本日3月10日10時から、東京大空襲の慰霊大法要が行われた。
明日11日は東日本大震災から丁度2年になる。
ニュースで頻繁に報じられることだが、大災害が起こると遺体の捜索、過
去の激戦地では遺骨収集が行われる。実際に携わる方々のご苦労は大
変なものがあると察する。
しかし懸命な努力にもかかわらず、遺体・遺骨が発見できない遺族も相
当数おられると思われる。
例えば、ルソン島沖の海底に船もろとも沈んだ私の祖父の場合、残され
た遺族は遺骨収集など永遠にできないのだ。
原爆投下による被害者の中には、全く酷い事に、高熱により蒸発してしま
った方もいらっしゃるはずだ。私は祖父が、靖国神社に祀られていると思
ったことはないし、今後も思わない。
しかしながら、死者を弔うと同時に、人災に因するものについては今後二
度と同じ失敗を犯さないという反省と誓いの場として、何がしかの慰霊碑
なり、鎮魂施設なりは、やはり必要だと思う。
そもそも、今次大戦における、空襲による死者と戦地における死者は、区
別する理由がない。なぜなら、戦死者の多くは応召兵であって、元は一
般市民であったわけだから。
また、私が、戦争の犠牲者と天災による犠牲者を一緒に論じていることに
違和感を感じるかもしれない。しかし、それは、私がいかに天災といえど
も、人災により被害が拡大した事情が正直なところ排除できないと考えて
いるからだ。
今の時点では、未だ犠牲者が確認できないが、今後、福島原発事故が原
因と思われる健康被害者がおそらく出てくるだろう。広島・長崎の被爆者
や、チェルノブイリ事故のその後の報道を見れば、当然に予測されること
だ。(こんなところで希望的観測を述べても意味はない)
そうなれば、人災に対する手当てが必要なことが明確になってくる。
そういった意味でも、あらゆる戦争・自然災害において、無念の思いをぶ
つけられない、声に出さないあるいは、声に出せない犠牲者が常に存在
することを、国のトップにおられる方々は忘れないでいただきたいと思うの
である。