そこは目を瞑ると黒の中に映る残光のようだった。撲は右も左もわからないままただ出口を探して彷徨った。心はなぜかこんな状況にもかかわらず平常心だった。
撲はクリスマスのときに飾る雪綿のように感じた。この空間もどことなく似ていると直感で思った。見た目はふわふわとしているが、触るとわしわしとしてしまうあれだ。
ともかく歩きだそう。一歩二歩と足を踏み出した。
暗闇の中、目を懲らしてみるとぼんやりと何かが映っていた。撲は傍まで行ってその部分をノックするように叩いてみた。低い音がした。感触は濡れてもいないし、熱くもなかった。目を細め、ぼんやりと浮かぶその場所を凝視してみると、どこかで見たことがあるようなテーブルと椅子がぼんやりと浮かんでいて、撲は何だか懐かしくなった。憧憬とでもいおうか、そこを見ていると胸がキュンと傷んだ。
撲が見ているテーブルと椅子は掌サイズなのに、掴もうと手を伸ばすとゴムのような抵抗が返って来て更に手を伸ばすと物体の一部分しか触れられない。
撲はこの奇妙な感覚に戸惑った。ゴムのような抵抗の先にある机と椅子は撲が見えている光景とは尺があっていなかったのだ。
撲はとても怖くなかった。そして後ろを振り向いたそのとき、音が聞こえた。初めは人語に思えたその声は小さな小さな音で何かをいっていた。撲は思った。(きっとこの声は撲をこの空間から助けてくれるに違いない)と。しかしあたりを見渡しても黒が押し塗られたような世界が続いているだけで、誰もいなかった。
撲はとにかく落ち着こうと思い、目を閉じて深呼吸をした。するとその声はこういっていた。
「科学の……」
「……限界を越えて」
ノイズが入った。そして空間全体が不協和音を奏で始めた。
「私は……来たんだよ」
人語と思っていたその声は機械のような音声だった。撲は漠然とどこかで聞いたことがある声だと思った。しかし撲の思考は状況が止めた。まるで機械の音声を阻むように、不協和音が鳴り始めた。
撲は走った。しかし不協和音は撲の後を追いかけるように迫ってきた。
「私があなたの……もとに……来た日を忘れないでいて欲しいよ」
撲は振り向いた。もう駄目だと思った。
するとそのとき機械の音声は空間に形どった。
「いつまでも一緒にいるよね どんな歌でも歌うから これからもずっとよろしくね」
はっきりと機械の音声は途切れることなく響いた。
暗闇の中が光り輝いた。そして嘘のように空間は黒から白へ上書きされた。
撲はそのときはっきりと見てしまった。
電子の歌姫初音ミクが撲の目の前で屹立していたのだ。
真っ白い空間にパソコンディスプレイがぽつりと置かれていた。
ミクは辺りを窺い撲の目の前まで来ると、小さなパソコンディスプレイを指指した。そして撲を指差して掌を胸の前でぶんぶんと左右に振った。
撲は奇妙なことだらけで何も考えられなくなっていた。しかしミクが指指したディスプレイは撲の部屋に置いてあるものと同型だった。
ミクは何度もディスプレイを指差して撲を指差し掌をぶんぶんと振った。
本物の初音ミクはなぜかとても小さく見えた。背丈は撲の肩幅にも満たない。それだけ撲の妄想の底がなかったことなのかもしれないが……。
と、撲が考えているとミクは撲の頭をグーで叩いた。
撲はその可愛らしい行動に煩悩が呼ばれた。ミクはポカポカと撲の頭を叩いた。そんなに痛くはなかったが、このままでは可愛そうなので撲は言った。ミクの動作を訳すように、
「あの画面に」
撲がそういうとコクコクとうなずくミク。
「撲が」
真剣な顔でコクコクとうなずくミク。
「映るから見てほしいだな」
撲がそういうとミクはさっきとは違い躍りかかるようにして撲の頭を叩き始めた。
「わかったよミク、とにかく調べてみよう、な?」
撲はディスプレイの傍まで行こうとした。しかしミクは撲の腰を引っ張って行かせまいとしていた。事情はよくわからないが、調べてみないことには何も始まらないので撲はミクを引きずってその場所までいった。
そして撲が画面に触れようとした瞬間、ミクはいった。
「みっく……」
「お?」
「みっく……にしてやんよ」
「古いなぁ、それってあれだっけボコボコにするって意味だったけ? ika_mo氏のみくみくにしてあげる♪ だな」
そしてミクは画面の前にいつの間にか回っていて、ネギを構えた。
「ちょ、まっ――」
撲はしこたま、ミクの振り下ろしたネギで叩かれ、歌のようにボコボコにされた。
「殴ることないだろ!」
ミクはフンと顔を背けた。
そして画面を指差し、掌を振って駄目駄目をした。
「あの画面に」
「ミクの大好きなつくね君が映ってますだろ?」
ミクはきっと睨んだ。
「冗談だよ、しかし話しができるならなぜ、仕草で表すんだ?」
するとミクは真っ白い空間の遠くを指差して両腕をわきわきとした。
「あーわかったぞ、おまえが言葉を話すと、さっきの音が襲ってくるんだな」
撲がそう言うと満足そうにうなずいた。
「でも、ミク喋ったじゃんさっき」
するとマイクを持つような仕草で、
「ごめん ちょっとさっきはさすがに言い過ぎたよね あなたも頑張っているの わかっているよ」
と、歌った。
撲は唾を飲み込んで聞き惚れていた。ミクは誇らしげに腕なんか組んだりしていた。
「だから何?」
「あなたの力量ってそんなもの? ♪」
「歌じゃなくて、喋ればいいじゃん……その曲は確か、OSTER project 氏の恋スルVOC@LOIDか……」
「どんな歌でも歌うから♪」
「そういうことか! 初音ミクとして存在している歌しか歌えないんだな?」
撲がそう言うとミクは何度もうなずいて、飛びついてきた。撲は何だかよくわからないが、ミクの肩が揺れ、涙を流し始めたので、優しく頭を撫でた。
「ミクはずっと誰かに気づいて欲しかったんだよな?」
ミクはこくこくとうなずいた。
今日もだるい学校が終わった。そして家に帰ると母の義務的な、
「つくねゲームばかりしないで勉強もするのよ」
という声を背中に受けて、撲は自分の部屋へと上がった。
鞄をベットに投げ、パソコンの電源をつけると、
「あれが夢じゃなかったらなぁ」と撲はため息をついた。
ありえないことだけど、初音ミクが撲の目の前にいて、笑ってくれたり泣いてくれたりしてくれたら撲はもう……。
ブラウザを起動して、ブログを開いた。撲は初音ミクの情報系のブログをつけているのだが、昨日はさぼって眠ってしまった。
新規に記事を投稿しようとブログに目を通した。すると昨日さぼっていたはずなのに、記事が更新されていた。撲はやっぱり寝惚けていたんだ。だからあんな夢をみたんだと思い、記事を読んでいった。
そして一行目に目を通した瞬間、現実と夢の区別がわからなくなった。
昨日ミクが夢の中で歌った歌詞が、記事の真ん中に鎮座していた。そしてブログの一番最後の行には、文字化けした文字とともに、こう書いていた。
「つくね、ミクは待っているからね」と。
そして夢の内容を克明に思い出すことができた。そして撲は合点がいった。あのときミクが触るなといった空間はもしかすると撲の部屋へと繋がっていたかもしれない。するとディスプレイはこのネットとリアルを繋ぐ扉なのかもしれない。
撲はディスプレイの回りを確認した。別段何も変わった様子はなかったが、もしものことを考えて、ディスプレイを物が落ちても倒れても絶対に平気なように、しようと思った。
撲は階下に降りて、庭に出ると倉庫に向かった。そして角材と釘、金槌を持つと部屋に戻った。
机にぴったりと固定するようにして角材でディスプレイの足の部分を固定した。ノックが聞こえた。
「つくね、うるさいわよ何してるの」
母の声だった。
「ちょっと工作をね、絶対にやらないと駄目なんだ」
「あら、そう? あなた勉強してるのね」
母はそういって下がっていった。
撲は固定作業が終わると、汗を拭いた。
「これで何があっても大丈夫。ミク待っててね、今日の夜会いに行くからね」
撲はそれから、着替えてベッドに入ったがこんな早い時間からはやはり眠れなかった。
考えれば考えるほど眠れなくなった。撲は曖昧なこの感覚が現実へと回帰し明日になるとやっぱりあれはただの夢だったと思いたくなかった。だから撲の心はミクの下へ飛んでいた。もし撲が向こうの世界にいく方法を一つでも間違えてしまうと、今繋がっている扉は閉じているかも知れない。それにミクが撲に身振り手振りで伝えようとしていたことも気になった。
撲はあれこれと思考が定まらず、枕から顔を少し上げてはディスプレイを確認した。昨日を忠実に再現するために撲は起き上がり部屋の電気を消して、パソコンの前に座った。
しんと静まった部屋に時計の針の音が断続的に聞こえていた。
時計の針が零を越えるとさすがに眠くなった。撲は一瞬このまま睡眠に入っていいのか迷ったがよく考えれば昨日も、眠っていたのだ。起きている方が不自然なのかもしれない。そう思って、机の上に手を伸ばそうとしたときだった。
ディスプレイが蠢いたような気がした。撲が嫌いな黒くてテカっている虫だと思い、近くにあったノートをとった。小さな物体はぴょこぴょことディスプレイの上を伝って行こうとしていた。撲はノートを振りかぶって虫めがけて叩いた。ところが、虫は避けた。そしてキーボードの前に前転するようにやってきて止まった。撲は電気をつけようと立ち上がろうとした。すると撲が操作していないにもかかわらず、パソコンは勝手に動き出した。黒い窓が現れて、理解不能なローマ字の羅列が流れ始めた。そして八割程それで画面が埋めつくされてピタリと止まった。そして今度はゆっくりと記号とともに平仮名が混じっていた。撲はそれを辛うじて読むことができた。
「‐/,つ#く、ねあかり、を、|つけないで」
撲は指示された通りに灯りをつけず、机に座り直した。そしてキーボードの横にいるそれをよく観察してみた。するとそれは目が回っていた。ぐるぐると、そして身体は百円ライターほどでとても小さかった。そしてツインテールだった。
撲が叩こうとした虫はミクだった。ミクは目を回していた。初めはフィギュアだと思った。しかし撲は几帳面なのでパソコンの回りに物をあまり置かない主義なのだ。
ミクは両手をついて顔だけをこちらに向けていた状態から、少し起き上がり膝を曲げ状態を起こしたが、身体が揺れていた。
撲はこの奇妙な不法侵入者がまぎれもなく、本物の初音ミクだと理解することができた。 目が大分暗闇に慣れてきた。
「悪かったよミク。画面から生まれるなんて知らなかったし」
ミクは耳を押さえて唇に人差し指を当てた。
「撲の声がうるさい?」
ミクはこくこくとうなずいた。
「やっぱり昨日のことは現実だったんだね。でもどうして灯りつけちゃだめなの?」
撲がそういうとミクはゆっくりと撲の掌に歩いて来て乗ってきた。
「すげぇ手乗りミク」
そういって撲が高く掲げようとするとスカートを抑えてしゃがみ込むと撲の掌を噛んだ。
「ごめんね。ついつい」
撲が謝るとミクは腕から肩へとまるで山登りでもしているように登ってきた。そして肩に乗ると、ディスプレイを指差して、自分を指差して胸の前で掌を振った。
「ディスプレイに」
撲がそういうと髪の毛を引っ張られた。
「扉がしまれば このまま離ればなれだ♪」
と流暢に歌った。
「なるほど、今回はぴったりだね。灯りをつけると扉が閉まるんだ?」
ミクは笑顔になってこくりとうなずいた。
「小林オニキス氏のサイハテ」
撲がそういうと、ミクは撲の頬をよしよしと撫でた。
「伊達にサイト運営してないよ撲も」
ミクは肩に乗って足をぶらぶらとさせていた。
「じゃあさ、撲が昨日みたいに行くときはどうすればいいの?」
ミクは両手を耳に当てると身体を傾けた。
「なるほど、眠ればいいんだ。それじゃあ昼間でも眠ればミクに会える?」
ミクは首を振って、電灯を指指した。
「暗くないと駄目なんだね?」
掌を肩幅にして少し上げ、そのまま両手を右に移動させた。
「置いといて――」
そして頬に指を当て少し考えながら、撲の部屋の出口を指差した。
「この部屋から外には出られない?」
こくこくとうなずくミク。
「ミクに色々と見せて上げたかったんだけどなぁ……残念」
撲がそう言うとミクは首を振って、
「夜明けは来ないよと 聞こえない振りしていつの日にか 笑っていられるかな♪」
撲はそう歌うミクを見て、思わず涙が溢れそうになった。そしてミクは撲を指指した。「baker氏のcelluloid」
ミクはにっこりと撲に微笑んだ。そして撲の髪を引っ張った。ベットを指差して、
「今度は撲がそっちに行けばいいんだね?」
こくこくとうなずくミク。
撲は眠れるかどうかもわからないまま、ベットに横になった。ミクは撲の顔を覗き込むようにして撲の胸の上に座った。
こんな状況で眠りなんて訪れるわけなんてない。ミクが来る前に襲ってきた僕の睡魔はもうどこかにいってしまい、掴むことさえできない。
撲がミクを少し顔を上げてミクを見ると、ミクは両手を耳に当て傾いた。その仕草が可愛すぎて撲の胸は何だかとても温かくなった。
ミクに悪いので目を瞑るだけ瞑り眠る努力をしてみようと思った。
――撲は目を閉じた。するとミクは歌い出した。
「すやすや 夢を見てる 君の横顔 気づかず 零れた涙 頬を伝う♪」
子守歌のように優しい音色が部屋を包んだ。撲は次第に眠りへと誘われていった。
「kz氏……Last Night Good Night……」
撲が最後に見た光景は、ミクが両手を耳に当て、撲に眠りなさいと告げ、それから撲の小指握って、
「Last night Good Night Last night Good night この夜 君の手 握って 眠るよ おやすみ♪」
と歌っているところだった。あれほど緊張していた撲はいつの間にか眠りに落ちていた。