飯島保 東大助教授の自決 昭和二十年九月三日 東大伝染病研究所の飯島は研究室でガスを全開して回転椅子に坐ったまま自決した。
当時飯島の死は敗戦を悲観した自殺とされた。
飯島は東京生まれ・青山学院-一高-東大医卒 ・田宮猛雄教授について・腸チフス・パラチクス・コレラ菌の研究をする。
父の公太郎も医師・第四高等中学医学部の出身 地元金沢で勤務医や開業医したあと母校の小児科講師 突然辞職・この時四一歳・七歳の飯島ら十人近い家族を残して単身京都にで 京大荒木寅三郎門下となる・
二年間京大に通う・大正五年金沢に戻る 飯島小児科医院を開院・名医との評判を得る。
四年後の大正九年東京に行くと言って上京・ 北里研究所の一助手となる。
大正十一年四月慶応から医学博士号を受ける。
この時すでに五十歳、北里研究所を辞めて早稲田鶴巻町に【早稲田医院】を開く。
貧し人には治療費を請求せず、おかげで経営はいつも赤字・二年後に閉館。
息子の保は昭和九年・日本医学会総会で研究発表その二ヶ月後日本女子大出の君子と結婚。
新スタートを切る・その年の八月一二日立派に成長した息子の姿を見届けて死去・六二歳肺がんだった。
・ 動画は、水谷先生が多くの出版物より、特に日本をベースに近隣諸国で当時話題となった人物、個々を深掘りして読み解きます。