この時期になると思い出します - 私の人生の目的
この時期、「椿さん」の頃になると思い出します。
私の父親は私が小学校4年生の3学期に交通事故で亡くなりました。
まだ10歳で父親が大好きだった私は、しばらく、父が亡くなったという現実が受け入れられず、父がそのうち「ただいま」と言って帰ってくるような気がしていました。
「椿さん」には罪はないのですが、当時、子供心に「椿さんにお参りしたばっかりやのに、とうちゃんはなんで死んだん? 世の中には神も仏もないんや。」と思ってしまっていました。
その後、私は上京して極真会館総本部道場に入門して空手を習い自力本願の修行に進みました。
「自分しか自分や家族の身を守るものはいないのだ。」という思いからです。
約4年の空手修行の後、黒帯を取得し自分や自分の家族を守るだけの実践空手の実力を身につけることができたと感じました。
又、厳しい稽古を繰り返す中で、忍耐を覚え、精神を鍛えることもできました。
しかし、自力本願には限界がありました。自分の力だけで自分の人生を切り開くことは無理だという現実を知りました。自分の持病のこと、仕事のことなど、自分の持って生まれた運命というものを知りました。その時、私の年齢は24歳になっていました。
その後、わが師、大山倍達総裁は肺がんで亡くなり、ケンカ十段と言われたA先輩も不治の病に倒れました。
私は若くして「生・老・病・死」という人生の4つの大きい壁を感じ、私はこの「四苦」を解決するためにこの世に生まれたのだと思いました。
それから私は、お釈迦様の教えである絶対的な境地を求めて仏道修行に入りました。
お陰さまで私は父親の生きた歳を越えることができました。
しかし最近、再び私の高校時代の親しかった友人が病気で急死するという悲しい出来事がありました。
家族や親しい友人、知人の突然の「死」は生きている私たちにも深い心の傷となり、永遠にその傷が癒えることはありません。
人生は「無常」です。
「生」あるものはいつかは「死」を迎えます。
しかし、愛する家族を残したまま、また自分の夢の実現の途中で志半ばで倒れることは、家族はもちろん亡くなった本人はさぞ無念なことだと思います。
釈迦は阿含経の中で、「人は死後に残る「渇愛(タンハー)」がある限り、輪廻転生が終わることはない」と解説されております。
自分の持って生まれた不幸な運命の星を無くし人生を自分の思うように生き、この世で成仏し(ブッダになること)、死後に「渇愛(タンハー)」を残さず、輪廻転生を止めること。
これこそが私のこの生での最大で最終の目的であります。
このブログで一人でも後に続く人を求めて、ここに私の魂からの叫びを書き記します。