昏い。
闇が広がっていた。
『闇』の中に、本来有るはずの物が呑み込まれ、形を失っている。
言いようのない、漠然とした恐怖。
それは、実帆を包み込む。
―――まいったなぁ。
空を見上げる。そこには大きな丸い月が輝いていた。
明るい光が、ほんの少し闇を和らげる。
「歌番組始まっちゃうよ」
声に出す。黙っていると、呑まれてしまいそうだからだ。
「耕介が出るのになぁ」
好きな歌手の名。早めに帰りたかったのに、こんな時間になってしまったのは、ひとえに課長のせいだ。
「あのハゲ親父、私にばっかり仕事まわさないで、派遣の裕美さんにでもさせればいいのよ」
愚痴を漏らしつつ、足を早める。
なおもブツブツ言っていると、公園の門が見えた。
『緑の公園』と書かれた門は、空き缶に囲まれていた。実帆もよく知っている公園だ。少し、いやかなり寂れていて、子供が遊んでいる姿は見たことがない。
のぞき込むと、微かな街灯の光が見える。ここを突っ切ったほうが、マンションまで断然近道だ。
少々の逡巡。こんな公園、誰がいるか分かったもんじゃない。危険かな?迷っていると、頭に一人の青年の顔が浮かぶ。
―――えーい、耕介のためだ!
握り拳を作って気合いを入れ、実帆は歩き出した。
それが、その判断が、彼女の運命を変えた。
「案外暗いなぁ」
街灯があるといえど、ちかちかと点滅するその明かりは心許なく、実帆はバックを両手で抱えて、背中を丸めながら、おそるおそる歩いていた。
ふっ―――
風が吹いた。
実帆の背筋に寒気が走る。初夏だというのに、生暖かな、嫌な風だった。
無意識に駆けだしていた。
逃げたい逃げなきゃ。
何故だか分からない、しかし先程とは違う、具現化した恐怖が実帆を襲う。
バックなど投げ出していた。
ブランドものでお気に入りだったが、そんなこと頭の中にはなかった。
彼女の思考を支配するのは、何かが来る、それだけ。
―――かはっ。
喉が渇いて、息が切れる
この公園、こんなに広かったっけ?
疑問が頭を過ぎる。
随分走った気がする。
それでも、止まれなかった。
実帆の感覚では、もう三十分以上走っている。
唐突に足がもつれた。
転倒。膝と肘に痛みが走る。
しかし、走れないほどではない。
立ち上がろうと、顔を上げ――――
彼女の思考は停止した。
異形。
それ以外、それを形容する言葉は見つからなかった。
暗いので、よくは見えない。
近いものをあげれば、恐竜だろうか。
ただ、前後の足は、骨格からひん曲がったようになっているが。
それは何かを咀嚼していた。
鼻を突く血の臭い。耳を塞ぎたくなるような、生々しい、肉が咬み千切られる音、骨が砕ける音。
動けなかった、それはイコール死に繋がる気がして。
ただ願った、それが自分に気付かないことに。
しかし、悪魔は残酷に微笑む。
異形がこちらを向く。
それの口元から何かが、落ちた。
つい今し方まで咀嚼していた残り、猫の前足。
悲鳴は喉で止まった。
ぱくぱくと口を動かす。それはまるで、実帆にとってこの世界への最後の抵抗のようだった。
ああ、『死』が近寄ってくる。足音を響かせ。
実帆の視界は、異形で埋まった。
大きな獲物にありつけて嬉しいのか、盛大な唾液が、彼女の頬を伝った。
実帆がそのとき思ったのは、公園を通った後悔と、半年前に好きになった男性歌手のことだった。
数日後、新聞の一面をある記事が飾った。
それは『金宮耕介』という若い女性に人気の歌手が、大物女優と不倫をしていたというものだった。
各新聞社はこぞってそのスクープに飛びついた。
誰も知らない。
ある一人のOLが、会社を無断欠勤していることを。
誰も知らない。
fin
一個目がこれかよって突っ込みは無しです。
とりあえず言いたかったのは、
人一人消えても世界は変わらないってこと。
一年以上前に書いたのですわ。お恥ずかしい。