氣功をやってます、なんて言うと不調箇所がわかったりするの?オーラが見えたりするの?なんて聞かれることもあります。
わたしはいわゆる『霊感』はないタイプ。
見えたこともないです。
でもね。
無条件に、『この人いいなぁ♡』とか。『わたしはコレをやるんだ♪』とか。ハッキリした理由もなければ論理的に説明は出来ないのだけれど、どうしようもない何かに引っ張ってもらってるような。私がこれまで生きてきたのは、自分ではどうしようもないくらい抗い難いモノが支えてくれてたなと感じます。
もちろん、そういう思いを言葉にすることも可能だし、説明してって言われたら出来ます。それでも、なんとなーく核心からちょこっとズレてるんだよな〜も否めない。
だからこそいいたい。こういうのって『氣』であるし、言い換えるなら『エネルギー』って言ってもいいよねって。
氣功というと、意識して『氣を送る、もらう』なイメージがするかもしれないけど、実際はほとんどのみなさんが『氣』をやりとりしながら生きてるんですよね。
自分の持ってる『氣』と合えば『いい感じ』、合わなけば『やな感じ』となるわけで。自分の中にどんなモノを持って生きてるかで、モノの見え方も全く違ってくる。
その見え方はどうしても『自分』がベースになるから、偏ったり、極論に走ったりもしちゃうけど。自分を知るプロセスで絶対に必要になってくるのが『相手』の存在。
『相対』の世界に生きてるからこそ、愛情も感じられながら憎しみも感じられる。ネガティブって面倒くさいな、イヤだなって思うけど、逆に言うなら『わたしってこう考えてるんだな』『こういうのが好きなタイプなんだな』を教えてくれる。
ホントに面白い世界だ♪
でね。ある程度、この世の対極の感情なり思考をあじわったら…『生きる』をより楽しむために。『自分』の色を少し薄めてみるということもいいよねって提案したい。
『本質のわたし』という大いなるものから『個のわたし』という概念を与えられた私たちひとりひとり。さまざまな体験を経て、相対の世界を知りながらも、この世に生きながら有限を超えて無限を知る。
悩みとか生きづらさは、『個人』として感じてるもの。苦しみが生まれるプロセスを丁寧にみていくと、そこにはいつも敵対する何か、矛盾した存在に出会います。
でも、敵対するモノってホントにいるのかな?そこまでして他者から守りたい『自分』って何者なの?そもそもホントに存在するの?
思いも感情も感覚も、持ち主はいません。
ということは…経験してる誰かもいない、ってこと。
個としての在り方を見つめながら、自分を知る。その上で、いただいた命を存分に誰かや何かのために活かしていく。
もとは、1つなんだもの。最終的にはみんな『みんなの幸せや喜ぶこと』をしていきたいし、それをすることが自分の幸せにもなることを潜在的に知っている。
そんな目覚めのプロセスを一緒に歩んでいきたいし、その上であなたがあなたらしく生きるお手伝いをしたい。
それがわたしの希望であり、パッションです♪
最後までお読みくださり
ありがとうございました^^