また夜がきたら 一話
ちょうど満月のぽっかり出た夜、少年は突然ここを立つことを決めたようだ。
大きな触覚を揺らし、目玉模様の四枚の翅をばたつかせながら、長いくねくねした紫の髪の先をいじり、一息ついて仰々しく地図を開いた。
そして次の行き先をどうやって決めるか、ここにするかとぶつくさやっている。
彼は一人旅なので返事をする者はなかった。
辺りは静かで暗く、光り虫や地を這うものの立てる音しか聞こえない。
それと焚き火のぱちっという音。
その静寂と生い茂る木々の中に、美しいとはいえない眠たげな鼻声が響く。
そう、この辺りは森が深すぎるのだ。
それに寒すぎる。
彼の辿り着いたその二つの答えが、木々にまた木霊する。
「森を抜けるには、一番近いのは……」
白い指は地図上のどちらへも動かない。
ここが森のど真ん中だった。
ほったらかしていた釣り糸が引いたようだったが、夢中の彼は気づかなかった。
それはそうと、彼は十六夜という、声に似合わない美しい名前を持っている。
その名前を考えたおっとう、おっかあのいるところから、ここはどれほど離れているだろうか。
今いるところは、森が深すぎる。
故郷の森とは音も匂いも違う。
十六夜は釣り糸がグイグイ引いているのにやっと気づいて駆け寄ったが、竿まで持っていかれなくて幸い、というほどに遅すぎた。
するとその時、泉の向こう側の茂みがガサガサいって、地を這うものより大きな獣が現れたようだった。
そちらにランプを向けると、それは人間のようだった。
「釣りがお上手」
彼にはその人が青白い顔にこれまた青白い髪をした青年のように見えた。
それは夜のせいかもしれなかった。
「やあ。ここは森が深すぎると思わないかい」
青年はうなづいてから、ゆっくり彼のそばへやってくる。
「地図を見せていただけないかな」
と言って、風もないのに今にも吹き飛びそうな頼りないぺらぺらを指差した。
「ずっと僕を見ていたの?」
焚き火のすぐそばまで彼はやってきて、返事もせず勝手に地図を覗き込んでうなっている。
親切に、十六夜は現在地を指差してやった。
「ここは森が深すぎるな……」
「だから、僕がはじめにそう言ったでしょう」
青年の話では、彼はここよりずっと北西の雪山からやってきた人で、どうにも何か目的があるが、わけあって仲間とはぐれてしまったらしい。
目的についても仲間についても、十六夜には知らない言葉が多すぎてよくわからなかった。
それにこんな知らない子供に大切なことを話してしまうなんて、と思った。
退屈な話だとは思わなかったけれど。
十六夜はじゅうぶんに気をつけながら、咥えた大きな葉巻を焚き火に近づけ、火を点けた。
「僕は一人で旅をしてるんだ。
君と違って目的も仲間もないよ。
でも不思議と寂しくはないし、先が怖いことなんてひとつもないのさ。
いつでも、こうしている時が幸せって思うんだ」
「今も?」
「もちろん。嫌な時間なんかひとつも過ごさない。
ひとつも焦ったりしないさ」
青年は焚き火の揺れるのをじっと見つめていたかと思うと、座り直して今度は十六夜の顔を見た。
「葉巻をもらっても?」
「ええ、どうぞ。
でも君、何か面白い銘柄の葉巻は持ってないかい。
それと交換っていうのは、どう」
そうしているうちに、焚き火が少し小さくなったような感じがあった。
そのことは、すべてのものは有限である、ということをいつも十六夜に知らせている。
それから、すべてのことは夜のせいかもしれない、ということも。
大きな鞄の中をがさごそやり終えた青年の表情は晴れなかった。
「残念ながら、しけた煙草しかないね」
「そうか。僕は煙草は吸わないんだ。葉巻だけしか」
「変わった子供だね。
そういえばお前は変わった人だ。
その触覚も、翅も見慣れない」
そう言うなり頭の先から足の先までよくよく注視する。
十六夜はそれに答えてやった。
「僕はここからずっと南の暖かい森の辺りから来たんだ。
そこはバチカという里でね、僕たちバチカの一族が住んでいるからバチカというんだけど。
僕はその里から来た、十六夜だよ。
バチカではみんな大きな触覚に四枚の翅さ。
僕たちは花の蜜を飲み、花弁を食べて生きている」
「それじゃあ花を探してこようか?」
「いいや。
ここら辺の目ぼしい花はみんな食べ尽くしてしまったのさ。
ここには長く居すぎた。
ちょうど月明かりもあるし、今夜にでも立とうとしていたところに君が来たんだ。
君、一緒に行き先を考えてくれないかな。
どっちへ行こうかすっかり迷って足踏みしていたんだよ。
南に行こうかとも思うけどね、そしたら戻ってしまうよ」
青年も、答えにだが、すっかり迷ってしまったようだった。
一人旅の行き先をあかの他人が考えるなんて。
それに少年と違って自分には目的がある。
仲間のいるらしい方へ行きたいに決まっているのだ。
まあ、どっちにいるかはよくわからないのだけれど。
それより、いい答えが見つかった。
「わかった、決めたよ。
立つのは明日にしよう」
「どうして? 今夜は満月だよ」
「今夜が満月なら、明日は十六夜じゃないか」
「そうか。確かに明日は十六夜だ」
「十六夜には、一晩じゅう月が出ている」
二人が囲む焚き火が一段と小さくなって、そろそろ夜が明けようとしていることを教えている。
それだけでない、焚き火はいつも色々なことを十六夜に教える。
光り虫と地を這うものも寝静まったということを、その音で知らせる。
「そろそろ日が昇る。眠ろう。
小さいけど、僕の作った安全な巣がある。
そうだ、ここは安全でいいところだったな。
また夜がきたら起こしてよ。
僕は昼間は眠いんだ。
ほら、東の空を見て……もう今に明るくなるよ」
どす黒い葉や枝、とびきり大きなキノコの傘を集めてこさえた、自前の巣の中に十六夜はもぞもぞ潜っていった。
居心地はよさそうだけれど、別の生き物の巣に入っていいものだろうか?
青年は、はたと考えてためらった。
そしてまだ火が燃えているのを見て、釣りの続きを引き受けた。

