大乗経典と呼ばれるものが作り出されたのです。

(私もシンガポールにいたころ、仕事で何人ものインド人と話したことがありますが、彼らは頭が良く、論理的で、自分たちが正しいことを常に主張し、そして、ディベート(ある公的な主題について異なる立場に分かれ議論すること) にとても慣れていました)


そして、最終的にはヒンズー教の勢力に押され、起死回生の大乗仏教の復活を試みましたが、それも失敗してしまい、インドで仏教は衰退することになったのです。(ごく一部の地域で存続しているようです)


この「起死回生の大乗仏教の復活」とは、後期大乗仏教の最後に登場した「密教」のことです。

大乗仏教の最後に登場した「密教」によって、これまでの大乗仏教の欠陥を埋めようとしましたが、結局、この「密教」もインドの人たちから欠陥を見抜かれ、とうとうインドで仏教は消滅したということです。
(この大乗仏教の最後の砦ともいうべき「密教」の致命的な欠陥については次回お話ししたいと思います)


なお、これら大乗経典の作者が「私はこのようにお聞きしました(如是我聞)」という文言でお経を創作したため、後の高名な中国の僧侶たちすべてが経典に対する価値判断を誤ることとなったのです。

歴史的に見て「私はこのようにお聞きしました(如是我聞)」と言えるのは「アーガマ」のみなのですが...

(唐時代の有名な誤った経典の価値判断が、前回お話しした「五時教判」。中国仏教である日本の大乗仏教はこれに基づいている。)


現代であれば、インドに直接行って、考古学的、文献学的調査によって、歴史的人物としての釈迦の言行を記録した文献(テキスト)は「アーガマ(阿含経)」のみであるということがわかるのですが、当時としては情報不足でいたしかたないことだったのです。(西洋では約二百年前くらいからこのことはわかっていた)


次に、インド仏教史の略図をウィキペディア・フリー百科事典より一部抜粋してご紹介します。

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インド仏教の歴史

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13世紀に衰退するまでの間は、各国の王族の援助によって隆盛衰退を繰りかえす。大きく分けると、

  1. 開教から教団分裂まで - 約100年間
  2. 部派仏教の成立 - 前3世紀ごろ
  3. 大乗仏教運動の興隆 - 前1世紀ごろ
  4. 密教の成立 - 7世紀ごろ

の4つに分けられる。


(途中略)


これらの大乗経典は、ほぼ3期に分けて見られる。


1.初期大乗経典…般若経維摩経 法華経 無量寿経 ――3世紀には龍樹 によって空の理論が体系化され、中観派 の基礎を作る。


2.中期大乗経典…勝鬘経 涅槃経 解深密経 大乗阿毘達磨経 ――5世紀には無着 世親 兄弟によって瑜伽行唯識学派 が生まれる。


3.後期大乗経典…楞伽経 大乗密厳経 ――6世紀になると、大乗経典の中にも密教の萌芽が見られる。


密教の成立

(略)


以上、「インドの仏教」 - ウィキペディア・フリー百科事典より一部抜粋