1985年8月6日、広島原爆の日にわたしは産まれた。優しすぎるぐらい優しかったと教えられている父と、明るく楽観的で強い母のもとに産まれ、2歳年上の姉がいて、


父親はわたしが1歳のときに車ごと海に飛び込んで自殺した。母がいうには、父はいつも通りに家をでて、その日はすごく良い天気で、布団をほしてバンバンたたいていたら、警察から電話がかかってきて、お宅のご主人が海に飛び込みました、と連絡があったそうだ。


父の遺体はしばらく海に浸かっていたにも関わらず、眠っているような安らかな顔で肌つやもよかったそうだ。


父はおそらく数ヶ月前から自殺を考えていたようで、生命保険の保険金額を高額に切り替えていたために、数千万の保険金という遺産を残して亡くなった。(わたしはお金より父に生きていてほしかった)


ものごころついた時には、コタツ布団から父が、バァとでてくるのではないかと、よくコタツ布団をめくっていた。


父の記憶は全くなく、ただ記憶しているのは、小さな頃はよく友達と公園で遊ぶのが好きだったこと。


幼稚園や保育園はあまり好きではなかったこと。


小学校1年生のときに母は、一軒家を買い、わたしは小学校を転校した。


児童が100人もいないぐらいの小さな小学校だった。校庭には大きなクスノキがあり、当時で樹齢100年はいっているといわれていた。


クスノキには紐がぶらさげてあり、クスノキにぶら下がってターザンみたいにして遊んだり、周りは田んぼだらけだったので、田んぼが遊び場で、夏はオタマジャクシをみたり、用水路に足を浸して遊んだり、冬は稲が狩られた田んぼで鬼ごっこをしたりして、夕日が沈んだら帰る、春はつくしをとったり、山でたけのこをとったり、


野イチゴをとって食べたり、とにかく自然の中で遊び育ったし、自然の中で遊ぶのが大好きだった。


中学生になって二年生ではじめての彼氏ができた。同じ小学校の男の子で、むこうから告白された。彼はまあ、ちょっとした不良で、わたしは優等生で、


彼が、全然学校に来ないので、わたしは学校に来たらいいよ、と言って、ふたりでただ手もつながずに、会話もほとんどなく下校する、というだけの純粋なお付き合いだった。



下駄箱でわたしを待っている彼の、夕日を背にした姿が印象的に残っている。



中学生時代はただひたすら楽しかったのと、なんだか勉強をものすごくよくやっていたのと、先生に信頼されて、不良の女の子に学校に来るように言ってくれないかなと頼まれたりした。



不良の女の子とは仲良くなって、彼女は家庭事情があまりよくなくて、荒れていたみたいだった。


その女の子は徒歩一時間はかかる距離のわたしの実家に冬の寒い中、夜にひとり歩いてきたりした。居場所がなかったのだと思った。



わたしの母親が再婚した義父はとにかく厳格な人で、努力しても努力しても誉められることはなく、わたしは良い高校に受かれば誉められるかなと思い、三年間はとにかく勉強した。新聞にのっている去年の試験問題などを毎日解いて、塾にいき家庭教師もつけてもらい、とにかく勉強した。


わたしは無事に頭の良い高校に受かったけれど、義父に誉められることはなく、その後も資格をとりなさい、もっとこんな女性になりなさいと、後になればわたしのためなのか理想の女性像を押し付けていたのかと思う。



わたしはありのままの自分を完全に見失っていた。一体どうなればいいのかと思った。

高校二年生のときに突然、仲良しグループから仲間外れにされたのをきっかけにわたしは学校に行かなくなった。


このときの心の傷は言うまでもない。



高校1年生からコンビニで一緒にアルバイトをしていて仲良くなった、当時でいうギャルの女の子と大親友になり、原付きバイクの免許をとって近所のカラオケや温泉、ジョイフルにいっては毎日遊んだ。



わたしたちは、双子みたいに一緒にいるよねーとみんなに言われるほど仲が良かった。



今思えば大親友Tもインディゴで、なんだか直感的にいろいろなことが分かる子だった



彼女は、【いい人が怖い】と言っていた



Tは無邪気で天真爛漫で太陽みたいな明るい子だった


Tは容姿端麗でスタイルも良かったのでものすごくモテていたし、わたしはTが大好きだったし、Tもわたしのことが大好きだった。



わたしたちはずっと大親友でいるような気がしていた



続く。




父とわたしのたった一枚の2ショット


宝物で、いつも持ち歩いている