ルーシーがサルマドを経ってから三日が過ぎようとしていた。今頃になって魔法学術院の講義に出席しておけばよかったと後悔し始めていた。豪雨はひっきりなしに降りしきりフードの上から染みこんだ雨で身体は濡れそぼりびっしょりになっていた。ルーシーは駆け出しの魔術師であるが、杖は立派な樫の木で作られた物でなく、名前も刻まれていない小ぶりのワンドを持っていた。真っ黒い髪は肩に届くか届かないかという長さで肌は透き通るような白だった。
三日前、寮から近い酒場に行くと、暗黒の杖というタイトルの張り紙があった。情報提供の値を見て一笑に付したが、好奇心という誘惑に勝てず、気づけば張り紙を外して酒場のマスターの下までいってしまっていた。情報の値段と杖の名前からくる値があまりにも不釣り合いだったのだ。ルーシーは酒場のマスターに言われた通りこの酒場でしばらく待つと冒険者風の男がやってきたので立ち上がって腕を差し出した。
男の印象は寡黙だった。ルーシーはその寡黙な印象から少しだけこの情報を信じることができるような気がしてきた。
男の話を聞けば更に真実みがわいてきたのだ。男はいった。俺達の仲間には魔術師はいないだから杖を置いて来て、情報を売ることにしたと。遺跡にある罠やゴーストたちは殆ど排除し、宝は杖を省いて持ち帰ったと、男は笑いながら最期にこういった。「杖に触れなかったのは正解だったろ魔術師のおねぇさん」ルーシーは力強くうなずいた。もし男が杖に触れていれば、この館に張り紙をすることはおろか、遺跡から帰ることはできなかっただろう。つまり死んでいたに違いないと。ルーシーは逡巡したがお金を取り出すと男に渡した。
サルマドの郊外から三日ほど歩くと漆黒の遺跡につくと男はいっていたが、ルーシーは歩けど歩けど草木ばかりで開けない空間にいい加減嫌気がさしてきた。
「世の中そんなうまい話は転がってないわね」
そう独白しルーシーは足を速めた。柔らかい地面に足が取られ、靴の中は泥だらけになっていた。
ルーシーは魔法学術院にいる学徒たちを思い出した。あの子たちならきっと今のわたしと同じ状況になってしまえば、無意味に泣いたり喚いたりするに違いないわ。
シルマ大陸東方に位置するルーシーの故郷は男も女も平等だった。サルマドのように貴族然りとした町並みや、人々は皆無だった。しかし決して貧しいというわけではなかった。
「アイバーンに戻りたい、私の氷竜、あなたに会いたい」
ルーシーの一番の友人は氷竜だった。物心ついたときにはいつでも傍にいた。小さな小さな私の氷竜。
ルーシーの思考は切り立った稜線が緩やかになり、そして草木に覆われた地が開け、漆黒の遺跡の入り口が見えてくると終わった。あたりは薄暗く、夜もやってきそうな時間だった。
ルーシーは遺跡の入り口にあるぽっかりと浮かぶ空洞の中に駆け込んだ。そしてワンドを目の前に掲げると半眼になった。
「光よ集え、我旋律を刻む者なり」
ワンドに青白い光が灯った。
ルーシーは心がざわついた。呪文を詠唱しながら理旋律をたぐりよせると、そこはかとなく感じるのだ。何かが喪失しているという感覚。
この感覚はある朝から始まり、あれから少なくとも朝日が十回は登っただろう、学術院にいる導師たちにこのことを話しても、君の気のせいだと、とりあってはくれなかったが、ルーシーは魔法を使うたびにこの感覚に陥った。
「シルマに何かが起きている、氷竜コールドチル、ねぇあなたはどう思う?」
ルーシーは行李の中から毛布を取り出すと石でできた床に敷いた。それから着ている衣服を全て脱ぎ捨てると身体を毛布で包み、背を壁に当て座った。
重い身体がふと軽くなったと思った瞬間ルーシーは眠りに落ちた。
遺跡の最下層にあるという暗黒の杖はあっさりと見つかった。最下層への道のりは長かったが、罠は全て解除されゴーストに至っては全く出会わなかった。
ルーシーはこれならばサルマドから遺跡までの道程の方が断然苦労したと思った。ここに訪れた冒険者たちはかりの手練れであることは間違いがなかった。
しかしルーシーは祭壇にひっそりと置かれていた暗黒の杖が白く光り、マナーリを放出しているのを目にし、そこから無数に伸びる理旋律を見ると油断はしまいと心に誓った。
ルーシーはワンドを掲げ目は半眼になった。
「隔離された呪いは浄化されなすがままに 我旋律を刻む者なり」
杖が三十モント浮き上がり、停止した。
「これで大丈夫ね、頼むわよ……」
ルーシーはおそるおそる杖に手を伸ばした。指先が杖に触れた瞬間、ルーシーの目の前は暗黒に飲み込まれていった。しまった……やっぱりわたしにはまだ無理だったかな……これは本物の聖遺物なのか……。チルわたしの可愛いチル、ルーシーは呪いの奔流に飲み込まれる寸前氷竜の名を呼んだ。
現実にはほんの一瞬の出来事であった。ルーシーは呪いから回帰すると目の前にあった祭壇を見た、するとそこにあった杖はなくなっていた。
ルーシーが辺りを窺おうと振り返った瞬間、足音が遺跡に響いた。何者かは後方にある階段を駆け上がっていった。杖を持って――。
「待ちなさい!」
ルーシーは口を大きく開けて叫び後を追った。
何者かの足はとても早くルーシーは追いつけないと思ったが、以外なことに階段をしばらく駆け上がるとその者は杖をほうり投げ両目を覆っていた。
「ちきしょう、目が、あたしの目が――」
ルーシーは唇をつり上げ不気味な笑みを作った。
「バカな盗賊、呪いが解除されたとおもったんだ。これは聖異物よ」
そういって笑ってから、杖を掲げ呪文を唱え始めた。
「束縛という名の後悔を与えよ、我旋律を刻む者なり」
目を覆っていた何者かは、まるでロープで縛られたように動けなくなった。身体が圧迫され思わず声をあげた。
「リエリ様を縛るなんて、おまえゆるさねぇぞ」
「下品な言葉使いね、女の子のよあなた盗賊だけどね」
盗賊の女は身長は低く、茶色の髪の毛は無造作で短かった。
「リエリといったわね、あなた張り紙を貼っていた冒険者の仲間でしょう。わたしが呪いを解除してあなたが持ち帰るという手はずだったのね、残念」
ルーシーはそう言いながら、行李から毛布を取り出して慎重に杖をくるみ、行李の底に収めた。
「しかしこんな強力な呪い、この杖のマナーリは並じゃないことは確かね。目が見えなくなって記憶に縛れるなんて……さて私は帰りますそれでは失礼」
ルーシーはそう言って歩き出した。すると後方からは怒鳴り声がした。
「待てよ! 悪かったよ! 解いてくれ……」
「そうね、束縛が解除される頃にはきっとあなたは飢え死にしてるわよ」
そういってルーシーは歩き出した。
リエリはじたばたともがいた。
「頼むから、その杖はくれてやるから!」
「当たり前でしょう。そういう交渉をしたのだからね。罠は解除してもいいけど、あなたに襲われるとも限らないから、では失礼」
リエリは歩き出した。
「俺は絶対おそわねぇ」
「根拠は?」
「……」
「ないのね?」
「盗賊の心意気に誓って」
ルーシーの足はぴたりと止まった。
「心意気か……リエリさん私の生まれた国では心意気という魂が存在しています。それに免じてあなたを許しましょう」
ルーシーは杖を振った。
「調子乗りやがって」
リエリはルーシーに躍りかかった、しかしルーシーが杖を横倒しにするとリエリの身体はバランスを崩した。
「あなたってバカですか?」
「ちきしょう!」
リエリは杖を掲げて呪文を唱え始めた。
「鉄は羊皮紙も軽い 我旋律を刻む者なり」
そうして、もう一度呪文を唱える。
「束縛はという名の後悔を与えよ、我旋律を刻む者なり」
リエリの身体はまるで羊皮紙のように軽くなり、ルーシーを々と背負った。
「てめぇ離しやがれ」
「これならあなたも問題ないでしょう。私は喋る荷物が増えたと思うことにしますし、あなたが飢え死にすることもないでしょう」
そう言いながら歩き出した。
肩にはリエリをかるって、ルーシーは思った。うまい話は転がってないし、たとえ存在していてもあくどい何かおまけのようなものがついてしまっていると。
リエリは喋る荷物を抱えて笑った。