長くなります。

でもこの記事を読んでる人のほとんどに当てはまることかもしれないパンだシャボン玉



頑張って読んでねっハート






鷲田清一さんの『感覚の幽い風景』より




 電車のなかで半数以上のひとが、だれに眼を向けるでもなく、うつむいて携帯電話をチェックし、指を器用に動かしてメールを打つシーンに、もうだれも驚かなくなった。だれかと「つながっていたい」と痛いくらいにおもうひとたちが、たがいに別の世界の住人であるかのように無関心で隣りあっている光景が、わたしたちの前には広がっている。

 いつごろからか、十代のひとたちが「キレる」という言葉を口にしはじめた。「腹が立つ」ではもちろんなく、「アタマにくる」でも「むかつく」でもなく、「キレる」。苛立ちの隠喩はついに身体から切り離された?

 このように、「つながっていたい」という想いが一方にあり、「切れる」という行動が他方にある。ひとはどうして、そこまで接続/遮断に拘泥するようになったのか。まるでそれが〈いのち〉のスイッチのオン/オフであるかのように…。

 誰かとつながっていたいというのは、じぶんがそのひとに思いをはせるだけでなく、そのひともまたじぶんのことを思ってくれているという、そういう関係のなかに浸されていたいということだ。

 寂しいから、とひとは言う。だが、寂しいのは、じぶんがここにいるという感覚がじぶんがここにいるという事実の確認だけでは足りないからだ。ひとがもっとも強く自分の存在をじぶんで感じることができるのは、褒められるのであれ貶されるのであれ、愛されるのであれ憎まれるのであれ、まぎれもない他者の意識の宛先としてじぶんを感じることができるときだろう。「ムシられる」(無視される)ことでひとが深い傷を負うのは、じぶんの存在がまるでないかのように扱われるからであり、じぶんのこの存在がないことを望まれていると感じるから、そういう否定の感情に襲われるからだ。だれからも望まれていない生存ほど苦しいものはない。老幼を問わず。










これを最初に読んだ時にね、すごい心にグサッときた(´;ェ;`)

その通りだよ。って。

あたしはつながりが切れたら生きていけない。って。

電車の中で、周りの人たちが全員ケータイに夢中になってたりとかするのを見ると、結構怖いなって思うこともある。

でもあたしもその中の一人なんだよね。

ケータイから離れられない。


本当に「機械を操作する人間」から、「機械に操作される人間」になっちゃったんだろうなーって思った。






最後はまじめな話(^ω^)






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