発達障害(ADHDのAC)と相反した気持ち | 長編物語ブログ

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 うんざりするほど長い物語です。
 でも不思議と中毒性があるかもしれません。
 
 
<チームイミタン>
イラスト担当:t2 文章担当:イミタン

 一番大きな問題点は私がこの考えに辿り着くまでに、とても依存的な方々に囲まれていたことだ。
 そこで私はこう考えるように至った。
 それは自分に問題があって、依存や共依存を回りの人全てにしているんだなという不快な気持ち。
 人生で起きるこの依存のスパイラルを、全て自分に置き換え、周囲に無理に合わせようとしていた。
 しかしある一定の時期に達したり、何かが起きるとそこはかとなく、感じていた強い自立の気持ちが見え隠れしてくるのだが、それに蓋をするのがACの見捨てられ不安である。
 実はACではなくADHDのACならば、今まで自分を主張するときに相手の気持ちを考慮しない客観性や思ったことはズバズバとパートナーなり家族なりに、必ず主張しているはずである。
 まあ独りよがりに殆ど見えます。実際は多くはそうでしょう。
 相手と常に対等と考え、子供のときから同世代や大人まで常に対等を意識します。
 まず、どんな悪事を働いたとして狡猾に百パーセントなりきれません。
 しかし外から見た自己という状況が全くもって見えていません。
 なので無意識にもそれを自分を探そうとします。それが自分語り、他者の悪い部分を変えてしまおうという思い込みの善意にも繋がる訳ですね。
 主観を失い客観を得た私はこのように考えています。
 この客観性が冴えているときは驚くようなことが起きます。
 ある意味そこは思い込みが激しいにも繋がりますが、ADHDのACこの良い部分が冴えているときは言動で他人の心を揺さぶります。
 自立と見捨てられ不安この二つが常にアンチテーゼになり、私の心を深くえぐります。
 しかし前の記事にも書きましたが、そもそも私は特定の人への愛着を強く持っていないように感じています。

 ここで子供の頃のお話しをします。
 私の住んでいる地元は田舎で漁業を営んでいましが、その関係上釣り人がよく来ていました。
 私はその釣り人のおじさんとすぐに仲良くなれ、
 下手をすると朝から夕方まで隣でずっと見て、おじさんと話しをしていました。
 そのおじさんは、特定の人ではなくてもよかったらしく、
 様々な釣り人たちとそうやって過ごしていました。
 挙げ句の果てには、家にまで送ってくれる方もいました。
 私にはそれが普通でした。
 幼稚園から少し歳が上がる頃に、それがバスの運転手さんになりました。
 この運転手さん、未だに一人顔まで覚えている方がいますが、
 いろんな運転手さんと仲良くなりました。
 仲の良い運転手さんはバスの料金無料で私を乗せ、ぐるっと地区を回って私の住む場所に辿り着くまで私を乗せてくれていました。
 私の母は一応叱ってはいましたが、とっても笑顔でした。
 父は真剣に怒って、何だか母に何かを言ってたように思います。
 私の母もADHDの傾向があります。
 大人になった今でも、この癖は抜けてないらしく、どこどこの店員さんとかと気づいたら仲良くなっています。
 
 定型的に考えればどうなんでしょうか、
 少し人なつっこい子供という物を通り越しているような気がします。
 
 そもそも対人緊張なんて起きません。
 それはもうもの凄いコンプレックスな部分では浮き彫りになるかもしれません。
 仕事の特定なやり取り、しかしそれだって人に対して緊張はしていないように思います。

 今考えると私はこうして回りに依存という種をまいて生きているのでしょう。
 これを変えるということはできないと思います。

 私の中にある強い自立を阻害する人を本当は憎んでいるのかもしれません。
 人との付き合いの終わりを理解できないのでそれすらわかりませんが。