新宿区立西戸山小学校 14    奥サン、大ちゃん、・・級友たちに囲まれて

 

 

1968(昭和43)年も押し迫ってきた。西戸山小学校に来てから、すでに1年半が過ぎた。6年4組のクラスメイトたちとも仲良くなったし、このクラスの独特の価値観にも当初ほどは驚かなくなった。ここでは優等生や金持ちなどはあまり尊敬されず、むしろ一般的な常識から離れた一人ひとりの個性が重要視されていた。そのためか少数意見でもきちんと自己主張する者の意見が尊重されて、特に趣味や特技を徹底的に追求することが好まれていたように思う。

 

卒業まで4か月に迫って来たこの年の師走。我が家にも大きな動きがあった。私の父が12月から転勤になり大分に局長として赴任することになったのだった。これまで横浜や川崎など関東域内の転居はあったが、九州などの遠方へ赴任するのは初めてのことだ。今度は大分地方局の局長で一戸建ての官舎だということなので、もしかすると豪邸に住めるようになるのではないかと期待が高まった。ただ問題は私と4歳年上の姉の学校の問題があった。私はこのあと4か月で西戸山小学校を卒業する予定だが、姉は都立青山高校1年在学中だったので大分の高校へ編入することになる。その間、3月末までは父には大分へ単身赴任で行ってもらって、翌年の4月から子供たちは大分の学校へ移る準備をすることになった。つまり私はこのまま新宿区立西戸山小学校を卒業して、中学校は大分市の学校に入学することになったわけである。川崎市立平間小学校からこの西戸山小学校に転校してきたのは5年生の5月だったが、それから2年に満たない間に卒業し、今度は九州の大分の中学校へ入学するわけだ。何とも落ち着かない学校生活になってしまうが、これも国家公務員の家庭であれば仕方のないことだと割り切るしかない。父親の仕事とはいえ転校や転居という言葉を聞くと、人事院には家族のことももう少し配慮してもらいたいという思いが募ったりしたものであった。

 

西戸山小学校へ転校してきたときに丹治校長先生と面接し、問題児が集められているとしか思えないような5年4組に配属されてから、いろいろなことを体験してきた。特にこのクラスで出会ったクラスメイトたちは、一人ひとりがとてもある意味個性的で付き合ってみると皆んないい仲間だったことは間違いない。担任の大沢俊子先生もとても几帳面で細かい指示をいただいたりしたし、母親のような温かい教育をしていただいたことは感謝するしかない。このクラスのメンバーは男子21名女子18名の39名だったが、今でも全員の顔と名前を思い出すことが出来るくらい本当の家族のような存在で、一人ひとりが実に個性豊かなメンバーだった。5年4組が引き続きそのまま最終学年の6年4組になっても特に雰囲気が変わることはなく、卒業や進学についても殆どの生徒がすぐ隣にある西戸山中学校へ行くためか、それほどお別れが近づいているという感覚はなかった。今の時代だと都内の小学校では中学受験で少しでも偏差値の高い私立の進学校を受験するケースが多いのかもしれないが、その当時は特に国家公務員の家庭では中学までは地元の公立中学に行って、特に成績が優秀な子は難関の国立大学の付属高校へ進学し、それ以外は都立高校を受験するというのが一般的なルートだった。そのため西戸山小学校の生徒たちはそのまま西戸山中学校へ進む者が多く、高校受験から本格的な受験に入る生徒が多かった。

 

6年4組のクラスメイトのうちでも、その後、現在まで付き合いが続いている友人についてここで触れておきたい。現在までというと、5年4組のときに出会ってから60年近くもの長い間、付き合いが続いている友人になるので、もう殆ど腐れ縁と言ってもいいような仲の二人なのだが、彼らとはその後の中学、高校、大学、そして社会人になってからも連絡を取り合いながら、お互いの人生を生きてきたような関係の友でもある。この二人とは現在でも付き合いが続いていることもあって、当時のことを思い出してその裏話などを今さらほじくり返すというのも気が引けるのだが、あと何年か経つとそんなことも思い出せなくなるかもしれないし、ここで文字にしておかないと永遠にそんなことがあったことなんか歴史に残らないとも思われるので、まあここは恥を忍んで思いつくまま綴っておくことにしよう。

 

その一人というのは奥村哲朗(おくむら・てつろう)君で、通称「奥サン」と呼ばれていた。奥サンは6年4組のクラスの中でも、やはり少し変わった個性的な生徒だった。西戸山小学校に通う生徒たちの多くは、周辺の団地や落合方面の住宅から徒歩で通学している生徒が多かったのだが、奥サンは中央線の武蔵小金井から毎日40分程かけて電車通学している唯一の生徒だった。奥サンの家も数年前までは、我が家と同じ新宿区百人町の公務員住宅にいたのだが、お父様が転職して武蔵小金井の一戸建てに転居したので、奥サンはそのまま西戸山小学校へ電車で通学していた。当時の団地族からすると、郊外の広い一戸建てに住み自家用車も持っている家は羨望の的であり、いつかは我が家も奥サンのような一戸建ての家に住みたいものだと思っていた。それから小学生でありながら、国鉄の定期を持っていて毎日電車で通学していることも羨ましい限りであった。その頃でも小学生の電車通学はかなり珍しく、都心の繁華街に近い駅を乗り降りするわけだから、よく許可されたものだと思っていた。

 

奥サンの第一印象は、いつも多趣味でいろいろな分野のことに詳しかったことだ。今流行っているモノや、各地の名産品や、洋服のブランド名など、普通の小学生には縁遠いようなことまで実に詳しかった。それから家に車があって、いつもお母さんが運転されていたこともあってか、車のメーカーや車種や排気量等々についても本当によく知っていた。当時の日本の自動車メーカーはトヨタと日産が覇を競っていたのだが、ここに新興勢力のマツダが開発したロータリーエンジンというのがあって、そのエンジンの構造や優秀性などについても、詳しく教えてくれた。学業の成績の方はそれほどでもなかったようだが、とにかく手先が器用で図工の時間になると、いろいろな道具を巧みに使って見事な工芸品を作ったりしていた。我が家は私も父もその分野は全く不器用だったのだが、奥サンにかかるとちょっとした電気製品の修理や木材の加工などはお手の物のようであった。

図工の時間に木の箱で各自が郵便受けを製作することがあった。そのデザインは各々の自由に任されていたのだが、デザイン通りにベニヤ板を糸ノコで曲線状に切り抜く作業が必要になるところがあり、これがなかなか難しかった。指先が器用でないとベニヤ板を曲線に沿って切り抜くことが困難で、私は途中までやったがなかなか上手くいかずとうとう完成せずに断念してしまった。ところが私よりもさらに複雑なデザインの郵便箱を作っていた奥サンは、ベニヤ板の上の複雑な曲線を粘り強く糸ノコで丹念に切り取っていき、ついに綺麗なデザインの郵便箱を完成させてしまった。これには本当に感心させられたものであった。

それから皆んなでプラモデルやラジオなどを趣味で製作するようなことがあったのだが、こうこうとき奥サンは専用のヤスリやラジオペンチやハンダ付けの道具を持ってきて、必要に応じてこのような道具を実に巧みに使って工作をして仕上げてしまうのだった。この指先の器用さと最後まで仕事を仕上げる根気強さは、父親譲りの不器用を自覚していた私にはとても叶わないと思ったりしたものだ。しかもこのような造形物の色やデザインの感覚もなかなかおしゃれでシャープなものがあって、きっと将来はそういう方面の仕事に就くのではないかと思ったりした。

 

ところで奥サンの家は、中央線の武蔵小金井にあった。ここは当時新興住宅地で、西戸山小学校があった新宿区と比べると、自然が豊かで一戸建ての街並みが続くベッドタウンという感じの所だった。夏休みには、6年4組のクラスメイトの何人かで中央線に乗って奥サンの家に泊りがけで遊びに行ったりした。奥サンのお母さんはなかなかのやり手で、新大久保に洋装店を経営していて、当時としては珍しく車の運転もしていた人だった。とても大柄で性格も明るく、我々のような悪ガキが押しかけてもいつも温かく迎えてくれた。時には、お母さんの運転で近くの多摩川に行ったり、また開通したばかりの中央高速道路を通って相模湖まで連れて行ってもらったこともあった。我が家は自家用車などは遠い世界だったのだが、奥サンは車の知識も豊富で、この当時はお母さんの車は白い三菱ギャランであった。奥サンのお姉さんもなかなか活発な人だった。国立音楽大学のピアノ科にいて、普段はヤマハのエレクトーン教室で教えていたほどピアノが上手だった。奥サンの家の応接間には上等のアップライトピアノとステレオが置いてあった。その部屋は完全防音設備が備えられているような豪勢なものだった。こういう家庭環境で生活しているわけだから、チマチマした公務員住宅の団地族から見れば、奥サンは別世界に住んでいる住人のようにも思えたものだ。

夏休みに何人かで泊りがけで遊びに行ったとき、皆んなでキャンプをやろうということになった。近くにある多摩川まで行けばテントを張ることも出来たが、そこはまだ小学生だし危険もあるので、奥サンのお母さんの提案で庭にテントを張ってキャンプをすることにした。今から思えば、本当によく我々のような悪ガキたちの面倒を見てくれたものである。6年4組のメンバーがキャンプをやろうということになると、何でも一通り本格的にやらなければ気が済まない連中揃いであった。用意したテントをたとえ庭の中に張るとしても、そのあとの夕食は山奥に行ったことを想定してご飯はハンゴーで炊き、鍋はキャンプ用のコッフェルを使って、近くのスーパーで買ってきた食材を入れて、そこで本格的なカレーを作るという手の入れようであった。それもこれも全て奥サンのお母さんが面倒を見てくれて、間違いがないように見張ってくれていたお陰であった。出来上がったカレーをハンゴーで炊いたご飯に乗せ、狭いテントの中で皆んなで食べたときは、本当に深山幽谷の森林の中でキャンプをしているような気分を味わえた。

このように多芸多趣味の奥サンだったが、運動の方は全くのウンチ(運動音痴)で、走ってもボールを投げてもモッちゃんこと望月君と最下位争いの双璧をなしていた。そのせいか野球やサッカーなどにも殆ど参加することもなく、また多くの生徒がプロ野球のファンだったのだが、特に贔屓している選手や球団もあるようには見えなかった。その代わり、以前紹介した日本酒の一升瓶の蓋(ふた)でおはじきのようにして遊ぶ酒蓋(さけぶた)やトランプなどのゲーム、そして中学になった頃に流行ったボウリングなどの室内遊戯などは下手くそではあったが結構一生懸命やっていたようだった。このような遊びは、かなり個人的な趣味が高じてお金もかけて行うことが多く、今風に言えばマニアやオタクと呼ばれる少年の走りだったのかもしれない。

奥サンとは、小学生のときから現在に至るまで長い付き合いが続いているが、基本的には西戸山小学校時代のまま、ただ時間だけが過ぎてしまった感が強く、今でも時々会って話をしても全くお互いに成長が感じられないことを実感するのであった。

 

もう一人の友人というのは大山郁文(おおやま・いくふみ)君で、通称「大ちゃん」と呼ばれていた。大ちゃんはクラスで一番身長が高く、見るからに大物という感じがした。普段は口数が多い方ではなくクラスの中でもあまり活発でもなかったが、皆んなの様子を見ていて黙って最後に登場してきて結果を出すというタイプだった。ただいるだけで存在感は大きく、いつもクラスメイトにとってはラスボス的な感じのする生徒だった。

大ちゃんの家も、クラスの中では珍しい一戸建ての家だった。西戸山小学校から小滝橋方面に行く途中の角地に家があり、古い二階建ての家には周囲に植木があって夜にはひっそりと不気味な灯りがついていたりしたので級友からはお化け屋敷などと言われたりしていた。団地族が多かったこの学校の中ではやはり異色の存在であり、いつも身に着けている服装や持ち物なども一人だけほかの生徒よりも高級なものだったので、男子からも女子からも何か腫れ物のように特別扱いされているようであった。

だいぶ後になってから知ったのだが、大ちゃんの家はたいそうな名家だった。お爺様は、大正・昭和を代表する政治家の大山郁夫。お父様は、やはり高名なドイツ文学者の大山聰先生で、誰もが一目を置く学者一家だった。大ちゃんは一人っ子だったせいか普段はひとりでいることが多かったが、この時期から塾に通っていたり、ボーイスカウトの若年組織であるカブスカウトに入っていたり、小学校以外の(金のかかりそうな)活動にも参加しているようだった。

大ちゃんは、6年4組の生徒の中でも飛び抜けて自身の趣味的なこだわりが強い生徒だった。とにかく一度自分が決めたものに対しては徹底的にこだわる。そしてそれは常に一番いいものを嗜好していて、そのためにはお金がいくらかかろうと気にしないタイプだった。一般に典型的なお坊ちゃんのパラノイア的性格だと言えるのだが、そういう趣味と趣向を持っているからこそ、クラスの中での信頼や発言権も大きく、無言のうちに大きな影響力を持っていたように思われた。

大ちゃんのこだわりには、いろいろなものがあったが、何故かプロ野球のパ・リーグの東映フライヤーズのファンで、その中の中心打者であった張本勲の熱烈なファンであった。張本の背番号が10番だったので、靴箱や傘立てなどどんなものでも10番を選んでいた。また当時の小学生はご自慢の自転車を持っていたのだが、その殆どはドロップハンドルの5段変速のギアが付いているものだった。しかし大ちゃんの自転車は当時の最高級ブランドのブリヂストン製のもので、ここでも張本の背番号10番を踏襲して10段変速のギアが付いている最高級品に乗っていた。体も身長が一番高かったが、趣味も持ち物もクラスの中では常に一番上のランクのものにこだわっていたのだった。ただこんなことをこれ見よがしに自慢することもなく、他人に見せびらかすこともなく、そうすることが当然のことのようにして、全く何事でもないように自然に構えているところが、また大物のような風格を感じさせるところがあった。黙っていながら密かに優越感を示しているのかもしれなかったのだが、一般の団地族の貧乏人の子供からすると、大ちゃんはただ身長が高いというだけでなく、何かにつけて常に上から目線から見られているようでワンランク上にいるような気にさせられたのであった。

大ちゃんとは野球をよくやった。二人ともクラスの中では強打者でもあったので、4組の皆んなでお揃いのユニフォームを作ったベアーズというチームでは、私がショートで3番打者、大ちゃんがファーストで4番打者になっていて、二人ともチームの中心選手だった。西戸山小学校の前にあったグランドでは、毎日のように草野球をして遊んだものだが、その中の何人かで特訓をしようということになって、日が暮れてボールが見えなくなる時間まで、ただひたすらノックやキャッチボールをして過ごしたものだ。

それからこのグランドの周囲を自転車で競走したりしたのだが、当時は誰が一番自転車の運転が上手いのかを競うような風潮があった。グランドの周囲を何周か決めておいて速さを競うのようなときには、10段ギアの最高級の自転車に乗っていた大ちゃんが、当然のようにいつも一番だった。スビートと自転車の品質ではとても叶わないと思って、一部の生徒は今度はサーカスで行われるような曲乗りに挑戦することもあった。自転車を漕ぎながらそのまま足をサドルに乗せて走ってみたり、あるいは両手をハンドルから離したまま腰の動きだけで操作する手離し運転をしたりした。またある程度スビートを出したまま前輪を空中に浮かせて走るウイリーと呼ばれる乗り方などを試みてみたりした。この頃は各自が創意工夫を凝らして自転車の技を競い合っていたものであった。こういう運転は、当然のことながら大怪我をする危険を伴うものだが、何故か当時の男子生徒はこういう危険な運転にチャレンジすることが、自転車技術の向上を目指す勇気のある行動だとして、危険性よりも勇敢さの方が重要視される傾向があった。今から思うと、本当に無謀で愚かなことである。

我が家はこのグランドのすぐ傍にあったので、周囲はいつも小学生の自転車が数多く走っていた。いつの頃からか自転車の空気がなくなると、グランドに近くの1階にあった我が家にやって来て自転車の空気入れを借りていく者が現れてきた。大ちゃんもその一人だった。いきなり我が家に来て「すいません。ちょっと空気入れを貸してください。」と言っては、団地の外で自転車に空気を入れていくようになった。変な奴だな、と思いながら、こんなことから次第に私と大ちゃんは親しくなっていった。

 

私が6年生の年、1968年の秋のことだった。テレビで川端康成が日本人として初めてノーベル文学賞を受賞したニュースが報じられていた。受賞の発表の翌日には、NHKの朝の番組で鎌倉の川端邸から生中継されていて、三島由紀夫と伊藤整がお祝いに駆けつけていた。とにかく大変な偉業ということらしく「雪国」や「伊豆の踊り子」などの小説が飛ぶように売れた。この当時は小説家や作家などは遠い存在だったのだが、ノーベル賞を受賞した川端康成とはどういう人なのかという素朴な興味が湧いてきて小学校の図書館に行って調べてみたりした。テレビに出ていた川端康成氏は、いかにも文化人が好んで暮らしていそうな鎌倉の邸宅の庭に、褞袍(どてら)姿で出てきてインタビューに答えていた。髪はオールバックの白髪で、眼は大きく異様にギラギラしていて、どこか落ち着きのない神経質そうな人物に思われた。この人が日本人で初めてノーベル文学賞をとった人なのか。それまであまり小説家や作家などには関心もなかった私にとっては、文学の世界への興味が一段と高まったニュースでもあった。そして川端氏のような優れた作家は、普段はどういう生活をして、何を考えているのか知りたくなってきたのであった。

暫くして川端康成のノーベル文学賞受賞を祈念して、代表作となった「雪国」の映画がテレビで放送されることになった。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」で始まる小説を全て読むのは小学生にはまだまだ難しいが、映画なら分かりやすいと思ってさっそく見ることにした。それは1965年の日活映画で大庭秀雄監督の『雪国』だった。主演は、作家・翻訳家の島村役を木村功が、雪国の温泉宿の芸者・駒子役を岩下志麻が演じていたものだった。私はまだ関越国境を越えたことがなかったので、この作品は一面が銀世界の雪国の様子があって異国情緒たっぷりの作品だった。本当にトンネルの向こう側にはこんな純白の美しい雪国があるのだろうか。そこで繰り広げられる大人の恋の物語は、子供ながらにも強く印象に残ったものだった。この原作を書いたのがノーベル賞をとった川端康成であり、恐らく木村功が演じている作家・翻訳家は、川端自身の分身のようなものではないかと想像されたのだった。それで、この映画を見たときに一番関心があったのが、木村功が演じている作家・翻訳家の島村という人のことであった。冬になると雪国の温泉宿に逗留して、駒子なる芸者さんたちとお酒を飲みながら楽しそうに過ごしているような職業はどんなものなのだろう。普通であれば、一般のサラリーマンは朝から晩まで時間や仕事に追われる忙しい毎日を過ごしているはずなのに、作家・翻訳家になればこんな生活が出来るのだろうか。こんな生活できたら、いいなぁー。将来、私もこんな職業に就いて、作品が評価されてノーベル文学賞でもとれたらいいなぁー。などと他愛もなく思うのが小学生の私の偽らざる実感であった。

さて、大ちゃんの大山家はお爺様もお父様も日本を代表する学者の家であった。私も時々、遊びに行くようになり、学者の家とはどういうものが興味津々であった。大ちゃんの家は古い木造二階建ての家で、一階部分は大ちゃんのお婆様の居室があった。大ちゃんのお婆様は、亡くなった政治家の大山郁夫氏の未亡人で、アメリカ時代から本格的な洋画を趣味とされていて、一階の応接間にはその作品がいくつも壁に掛けられていた。当時の日本人の一般家庭からはかけ離れたような上質の家具や壁紙が設えられていた。大ちゃんは一人っ子だったが、大ちゃんの部屋とご両親の部屋は二階部分にあり、外の階段を上って行ったところに玄関があって、そこにいつも白と黒のブチ犬がいた。それはノコという名前の犬だったが、他人が来ても全く無関心で、名前を呼んでも面倒くさそうにして寝たふりをしていることが多かった。やはり学者の犬ともなると犬も違うものである。人間を達観した目線で見ているような感じがして「お手」などと言うものならバカにされそうな気もした。大ちゃんのお母様は、大柄でとても早口で喋る人だった。私が訪ねていくと、いつも何かの料理をたくさん作ってくれて「いいから、食べなさい、食べなさい」と言って食べきれないほどの料理を出してくれた。お母様は筝曲の趣味があるらしく、食事を摂る和室には相当高価そうに見える和箏が壁に立てかけてあった。それからこの当時では一般家庭にはついていなかったエアコンがこの部屋にはついていて、真夏に行くと、この部屋の中だけ別世界の清涼感を味わうことができた。うだるような蒸し暑い日に、自転車で大ちゃんの家の近くを通ったことがあったのだが、その時、大ちゃんのお母様のいる部屋に取り付けてあるエアコンの室外機から水滴がポタポタと滴り落ちるのが見えた。それを見て、ああ、今、大ちゃんのお母様は一人であの涼しい部屋の中におられるのだろうなあ。いいなぁー。皆んながこの暑さでうんざりしているのに、大ちゃんのお母様は本当に幸せだなあ・・。と羨ましく思ったりしたのだった。

それから初夏の蒸し暑さが感じられるような頃に、大ちゃんの家に遊びに行ったら、いつものようにお母様がいろいろな料理を作って出してくれたのだが、その日は休日にも関わらず大ちゃんのお父様の姿が見えなかった。大ちゃんに聞いても生返事で父親のことは全く関知していないようだったので、それとなくお母様に尋ねてみた。「今日は、叔父様は、お出かけですか?」そうしたらお母様は笑いながら「パパ ?  パパは今週は軽井沢。たまった本を読みに行くって言っていたわよ・・。」と言った。えっ !  軽井沢 ?  何のことか分からなかったのだが、どうやら大山家は軽井沢に別荘があるらしく、暑くなるとお父様の大山總先生は、よく軽井沢の別荘に避暑に行かれるとのことであった。我が家のような国家公務員では到底考えられないことであった。私の父を見ていても、一年中、朝から晩まで仕事をしているようで、夜は夜で毎晩のように付き合いの宴会などで息つく暇もないような生活をしているようだった。実によく働いて国に奉仕しているのだろうとは思うけれども、暑さ寒さにも文句も言わず、ただ馬車馬のように働くことに、それほど大きな意味があるとは私には思えなかった。大ちゃんの家は特別なのかもしれないが、どうせ何かの仕事で一生懸命やらなければならないのであれば、自分の研究テーマを見つけて大学の先生になる方が満足できるのではないだろうか。何と言っても、大ちゃんの家にはエアコンもあって、軽井沢の別荘もある。大ちゃんのお父様は、夏は涼しい別荘で毎日読書三昧の生活をされているのではないだろうか。学者って、いいなぁー。よし私も将来は、大学の先生になるようにしよう、などと漠然とこのとき思ったりしたのだった。

 

ということで、この頃、川端康成の「雪国」で見た作家・翻訳家や、大ちゃんのお父様の大学教授という職業に対して、私自身初めて自分の将来像を重ねてみようと思ったのだった。それはまだ小学生が考える壮大な夢に過ぎないのだが、時が過ぎてやがて私がプロの放送作家や日本ペンクラブ所属の作家になり、メディアや情報系の大学教授を経て名誉教授にもなった。だが放送作家にしても大学教授にしても、現実はそんな楽な世界ではなく、やはり少年の夢は夢に過ぎなかったことを思い知らされることになったのであった。しかしそうは言っても、私自身まだ作家としてノーベル賞ももらっていないし、軽井沢に別荘ももっていないので、偉そうなことを言える立場にはない。まだまだ私の夢はその途上にあると言えるのだ。

 

先述したように大ちゃんは、あらゆることに関して独自の趣味を持ち一級品を好んだ。そして不思議なことに、どういうわけか放浪癖があり、小学生の頃からあちこちに出かけるのを趣味としているところがあった。その趣味は今日に至るまで続いていて、今でも毎週のように日本各地の訪問先から写真がメールで送られてくる。もう初老の年代になっても、こうした趣味が継続しているということは、これは持って生まれた彼独特の性癖なのかもしれない。

大ちゃんと二人で電車に乗って新宿の繁華街に行ったことがあった。親から少額の小遣いをもらって新大久保から新宿まで当時の国鉄の山手線に乗って新宿に行った。まだ小学生だったので、少しは年長に見られるような格好をして行くことにしたのだが、上背のある大ちゃんは、よくサラリーマンが着ているような上等のレインコート姿で現れたときには、どこのおじさんかと思ったほどであった。当時の新宿は西口のロータリーが出来たばかりで、まだ高層ビル群などは建設されていなかった。西口の一番高いビルは、小田急百貨店の最上階の14階が最高で、ここのレストラン街からはこれから建設が始まる予定の区画が見渡せた。京王プラザホテルや東京都庁ビルなど、今では高層ビルが建ち並んでいるこの場所はまだ更地の状態になっていて、以前ここにあった淀橋浄水場跡地は鉄条網が張り巡らされていた状態だった。新宿駅の東口の方は紀伊国屋書店周辺や三越や伊勢丹がある新宿3丁目あたりが中心で大勢の人で賑わっていた。二人は一通り新宿の繁華街を「見学」して、デパートに入ってどこにどういう品物があるのかを確かめながら巡回していった。まさに新宿の少年探偵団である。金もないので有料の施設に入ることはなかったのだが、当時の小学生にとってはやはり映画館はとても魅力的な場所に思えたものだった。それから街を行き交う車の数々、女の人たちの髪型やファッション、そして新宿の街を飾るネオンや看板や街灯のデザインに至るまで、見るもの見るもの珍しいものばかりであった。

いくら新宿区立の小学生とはいっても、子供二人だけで新宿の繁華街をうろつくのは危険もあったのだろうが、当時はそんな意識など微塵もなく、むしろ早くこのような都会の繁華街の喧噪にも慣れておかなければならないという気持ちの方が大きかった。この点、大ちゃんと私は価値観が一致していて、大人が言うことは信用ならないと思っていたし、早く大人の世界を体験して、いいことも悪いことも、真実も嘘も、たくさんのことを吸収しておくべきだと思っていた。二人とも法に触れるような悪いことをしたり不良になるような気はなかったが、大人たちから必要以上に制限されているようなことは、却って好奇心が沸いてくるというものだ。そういうことから、大ちゃんと私は何でも見てやろう、聞いてやろう、知ってやろうという意識があって、小学生でありながら早く大人の世界を経験するための意欲と行動力は二人とも人一倍旺盛だった。まだまだ子供で無知だったし無謀でもあったが、そのような二人の怖いもの知らずの基本姿勢は、その後も続いていったのだった。

あの当時から既に60年近くの歳月が流れた。最近でも時折新宿に行くと若い人たちが多く闊歩しているのをみて、あの頃、西戸山小学校の頃に、大ちゃんと二人でこの近辺を歩き回ったことを思い出してしまう。最近の若者は何を考えて生きているのだろう。私も大学で教えるようになってから30年もの時間が経ってしまったが、当時の教え子たちももう50代前後になっているはずだ。どんな時代でも子供たちや学生たちには遠大な夢があることだろう。「少年よ大志を抱け」ではないが、今の若い人たちも、自分たちの人生の大きな夢を抱きながら、新宿の街を歩き回ってもらいたいと思う。

日も暮れてきて、歩いているうちにおなかか空いてきたので何か食べることにした。しかし新宿の繁華街の店はどこを見ても高そうだし危ない雰囲気の店も多かったので、また山手線で新大久保の駅まで戻って来て、その近くの店に入ることにした。大ちゃんと二人で最初に入った店は、新大久保駅のすぐ近くにあった「ブルースカイ」という町中華の店だった。外側の階段を上って2階にあった店だったが、持ち金があまりなかったので二人とも定番の一番安いラーメンを注文した。一杯350円だった。随分歩き回ったせいかおなかか空いていたのだろう、とても美味しかった記憶だけが残っている。

こうして大ちゃんとの二人の放浪の旅が始まった。その旅は、その後も延々と続いていて、何と今日まで続いているのだ。その後、二人とも車を運転するようになり、ゴルフやスキーにも行くようになり、最近では沖縄へも3泊4日の旅に行ったりもしている。このあてどもない旅は、もう60年近くも続いているわけだが、かなり行き当たりばったりで計画性がなく、考え得る最小限の出費にするという点では、小学生のときから何も変わっていない。二人の旅路の基本原則は、格安、探索、そして自由、である。

 

1969年になり、西戸山小学校の6年4組で過ごした日々も終わりを迎えることになった。我が家は、前年の暮れに父が大分に転勤になって単身赴任で行っていたため、私と姉の卒業と終業を待って、3月末に家族全員が大分に引っ越すことになったのであった。思い起こせば、5年生の5月に川崎の平間小学校からこの新宿区立西戸山小学校へ転校してから1年11か月。この2年に満たない短い時間の中に、私の人生にとっても限りなく大きな体験をすることになった。それはおそらくその後の私の人生観を方向付けるような何かが含まれていたのであり、東京のど真ん中に生活する小学生としての独特の文化を身に着けることになったのではないかと思われる。転校してきたときに丹治校長先生から5年4組に行くように指示されたことで、それまで川崎の平間小学校で受けてきたものとは明らかに異なる世界に導かれたことは疑いないことだろう。その4組のクラスメイトたちの一見すると問題だらけの交友関係の中から、世の中の矛盾や屈折や反抗などが潜む複雑な心理も学ぶことになったような気もする。ただそのような環境にあったことで、私自身はこのあと続く転校生としての異文化に対する観察眼が磨かれたことにも繋がったのかもしれないし、また優等生が陥りがちの身勝手な価値観を常に疑って見るようなジャーナリスト的な資質を持つことが出来るようになったのかもしれない。いずれにしても、人生は一通りではなく、様々な価値観が交錯している人間模様の中で、自分に適した生き方を自分で見つけていかないことには、誰も助けてくれないという大切な教訓を学んだのもこの学校にいたからのことであったろう。また平間小学校から引き続いて放送部員になって、6年生になって念願の放送部長になれたことも、私のキャリアにおいては大きなことであった。放送への憧れと志向は私にとっては天職のようなもののように思えてきていた。

やがて私自身が気が付いてみるとプロの放送作家になってテレビやラジオの番組を担当するようになったのも、やはり小学生時代に放送部長をしていたことが大きな動機になっていることは間違いないことだろう。西戸山小学校の放送部で出会った友人たちの存在も大きいものがあった。というのは、かなり特殊な性向を有していた6年4組のクラスメイトたちと比べて、よりまともでいわばクラスを代表する優等生の集まりであった放送部員たちを両方比較することで、この学校全体の生徒の特質や生活環境などを考えることが出来るようになったからである。そしてこのような小学校という環境においても、学校放送という情報を伝達するメディアの役割が大きいことが理解できたし、それを専門の職業とした場合の責任の大きさも、この時点で実感することが出来た。それはその後の私の人生にはとても有意義なことであった。そういう意味では、この西戸山小学校のこの小さな放送室の中に、後の私の放送作家やメディア研究者としての原点があったのではないかと思われる。まだ西戸山小学校の校舎は、我々が卒業してから半世紀以上経った今でも存続している。ネット上の画像でその学び舎の姿を見るにつけても、改めて感謝の気持ちが沸いてくるのだ。

 

いよいよ卒業式の日が近づいてきた。我が家は大分へ転居するため、すでに荷物は全て搬出してしまっていた。卒業式の前日は、母と姉は都内の親戚の家に泊まることにして、私は武蔵小金井の奥サンこと奥村君の家に泊めてもらうことにした。この家にも随分お世話になったものだ。夏休みには庭にテントを張ってキャンプをしたこともあった。奥サンのお母様には、車で多摩川や相模湖までドライブに連れて行ってもらったこともあった。卒業式は男子は学生服着用と決められていて、私と奥サンは二人で真新しい学生服に袖を通して、お互いを見て笑った。何が可笑しかったのか分からないが、きっと昨日までとは違うお互いの姿を見て、急に一歩大人になったような気分がしたのだろう、それで何が場違いのものを感じて可笑しくなったのではないだろうか。もう今日で小学校も終わる。その節目の日に感じる可笑しさと一抹の寂しさの両方が合わさって、自然と笑いになったのだろう。お別れのときが近づいていた。

 

1969年の西戸山小学校の卒業式は、例年通り体育館で行われた。お世話になった4組の担任の大沢俊子先生は、この日は和服姿の正装だった。丹治校長先生やPTA会長からは、卒業生を送る祝辞のようなものがあったはずだが、残念ながら私はどんな話だったのか、全く覚えていない。そんなことより初めて着た学生服がどうにも窮屈で、特にツメ入りという首の部分を圧迫するところが苦しくて、早く式が終わってくれないものかとそればかり考えていたように思う。卒業生が退場することになった。そのときの写真は母が撮ってくれたらしく一部が残されている。1組担任の山崎先生と4組担任の大沢先生を先頭にして1組と4組の生徒が二列になって体育館から退場したようだ。

 

この西戸山小学校で1年11か月。最後は卒業証書を手にもったクラスメイトたちと一緒に記念撮影などもした。こうして私の小学生時代の様々な思い出をここに残して、私の新宿区立西戸山小学校の生活は幕を閉じた。次は大分の新しい中学校生活が待っている。

 

 

 

 

  卒業生を引率する大沢先生と山崎先生

 

 

 

6年4組のクラスメイトたち

前列は奥村、今村、目黒、 後列は福島、橋本、太田

 

 

 

   奥サンこと奥村哲朗君(左)と

 卒業式当日 小金井の奥村君の家で

 

 

  大ちゃんこと大山郁文君(左)と

  軽井沢近郊 浅間山麓の白糸の滝で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新宿区立西戸山小学校 13    ご近所のハシラとモッちゃん

 

 

 

西戸山小学校の6年4組には、同じ公務員住宅に住んでいるご近所のクラスメイトが何人かいた。ここの新宿住宅という公務員住宅は戦後まもなくして建設された大規模住宅で、RAからRLまで白壁の5階建ての12棟の団地が整然と建ち並んでいた。しかもここはあらゆる官公庁に勤務する国家公務員向けの住宅になっていて、上はかなり年輩の局長級の人から下はまだ新婚早々の若い職員の人まで、国に奉仕する様々な立場の公務員が一同に生活していた。我が家は一番小学校に近いRL棟の1階の13号室だった。小学校の前にあったグランドからすぐのところにあったので、草野球が終わったら泥まみれ汗まみれになった野球少年たちが大勢上がり込んできて格好の休憩所にされたりしたものだった。

 

同じ公務員住宅にいる生徒たちは、ある意味ではユニークな関係にあった。というのは、この新宿住宅には様々な省庁に勤務する国家公務員の家族がいるのだが、生活している住宅の間取りも同じ、建物の外観や建築様式も同じ、周辺に買い物に行く店も同じ、朝起きて夜寝るというライフスタイルも殆ど同じであって、そういう点では公務員住宅に暮らしているというだけで無意識のうちに、しかも何の根拠もなく不思議な平等意識と連帯感が共有されているところがあった。その点、家が商売をしていたり自由業に従事しているような家庭とは違って、やはり何といっても公僕としての規律と教育が行き渡っていて多くの家庭は子供たちの教育には熱心なところが多かったのだろう。決して金持ちではなかったのだが、ここのコミュニティで大切なことは、子供の頃から先生の言うことを聞いて秩序を乱さないようにすることが暗黙の美徳とされているのだった。また大規模な公務員住宅は狭い土地に大勢の人間が生活しているという物理的条件もあって、些細なことでも知恵を使って細かいルールを作り、お互いに決められたルールを遵守するという文化が定着していたように思う。先生も含めて、実に細やかなルール作りが盛んであり、そのルールのもとでは誰が主導権を持つのかについても、水面下で子供ながら様々な駆け引きやマウントなども行われていたのであった。

 

このような生活上の慣習から生み出される人間関係の眼に見えないが確実に存在している力関係は、フランスの社会学者のピエール・ブルデューが『ディスタンクシオン』(1979)の中で詳しく説明している。その中では、個人の趣味や嗜好の違いによって生じる社会的格差や階級の差異について文化的側面からの分析が行われており、「ハビトゥス」という概念を用いて幼少期から継承される文化資本の有無が格差や階級に影響していると説明されている。この西戸山小学校に通う小学生の中にも、これに通じるような潜在的な社会的構造やコミュニティのルールなどが自発的に構築されていたとも言えるのであった。父親が国家公務員である家庭において、このハビトゥスや文化資本がある一定の相関性があるのかどうかは分からないが、これだけ大規模な公務員住宅に大勢の子供たちがいる環境を考えると、何かしらの共通する性格や属性があってもおかしくないようにも思われる。もちろん当時はこんなことはそれほど深く考える問題でもなかったのだが、そのあと私自身が中学生になって、父親の転勤のため東京から大分そして岐阜へと転校し、まさに異文化の中に放り込まれたときに改めて意識するようになった問題でもあった。一般的に転校生というのは、既存のコミュニティに外部から侵入する異邦人でもあるのだが、私に限らず異邦人が最初に行うことと言えば、新しく遭遇する他者に対する「観察」であり、また新しく接することになる人々のコミュニティの「分析」である。当然、そこにはそれまでの自分が経験してきたものとは異なっている常識や価値観を発見することになるものだし、新しく接する人やコミュニティに順応するための有効な方法を模索していく作業を考えることになるわけである。

 

このように新しい環境における「観察」や「分析」をする場合、自分自身が何か特別に関心をもって積極的に行うこともあれば、自分の意思とは関係なく否応なしに置かれてしまった環境のもとで結果として行っていたこともある。前者を「能動的観察と分析」とするのであれば、後者は「受動的観察と分析」とでも呼べばよいだろうか。一般に研究者でもない限り「能動的観察と分析」をすることは稀であるだろうから、私の場合もそうだったように西戸山小学校の6年4組のクラスメイトたちと日々接しているうちに、無意識のうちに私は「受動的観察と分析」を実践していたと言うべきなのだろう。そんなことを考えながら、このクラスに一緒に通っているクラスメイトの中で、同じ公務員住宅に住んでいる友人の性格や行動などを「観察」し「分析」するようになっていったのだった。

 

新宿区百人町にあった国家公務員住宅の新宿住宅は、前述したようにRAからRLまで全部で12棟あったが、同じ西戸山小学校の6年4組のクラスメイトで、我が家があったRL棟の向いにあったRK棟に住んでいたのがモッちゃんこと望月淳(もちづきあつし)君で、我が家の斜め向かいにあったRG棟に住んでいたのがハシラこと橋本博(はしもとひろし)君だった。

 

橋本君の「ハシラ」というニックネームは、当時苗字や名前のあとに「ラ」や「モン」をなどを付けることがあって、これはゴジラやモスラのほかガラモンやピグモンなどウルトラマンなどに登場する怪獣の名前の延長であったものと考えられる。「ハシラ」はもちろん「橋本君」から来ているのだが、やや肥満体で動きが鈍くいつもグズグズしているところから「グズラ」と呼ばれることもあった。

ハシラは4組の多くの生徒と同じように、何故かプロ野球はパ・リーグのファンで、特に当時は極めてマイナーな球団であった東映フライヤーズ(現在の日本ハムファイターズ)の熱心なファンだった。今では信じられないかもしれないが、プロ野球の試合でテレビ放送されるのは巨人戦に限られていて、セ・リーグのチームであれば巨人の王や長嶋が出る試合の対戦相手としてテレビで見る機会もあるのだが、ペナントレースで巨人との試合がないパ・リーグの試合などテレビやラジオで扱われることもなく、ましてパ・リーグの選手の顔さえ見る機会などなかった時代であった。東映フライヤーズは、映画会社の東映グループのチームで、当初フランチャイズとして使用していた球場は、駒沢公園の中にある駒沢球場だった。ここは規模も観客席も小さくてとてもプロ野球のチームが公式戦で使うレベルの球場とは言えなかった。私が川崎にいた当時は、地元川崎の大洋ホエールズが地元の愛すべき球団であって、東京の後楽園球場を本拠地にして毎試合テレビ中継されていた読売巨人軍は、いつも偉そうに上から目線で、勝つのが当然ともいうような態度が鼻もちならなかった。川崎市民にとって、このような威圧的に見える大東京の巨人は負けてはならない相手であり、最大かつ唯一のライバルチームであった。ところが巨人も大洋もセ・リーグのチームであり、もう一つ日本のプロ野球にはパ・リーグにも6チームあって、セ・リーグと同じように毎日のように試合をしていることなど、当時は全く関心もなかった。5年生になって川崎の平間小学校から新宿の西戸山小学校に転校したときには、当然東京の小学校なのだから、殆どの生徒は無条件で巨人のファンかと思いきや、意外なことに巨人などを応援するような生徒は殆ど見当たらず、特に4組では何故かパ・リーグの意中のチームを応援している生徒が多かったのであった。要するに巨人を応援したりセ・リーグのチームを応援したりするのは軽薄な素人のミーハーなのであって、自分たちのような本物のプロ野球の玄人は、素人や田舎者は知らないパ・リーグのチームを密かに応援するというのが美学となっていて、それが4組の生徒にとってはプロ野球の本当の「通」である証しのようであった。

 

6年4組の男子生徒の多くはプロ野球のファンでもあったが、その中でハシラはパ・リーグの東映フライヤーズのファンであった。東映? 何それ? という人が多いのではないかと思うのだが、東映フライヤーズは1962年には名将・水原茂監督のもとでパ・リーグのペナントレースを制し、さらに日本シリーズでもセ・リーグの覇者である阪神タイガースを下して日本一になったことのあるチームだ。投手では当時の日本一の快速球を誇った尾崎行雄、ちぎっては投げの土橋正幸。打者ではリーグきっての巧打者だった毒島章一、不動の4番打者に成長していた張本勲などがいた。ただ優勝したのはこの年だけで、6年4組の1968年には後半戦は全く勝てなくなり、終わってみればチーム初の最下位。優勝した阪急ブレーブスからは実に29ゲームも引き離される惨敗のシーズンだった。そんな東映フライヤーズを人知れず粘り強く応援していたのがハシラだった。なんでこんな地味で弱いチームがいいのか私には理解できなかったが、やがて私も近鉄バファローズに肩入れするようになってから、そんな気持ちが分かるようになったのであった。

 

ハシラとはよく遊んだ。スマホもテレビゲームもない時代である。室内で遊ぶゲームでは、その頃流行っていた野球盤や今日ボードゲームと呼ばれるバンカースやモノポリをよくやった。バンカースは後の人生ゲームのようなもので、双六のように自分の駒を進めていくと行く先々に災難や幸運が待っていて、その都度ドルでお金を支払うようになっておりゴールした時点で、誰が一番お金持ちになっているのかを競うゲームだった。モノポリも同様のゲームだったがこちらはもう少し規模が雄大で、大事業家になって株を売買したり不動産を購入したりしてライバルを蹴落としていくスケールの大きなゲームだった。今でいうマネーゲームの走りのようなものだったが、国家に奉仕する公務員にとっては殆ど大金に縁のないような生活をしていたので、子供たちにとっては将来は大金持ちになる夢を見ることができるようなゲームに人気が集まっていたのかもしれない。現在の小学生はどうなのかよく分からないが、当時の小学生にとってマネーゲームなどは全く縁遠い世界であり、銀行業務や株式売買などの基礎知識を知る術もなかった。お金に頓着するのは汚く卑しい世界の人たちであり、国の仕事に従事するような者は高潔で清廉潔白でなければならない、というような根拠なき倫理観を公務員の家庭では共有していたのかもしれない。おかげでその子弟にもそのような価値観が暗黙の裡に植え付けられてしまっていて、金儲けは悪でせいぜいゲームで楽しむしかないように教育されていたと言えなくもない。そう考えると、つくづく国家公務員とは悲しい職業である。

 

ハシラの父親は通産省の職員だった。私も何回かお会いしたことがあったがいつも笑顔で迎えていただいた。とても恰幅のいい朗らかな人でハシラに似て少し鈍いところもあった。ハシラの家に行くと我が家にはないミニチュアのレーシングカーセットがあって、それを部屋一杯になるまでコースを設置してリモコンで走らせて競走させることが出来るようになっていた。ハシラはいつも楽天的で、運動神経はあまり鋭くはなかったがそれでも体育会系の正直で素直な性格をしていた。

 

夏休みになると、私とハシラは毎日のように団地の中にある空き地に行って、ビニールボールとバットを使って二人だけの野球をして遊んだ。ここは50坪くらいの三角地帯になっていて、空き地の奥には10メートルは優に越えるような杉の大木があった。その当時は一般家庭にエアコンなどというものはなく、室内にいるよりもここの空き地にいるほうが一時の涼を得ることが出来るのだった。ここの野球のルールはちょっと変わっていた。私とハシラがピッチャーとバッターを交互にやって、あまり遠くまで飛ばないビニールボールを打ち、ちょうど野球盤のようにボールが行った地点を見て、ヒットやホームランを決めておくのだ。大きな杉の木をすり抜けてボールがフェンスを越えるとホームラン。三振を奪ったり直接フライやライナーやゴロを捕球したらアウト。という具合である。ビニールボールというのは投げようによってはカーブやシンカーやナックルなどいろいろと変化させることが出来る。また投げ方をオーバースロー、サイドスロー、アンダースローと投げ分けると、ボールの軌道が変わってバッターには打ちにくくなる。このピッチャーとバッターについては、必ずプロ野球の選手の誰かのマネをするようになっていて、例えばバッターなら巨人の王貞治と宣言して一本足打法にしたり、ピッチャーの大洋の平松政次と言ってカミソリシュートを投げてみたりした。大抵はテレビでみた有名な選手のフォームをマネしてみるのだが、ハシラの場合は時々、お気に入りの東映フライヤーズの選手を出してくるので困ったものだった。ハシラの推しは東映の背番号47番の田中と11番の伊藤という二人の左腕だった。ところが私は実際にこの二人を見たことがなかったので、それのマネだと言われても似ているのかどうか判断できない。田中はあの野茂英雄のように一度ホーム方向に背番号が見えるように半回転して動きを止めてから二段モーションのようにして素早く腕を振り下ろしてくる独特のフォームだった。それから伊藤はややサイドハンドのサウスポーで、変則的な腕の動きで特に左打者をよく打ち取っていた。二人とも地味な選手で殆ど知られていなかったのだが、ハシラはこれがいいんだと言っては、その二人のフォームをマネてビニールボールを投げてきたりした。ハシラは普段は安穏としていて特にこれといったこだわりはないようだったが、この東映フライヤーズの田中と伊藤への執着はかなりのもので実にマニアックなものであった。このような試行錯誤を繰り返しながら、その年の夏休みは毎日のように、ここの団地の三角地帯の空き地で行う二人だけの野球に精を出したのだった。

 

もうひとりのモッちゃんこと望月君は、我が家のすぐ向かいの棟の公務員住宅に住んでいた。モッちゃんはハシラとは対照的で、体は小柄で華奢だったし見るからに弱々しくいつも青白い不健康そうな顔をしていた。体育の授業にもなるとモッちゃんは何をやるにしてもウンチ(運動音痴)で、走らせれば遅いし球技ではボールに弄(もてあそ)ばれてしまうし、少し体を動かしただけですぐに疲れてしまって、いつも隅の方にいって一人だけ見ているような生徒だった。元々病弱な体質なのだろう、朝礼などで暑いときや寒いときには、よく一人だけ途中で気分が悪くなって保健室に連れていかれたりしていた。それから一年に何回かは、遠足や林間学校などへバスに乗って出かけることがあるのだが、暫くするとモッちゃんはすぐに乗り物酔いを起こしてしまって先生に介抱されるのが常であった。そんなモッちゃんだったが、この6年4組の男子にとっては特別な存在になっていたのだった。普段は粗暴な問題児が揃っていた4組の男子ではあったが、モッちゃんだけは特別だった。何をやっても上手くいかないモッちゃんに対しては、皆んなで守ってあげるという強い意識があり、何かあったときには全員でモッちゃんの保護者にもなっていたのであった。そして遠足や林間学校などの校外活動のときなどでは、男子生徒が交代でモッちゃん番とでも言うべき見張り役を立てて守ってあげていた。そういう点で、モッちゃんはクラスのマスコットでもあり、何をやってもどんな失敗をしてもモッちゃんなら許されるという不思議な常識が出来上がっていたのだった。

 

モッちゃんは、普段は無口であまり話もしなかったのだが、とにかくクラスの中でもずば抜けて知識が豊富で、特に植物や動物については、本当に信じられないほどどんなことでも知っていて我々にも教えてくれたりした。モッちゃんの家に一度行ったことがあるのだが、我が家と同じ公務員住宅で間取りも同じはずなのだが、驚いたことに家具は最小限のものしかなく、部屋の中には小さなテレビと和室用の机があるだけで、タンスやテーブルや椅子のようなものは見当たらなかった。モッちゃんは一人っ子でいつも母親と過ごしていたのだが、そのお母様もモッちゃんと同じように少し病的に思えるくらい神経質そうな人だった。モッちゃんの父親は聞くところによれば東京大学の理学部の助教授だそうで、授業参観のときに一度だけお会いしたことがあった。度の強い眼鏡をかけていて髪の毛は七三に分けてあり、何かこの世の終わりが来たような深刻な表情をしてニコリともしなかった。何年か前に4組のクラスメイトと会ったときにこの話をしたところ、やはりモッちゃんのお父さんの笑顔は見たことがなかったと言っていた。きっと優秀な研究者ともなるとヘラヘラ笑ったりしないのだろう。東大の先生はこういう人が多いのかと思ってしまったほどである。その影響なのかモッちゃんも理科系の知識や情報に関しては、とても小学生とも思えないほど専門的な事柄も詳しく知っていた。

 

そんな普段は大人しいモッちゃんだが、授業中に驚いたことがあった。それは社会の時間で、隣の3組の田中先生が日本の歴史について話をしてくれたときのことだった。田中先生は、以前も触れたことがあるが、あの俳優の田中邦衛さんの実兄ということで当時は全くそんなことは知らなかったのだが、スラリとした体躯で短く刈った頭髪は、よくよく見ると弟とよく似ているようにも思えた。その田中先生が時々、社会の時間に4組にも来てくれていろいろなお話をしてくれるのだが、担任の大沢先生のときには何か反抗的な態度を見せていた男子生徒たちも、相手が田中先生になるとすっかり大人しくなって静かに話を聞くことが多かったようだ。話は江戸時代の鎖国の話になった。当時の常識では、日本は300年近くも鎖国をしたために、外国との交流も制限されてしまい、近代化が遅くなったという考え方が一般的であった。まあ小学生の段階では、日本の歴史の持つ意味など深く考えることもなかったし、一般的に考えられていた歴史観というものが正しい歴史だと信じて疑わなかったし、それ以外の発想もなかったと思う。そこで田中先生が唐突に質問をした。「日本は江戸時代、300年も国を閉ざして鎖国をしましたが、それは良かったと思う人、良くなかったと思う人、手を挙げなさい。」という質問だった。300年も国を閉ざしてしまう鎖国は、当然良くないことだと思っていたので、私は迷わず「良くなかった」方に手を挙げた。女子も殆どが「良くなかった」方に手を挙げていたし、それを見た男子の多くがすぐにそれに従った。「それじゃ、良かったと思う人は ? 」と田中先生が尋ねると、何と一人だけモッちゃんが手を挙げていたのだった。田中先生は少し驚いたような表情を浮かべながら訊いた。「ほう、それじゃ、君はどうして良かったと思ったのかな ? 」何だかモッちゃんだけが先生に反抗しているのではないかと思って、もしかして怒られるのではないかと心配したのだが、モッちゃんはそんなことは意に介さず静かに答えた。「鎖国があったから、日本は長い間、平和だったからです。」その瞬間、教室は異様な緊張に包まれた。我々のような悪ガキなら、先生の質問に対して普通とは反対の意見を言って困らせてやろうという邪心が働いても不思議ではないのだが、モッちゃんはなぜ一人だけ皆んなとは違う答えをしたのだろう。先生に反抗する動機があるとも思えないし、変なことを言うと先生に目を付けられるからこういうときは長いものに巻かれるのが得策だと考えてしまいがちだが、モッちゃんにはそのような下心から通説とは違う意見をわざわざ言うとは思われなかった。田中先生もこの回答は意外だったようで暫く考えていたが、そのあとの対応が素晴らしかった。田中先生はモッちゃんの意見を受けて次のように応えたのだった。「そう、今、望月君が言ったことはとても大切なことだね。普通は江戸時代に300年も鎖国をしてしまうと世界の国々との交流もなくなって日本は進歩が遅れてしまうと考えがちになるけれども、考えようによっては、この間、日本は外国と戦争をすることはなかったわけだから、平和だったとも言えますね。今、望月君が言ったように、歴史はひとつの正解があるのではなく、いろいろ見方を変えながら考えることも大切です。この質問の正解は、良かったとも言えるし、良くなかったとも言えるだね。歴史というのは、それだけ複雑なものだということです。」と言われたのだった。これを聞いたとき、本当に眼からウロコが落ちるような気がした。田中先生の質問に対して、一人だけ挙手して多数派の意見とは異なる意見をはっきりと言ったことには驚かされたが、それは特別に意を決してしたわけでもなく、先生という権力に反発していたわけでもなかったようだ。公衆の面前で少数意見を主張することはいつの時代でも勇気のいることだろうと思う。地動説を唱えて当時の最大の権力であるカトリックの教会から糾弾されたガリレオが「それでも地球は回っている」と言ったという有名な逸話が残っているが、科学者として確固とした信念を持っていたガリレオも偉かったのだろう。そういう点ではモッちゃんも偉かったし、またそれを受け止めてくれた田中先生も立派だった。もう半世紀以上も昔になるが、西戸山小学校の社会の授業で交わされたさりげないやりとりの中にも、とても大切な要素が詰まっているような気がした。

 

西戸山小学校では、年に何回か校外に行って施設を見学したり演劇を鑑賞したりする課外授業があった。その年は理科の藤井先生が引率する形で練馬区の造成地にある地層を見学して化石を採取する企画があった。これは全生徒が参加したわけではなく希望者に限られていたものだが、これには父兄も一緒に参加することが出来るようになっていて、ピクニックを兼ねた化石の採集学習のようにもなっていた。我が家も母が参加して写真を撮ってくれたのだが、ハシラとモッちゃんのお母さんも一緒に参加していた。道中どのように行ったのかはよく覚えていないのだが、池袋から東武東上線に乗って東武練馬で降りて成増方面に歩いて行ったような記憶がある。生徒たちも藤井先生についてピクニック気分で楽しんでいたが、それ以上に私とハシラとモッちゃんの母親同士が集まって歩きながら、「ママ友会」を楽しんでいるようであった。

そのときの写真が残されているが、当時はこの一帯は宅地開発が進んでいて、小高い丘陵地を削って平地にしているような場所があちこちにあった。現在ではこの辺りはすっかり整地されて住宅地になっていて、ここに丘陵があったことなど信じられないことだが、当時は都内にもこんな自然がそのまま数多く残っていたのだった。藤井先生の引率で現場に行ってみると、小高い丘の斜面がブルドーザーで切り崩されている所があり、そこにはこの関東地方に何万年も前から降り積もった地層が剥き出しになっていた。丘の斜面は色や濃さの違う地層が幾重にも重なっていて、まるで巨大な横縞模様のタペストリーを見ているような光景が広がっていた。

これを見ていたモッちゃんが地層について詳しく説明してくれた。「あれが砂岩でその上が泥岩。そしてこれが玄武岩であの少し赤い土がある層が関東ローム層って言うんだよ。」とにかく理科の知識となるとモッちゃんは何でも知っているようで、こちらはただただ感心させられるだけだった。完全に脱帽である。それから地層の中から白っぽい部分を中心に化石を探すことになった。各々持ち寄った移植小手と小型の熊手を使って化石がありそうなところを慎重に掘り進めていく。白っぽい地層は石灰岩が含まれていてそれはこの部分が昔は海だった可能性が高いということだった。最初は海の潮干狩りでもするように化石探しをしていて、マンモスの骨でも出るのではないかと思いながら楽しんでいたのだが、そうそう簡単には化石など出て来ない。そのうちだんだん皆んな飽きてきて、こんな泥だらけになって何が面白いのだろうと思うようになってきた。中にはもう化石探しは放棄して、急坂になっている斜面を駆けずり回って遊んでいる者もいた。地質学者や考古学者の人たちは、四六時中こんな面白くもない地味な作業をしなければならないのだろうか。こんな仕事をするような研究は私には絶対向いていないと思ったりしたのだった。

それでもモッちゃんとお母さんは二人で黙々と地面を掘り返して化石探しを続けていた。その時だった。モッちゃんが何かを見つけたらしく「あっ、これ化石かな。」と言って掘り出したものを手の平の上に乗せた。皆んなが集まってきて見せてもらったところ、それは蛤(ハマグリ)のような二枚貝のような形をしたものだった。藤井先生もやってきてそれを見ながら「ああ、これは化石の可能性が高いね」と言われた。さすが理科の豆博士のモッちゃんだ。こんな課外授業でもきちんと成果を出してくるところは、科学に対する思いが人一倍強いのだろう。神様もそれを見ていてモッちゃんに化石を見つけるようにしてくれたのかもしれない。普段は体が弱く、何をやってもクラスメイトのあとを追いかけていたモッちゃんだが、この日ばかりは得意の理科の課外授業で立派に主役を務めていた。

 

新宿住宅から同じ西戸山小学校に通っていたクラスメイトはそのほかにも大勢いたが、ご近所だったハシラとモッちゃんは近くにいるというだけで何となく身近な存在であった。二人とも個性は全く違うタイプではあったが、私も含めて父親が国家公務員だと何らかの影響を受けているはずで、それは日々のライフスタイルのほか趣味な嗜好に至るまで共通するものがあるのかどうか気になるところだ。当時はそんなことは考えもしなかったのだが、私もメディアや情報の研究者になるにつれ、私自身の特性や属性は何に起因しているのかについても無関心ではいられなくなったきたこともある。あまり父親の職業や小学生時代の生活環境が、その後の人生にとって支配的な影響を与えてきているとは考えたくもないが、それは社会学的に言えば少年時代に共通する条件のもとで育った複数の人間が、成長したあとにも何か共通する性格や慣習を継続的に保持しているのであれば、そうした少年時代に受けた要因や因子を考えないわけにはいかないようにも思われてくるのだ。

 

前述したピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』に出てくる文化資本という概念は、かなり抽象的でそれを検証することは難しいものだが、考えてみると、私が西戸山小学校でご近所のハシラやモッちゃんと過ごした日々の中に、案外極めて具体的で卑近な実例があるのかもしれない。ハシラとモッちゃん。今頃、どこでどうしているのだろう・・。

 

 

 

 

 

 

バンカースで遊ぶ。モッちゃん、ハシラ、今村 (左から)

 

 

 

         ハシラ (橋本博君)

 

 

       モッちゃん (望月淳君)

 

 

    練馬区成増付近の地層で化石採集

 

 

    地層見学と化石採集の課外授業

(左端がハシラの母、右端がモッちゃんの母)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新宿区立西戸山小学校 12    丹治守雄校長先生の世界一周視察旅行 (2)

 

 

 (前回からの続き)


 

その丹治守雄校長先生が世界一周視察旅行に出かけるというニュースが入ってきた。詳しいことは分からないが、どうも文部省(当時)の海外視察事業のひとつで世界の小学校や中学校の実態を視察するために派遣される視察団の団長を務められることになったという。西戸山小学校は新宿区立の公立小学校とはいっても、先述したようにユネスコのモデル校に指定されていることもあり海外の教育機関の人たちとの交流も盛んに行われていた。その学校の校長先生ともなると一般の小学校とは違い日本の初等教育のリーダー的存在だったことが窺われた。これは何かとてつもないことのように先生方は興奮していたが、生徒の立場からすると校長先生が世界一周視察に行こうがどうしようがそんなことは遠い世界のことで、自分たちには関係ないこととして冷めた印象しかなかった。今では信じられないかもしれないが、1960年代の一般の日本人の感覚から言えば、海外旅行へ行ける人は特別な人であった。父親が優秀で大企業の海外勤務で派遣されるか、あるいはそれこそ大金持ちの家族がバカンスで家族旅行に出かけるかしかなく、しかも当時は普通の日本人が誰でも無制限に海外旅行へ行けるわけではなかった。1964年の東京オリンピックのときに東海道新幹線が開通しそれに乗ったことがあるというだけでクラスでも特別な存在になっていたのだが、飛行機に乗ったことあるような家は皆んなからは一段上のハイクラスの人として羨望の眼で見られていたのであった。そういう中での丹治校長先生の世界一周視察旅行である。しかも日本を代表するような公務の仕事のの団長として使節団を率いる立場で世界を巡る旅に行かれるというのは、自分の小学校の校長先生だと思うと誇らしくもありほかの小学校の人にも自慢して聞かせたいような話でもあった。

それから一か月ほどして丹治先生が帰国されてきた。さっそく全校生徒が体育館に集められて校長先生からお話があるとのことであった。体育館に行くと壇上に大きなスクリーンが吊り下げられていて映写機のようなものが備えられていた。それは丹治先生が旅行先で撮影してきた写真をスライドショーにするためのものだった。丹治先生はスライドの横に立った状態で、自らスライドを順番に入れ替えながら、ハンディマイクを片手に持って嬉々として説明を始められた。

「皆さん、今日は私が世界をぐるっと周って見てきたものを、こうしてスライドを見せながら説明します。たくさんあるのでここで全部紹介できるかどうか分かりませんが、順番に見ていきましょう。」と嬉しそうに言って説明を始めた。もうかなりのお歳だと思っていたし、普段は苦虫を嚙み潰したような表情をしていてあのゲシュタポのような冷血な印象だったあの丹治校長先生が、この日はどうしたことか急に若返ったように、元気に早口で説明をし始めたのには、正直ちょっと面喰ったものだ。

旅の初めはハワイだった。ハワイと言うと当時の日本人にとってみれば憧れの地である。まだ見ぬハワイは平和な常夏の島で、青い海と白い波、そして若者たちがサーフィンに興じているというイメージしかなかった。最初に出てきたスライドも、やはりハワイの典型的なリゾートビーチの風景だったが、次のスライドを見て驚いた。いきなり丹治校長先生が原色だらけのド派手なアロハシャツを着て、小麦色に日焼けした水着姿の美人を両脇に従え、信じられないほどニコニコ笑っている写真が出てきたのであった。何んじゃ、こりゃと誰もが思ったのではないだろうか。普段のどうしようもないような堅物で背広姿しか見たことのない丹治校長先生が、ハワイに行ってどこかおかしくなってしまったのではないかと思ったほどであった。そうしたら、丹治先生はスライドを送りながら嬉しそうに説明を続けた。「いゃー、ハワイね。これは飛行機で空港に到着したときの写真なんですが、タラップを降りるなり水着の女の人がやってきて私の首に花輪(レイ)をかけてくれたんですよ。それでね、そのあとね、いきなりね、キスされたんですよ ! いゃー、これには驚きましたよ。国が違えば風習も違うもんですねえ。」照れ臭そうにそう言いながら、結構嬉しそうに説明するのであった。私はハワイといえば真珠湾攻撃の話を父からよく聞かされていたので、当然丹治先生からは日本とハワイの戦争に関すものが出てくると思っていたのだがそうした話は全くなく、校長先生がサイケ調のアロハシャツを着てハワイ美人から花輪(レイ)をかけられていきなりキスされた話だけで終わってしまった。朝礼のときには丹治先生はよく戦後日本がいかに大変だったのかのお話をされるのであるが、ではどうして日本はこんなアメリカなんかと戦争を始めてしまったのかをもっと詳しく説明してほしいと思ったものだった。

この日そのあとどういう話をされたのかすっかり忘れてしまったが、とにかく体育館で全校生徒たちにハワイのスライドを見せたことだけは鮮明に覚えている。あのアロハシャツに花輪(レイ)をかけた丹治校長先生の嬉しそうな顔だけが強く印象に残っている。それだけそれは強烈なイメージだったのだろう。映像のイメージとは恐ろしいものだ。何しろそのあときっと大切なお話もしていただいたと思うのだが、あのサイケ調のアロハシャツを着て水着姿の女の人が挟まれた丹治先生の笑顔以外の記憶は、私の記憶には全く残っていないのだから、それだけ映像のイメージが強烈であることの証明になるのだろう。

 

その丹治校長先生の世界一周視察旅行の話は、体育館でスライドを見せただけでは時間も全く足りなかったらしく、後日、昼休みの校内放送で校長先生自ら出演されて話をすることになった。放送部長だった私にも担当の先生からその旨の指示があった。何といってもこの学校で一番偉い人が昼休みの放送室に来て大切な話をするのである。さっそく放送部員が集められくれぐれも校長先生には失礼のないようにとお達しがあった。この学校の昼休みは1時間ほどであろうか、午前の授業が終わると全校の各クラスの給食委員が一斉に給食室からワゴンでその日の給食を運び出して教室で配膳を始めた。各々の教室で生徒たちは給食をいただくのだが、ここの学校のメニューは一段と豪勢なものであった。全員が食べ終わるとあとは自由時間になって、午後の授業の時間が来るまで校庭や屋上に行ってボール遊びをしたり教室でゲームをしたりした。その間、昼休みの校内放送が流された。放送はラジオ放送で各教室に備えられているスピーカーから音が出るようになっていた。放送部の部員が担当の曜日を決めて、それぞれ音楽を流したり最近のトピックをアナウンサーが読んだりしていた。その昼休みの放送時間を使って、丹治校長先生の世界一周視察旅行の続きをしていただくことになったのだった。

 

いよいよ放送本番の日がきた。私は放送室のサブ(副調整室)にいて、ガラス越しにスタジオ内の校長先生の話をチェックしたり、マイクの音量やノイズなどがないかを確認するような作業を補佐していた。いよいよ丹治校長先生が放送室にやって来た。担当をしている先生も後ろに付いてきていてしきりに校長先生のご機嫌を取っていた。あの夏目漱石の「坊ちゃん」に出てくる赤シャツと野太鼓のような関係だろうか、お付きの先生がひとりで興奮しながらはしゃいでいた。こういう人のことを「太鼓持ち」というのだと私はこのとき初めて知った。スタジオは結構狭いスペースだったが、ここに丹治先生と6年生の女子の放送部員がアナウンサーが入り、生徒の方からいろいろ質問しながら校長先生がそれに答えるという形式になった。

このときのことはあまり詳しくは覚えていないが、今回の世界旅行で訪れた国ではイギリスとソ連の学校の話をされていたように思う。イギリスでは一般市民が通うパブリックスクールを見学されたそうだが、丹治先生から見るとイギリスの学校は失望されたようだった。この当時、時はビートルズの全盛時代であり、イギリスの都会の生徒たちは男子でも長髪が流行っていて、不良や非行が一種のカウンターカルチャー(対抗文化)のステータスにもなっていた。イギリスと言えばエリザベス女王陛下の国であり、近代日本がお手本としてきた先進国であり、第二次世界大戦では日本も交戦した相手国でもあった。そうした先進的な国の学校教育がどのようなものか、期待しながら視察しに行ったはずだが、丹治先生の意に反してその現場は混乱と無秩序に溢れていたようだ。丹治先生は少し不愉快そうな表情をされながら、訪れたイギリスの学校について話をされた。

「私はイギリスのパブリックスクールに行ってきたのですが、いゃー、驚きましたね。とにかく皆んな生徒たちのお行儀が悪い。男の子でもあのだらしなく髪を伸ばした子もいるし、授業中でも先生の話を聞いていない子もいて、もっとイギリスはしっかりしているものと思っていたのですが、ちょっとがっかりしましたよ。それで授業が終わって休み時間になると、生徒たちは一斉に教室を飛び出して大騒ぎをしていました。学校は遊ぶ場所じゃあないでしょう。イギリスは自由の国だと思っていたのですが、もっと自由は何かということを学校でしっかり教えなければならないのではないかと思いましたよ。」

このときは私自身もイギリスのことは全く知らなかったし、日本より先を行っている国だと思っていたので、この話を聞いて少し驚いた。それだけイギリスの普通の学校では、生徒たちが自由に生活していることのほうが羨ましく思われたほどだった。

それから数年して私が中学生のときに「小さな恋のメロディー」というイギリス映画を見ることになった。当時人気バンドのビージーズの音楽に乗せて、マーク・レスターとトレイシー・ハイドの二人のハイスクール生徒がロンドンの街中で何とも魅力的なラブストーリーを展開してくれる名作である。この映画の中で、まだまだ子供の生徒たちが先生や親などの大人の世界に精一杯抵抗しながら、自分たちの自己主張を可愛らしく繰り広げていく物語になっていた。その中で学校のシーンが出てくるのだが、ここに丹治先生が言われていたようなイギリスの学校の様子がそのまま出てきたのだった。物音ひとつ聞こえないシーンと静まり返った学校の廊下。授業が終わるベルが鳴ったとたん一転して生徒たちが大声を挙げながら教室を飛び出して、校内はそれこそ混乱と無秩序状態になっていた。ははん、なるほどそうか。丹治先生は視察旅行に行かれたときに、これを見たんだなと思ったりした。

私にはイギリスの学校は自由で活力に溢れていて羨ましく感じたのだが、日本を代表する教育者としてこの光景を見た丹治先生は、どうも失望し不愉快に思われたようだ。このあたりの丹治先生の教育哲学ははっきりしている。何といっても規律と秩序が最優先事項であり、他人に対する礼節と敬意が不可欠であるという信念を持っておられることがよく分かった。当時の1960年代末の日本はまだ高度経済成長の途上にあり、戦後の混乱から脱して豊かさを追求する時代だった。この経済的な豊かさの先には何があるのか、まだ当時の日本にはその展望など出来る状況ではなかったことだろう。その頃から大学受験の過剰な関心が日本全体に広がって、日本の学校教育は小学校から高校まで極端な管理教育が進行していった。そうした受験戦争の背景には、高度経済成長に伴う学歴社会の深化が進み、個人や学校の序列化が進展していったと指摘する意見もある。現代のスマホやSNSの時代になっても、子供たちの自由の問題と規律や秩序の問題は深刻な問題だ。このとき丹治先生がイギリスの学校で見た光景は、現代日本の学校教育にもつながる課題を含んでいるものかもしれない。

次に丹治先生が話していただいたのは、ソ連の学校のことであった。ご承知のように旧ソ連は1991年に解体してしまい、現在はロシアやベラルーシやウクライナなど10数か国に分裂してしまった。当時のソ連といえば、何といっても社会主義の国であり、今では信じられないかもしれないが、日本から直行便もなくテレビもソ連国内の映像を見ることは殆ど許されていなかった。1968年の段階では、中華人民共和国もまだ日本との国交は回復しておらず、国連に加盟している中国を代表する政府はあくまでも台湾の中華民国政府であった。つまり当時のソ連と中国は、日本にとってはベールに包まれた大国であり、第二次世界大戦では結果として日本に勝った戦勝国でもあったので、それだけ強い国の学校教育はどのようになっているのかという素朴な興味が小学生の私にもあった。

丹治先生の世界一周旅行では、イギリスのあとにソ連に行ったらしく、訪れた学校の様子もまさに対照的だったようだ。開口一番、丹治先生はソ連の学校をよほどお気に召したのか、とても褒めておられた。

「ソ連というと社会主義の国なので、どこか恐ろしいような気がするでしょう。ところが現地に行ってみると、それが全然違うんですよ。学校に入ると隅から隅まできちんと掃除が行き届いていて、先生が教室に入ったとたん生徒たちが全員立ち上がって礼をするんですよ。そして一人ひとりが元気よく返事をしたり先生の質問に答えたりして、とても緊張感のある充実した授業をしていましたよ。イギリスの学校と違って、男子生徒は髪の毛を短く切っていて気持ちがいいものでしたね。やはり学校はこうでなければなりません。社会主義の国なので、教育方針や教育内容については日本とは大きく違うのでしょうが、学校はどんな国であっても先生と生徒が真剣に学ぶ場所でなければなりませんね。今回私が見たソ連の学校は、とてもしっかりした教育が行われていて生徒たちの態度も良かったと思いましたよ。」

丹治先生はソ連の教育現場はよほど気に入られたようだった。でもね。私だったらどんなことがあってもソ連の学校に行きたいとは思わないだろう。それは丹治先生の教育哲学に則った管理教育が徹底されていて、規律や秩序が最優先にされているのだろうが、何か教育にとって大切なことが欠けているのではないか。その頃は社会主義の国家がどういうものなのか想像も出来なかったのだが、結局のところこれは強力な軍事力と警察力を背景とした、国家権力をそのまま教育現場に適用している結果なのではないかと思ったものだ。そういう体制が良いと考える人もいるかもしれないが、私はご免だと生理的に思ってしまう。これでは学校教育と言いながら軍隊と変わらないのではないのか。たとえ教育現場の規律と秩序が守られていたとしても、そのような体制を実現させている国家や社会の思想や哲学に問題がある場合には、一体誰がこれを修正することが出来るだろうか。その当時から権力をもっている偉い人や金持ちや大人たちは、どうも信用ならない人たちだと思っていたし、権力を持つようになると人間は自分に都合の良い理屈を立てて、平気で嘘をつくようになるのではないかと疑っていたのであった。丹治先生の言われることはどれを取って見てもごもっともであり正論であるには違いないのだが、やはり私の第一印象があるせいか、あの銀縁眼鏡の冷徹な印象は、どうしてもやはりゲシュタポに見えてしまうのであった。

 

校内放送は基本的に生放送である。世界一周視察旅行の話をされて、丹治校長先生は満足そうにしておられた。それで私が部長を務めていた放送部の企画として、丹治先生からお好きな曲をリクエストとしていただいて、その週は昼休みの校内放送で流すことにした。その場で聞き手の女子生徒が丹治先生にリクエスト曲は何かありますかと尋ねたところ、「そうねぇ」と少し考えてから、「それじゃ『小さな喫茶店』にしてもらおうか。」と言われた。生徒が「どんな曲なんですか?」と尋ねると、丹治先生は笑いながら「これは私の若い頃によく聴いた曲なんですよ。」と言った。

こうして、丹治校長先生による世界一周視察旅行の校内放送は無事終わった。ただでさえ慌ただしい昼休みの放送室に丹治校長先生が来て直接生放送でお話をしていただいた。とても中身の濃い内容だったのではないかと思う。その当時の小学生ではよく理解できない問題もあったが、少なくとも身近の人から海外の事情を直接話してもらえる機会を持つことができただけでも、大変有難いことでもあった。私が川崎の平間小学校からこの新宿区西戸山小学校へ転校してきた日に初めて校長室でお会いしたときの印象から、丹治校長先生はどうも煙たくて鬱陶しいような存在に思えていたのだが、このとき放送室のような狭いところで少人数を相手に、いろいろな話をしていだだくことが出来て、私にとっても随分と丹治先生に対するイメージも変わったような気がした。

 

それから間もなくして丹治先生がリクエストしてくれた曲『小さな喫茶店』のレコードを探し出してきて、放送部員の生徒たちと一緒に聴いてみた。それは何とも言えないような味わい深い曲で、生真面目で堅物の印象が強い丹治先生のキャラからは想像もできないようなロマンチックで哀愁を帯びた曲だった。その後、私はこの曲について詳しく知りたいと思っていろいろ調べてみた。

『小さな喫茶店』(In einer keiner Konditorei)は、1928年にドイツのフレッド・レイモンド(Fred Raymond)が作曲したコンチネンタルタンゴで、ワイマール時代のドイツで流行した曲である。主にダンスホールなどで演奏され、日本にも1930年代に伝えられたとあった。ワイマール時代とは、第一次世界大戦に敗戦し壊滅的な惨状になったドイツで、新しく理想的な国家建設を求めて建設されたワイマール共和国の時代のことである。ドイツ全土は貧困と絶望に見舞われ、そこに理想的な国家再建の夢をかけて建設されたのがワイマール共和国だった。しかし理想と現実のギャップはあまりにも大きく、ベルリンを中心に耽美的で退廃的な文化が蔓延していった。その頃、ヨーロッパで流行したのがコンチネンタルタンゴだった。そこには一見すると壮麗で華美な様式の中に陰鬱な死のイメージが伴われていて、やがて再び迫りくる戦争と破滅を意識しながら束の間の生の炎を燃え立たせていたような文化があったのではないだろうか。

日本でも1930年代になると、大都会の喧噪の中にひたひたと戦争の足音が聞こえるようになってきたが、それを意識したのかあの昭和初期のデカダンスを追い求める美学が流行した時代でもあった。丹治先生の世代であれば、そんな時代に青春期を過ごしたのではないだろうか。もしかするとどこかの小さなダンスホールでこの曲を聴きタンゴを踊りながら、忘れられないような青春のひとときを過ごしたのかもしれない。やがて訪れる戦争の悲しい歴史を半ば意識しつつ、丹治先生はこの国のことや教育のことを考えてこられたのかもしれない。きっとそうだ。きっとそうなんだ。丹治先生のあの冷徹なゲシュタポの仮面の下には、そういう思いがあるに違いないのだ。そのように想像を巡らせてみると、このタンゴの名曲の中には丹治先生の人生がたくさん詰まっているのではないかとも思えてきた。そしてこの曲が好きな人に悪い人なんかいないだろうと思ったりしたのだった。

 

丹治先生の世界一周視察旅行の放送が終わったあとも、私は昼休みの校内放送の中で機会がある度にこの『小さな喫茶店』のレコードを持ち出してきてかけてみた。もう何回も聴いたことのある曲だったので、放送部員の生徒からは「今村君は本当にこの曲が好きだね。どうして何回もこの曲をかけるの?」と言われたりしたこともあった。「それはヒミツ。」と答えていたが、この曲には私と丹治先生の二人だけのヒミツで繋がれているような気がしていたのだった。

 

 

 以下、YouTubeに出ていた『小さな喫茶店』のアドレスを貼り付けておきます。丹治守雄校長先生から推薦していただいたこの曲を、多くの人に鑑賞していただければ幸いです。

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=J0GjhNYXCcI&list=RDJ0GjhNYXCcI&start_radio=1

 

 

 

 

 

        西戸山小学校 丹治守雄 校長先生 と 校歌

 

 

 

新宿区立西戸山小学校 11    丹治守雄校長先生の世界一周視察旅行 (1)

 

 

「ほう、そうか。君には苦手科目はないのか。・・それじゃあ、4組に行ってもらおう。」

私が西戸山小学校へ転校した日、初めて校長室で聞いたのが、この丹治守雄校長先生の言葉だった。この時にはこの言葉が何を意味していたのか見当もつかなかったのだが、この一言によって、私は問題児が集められているとしか思えないようなあの54組に配属させられることになったのだった。それは今から振り返ってみると、私の人生にとっても重大な岐路であったような気もする。

 

(※ 新宿区立西戸山小学校 1   運命の転校 54組へ 参照)

 

丹治校長先生と言えば、銀縁眼鏡をかけてあのニコリともしない氷のような表情から、生徒からはゲシュタポと呼ばれていた。あのナチスの冷酷な秘密警察のゲシュタポである。もうかなりのご高齢だと思われるのだが、常に背筋を伸ばして颯爽と歩いておられる姿は、まるで軍隊の将校のような出で立ちであり、時折周囲に送るその視線は、捕虜収容所を巡回するナチスの将軍のように冷血漢そのもののようにも思われるものであった。西戸山小学校は新宿区立の小学校ではあったが、文部省(当時)が指定するユネスコのモデル校でもあり、海外から来日する教育関係者が視察に来る学校にも指定されていた。それだけこの学校の校長先生というと恐らく教育関係機関の中でも一段と権威があって、国の文教政策にも参画にされていることが容易に想像された。その分、学校の設備や施設も他の新宿区の小学校と比べても充実していたし、先生の出身大学や専門性などはかなり高いものであったように思われる。しかしそうは言ってもここは新宿区の公立の小学校であり、地域に生活している一般の区民が義務教育として入学してくるのであるから、中には態度やお行儀がよろしくない問題児もいるわけだ。ここでは6年間のうち3年生から4年生になるときに一度だけクラス替えが行われていたのだが、1組から4組まであるうちで、どうも問題児だけ隔離してほかのクラスに迷惑がかからないように4年のとき4組に集められていたのではないかと思われるようなメンバーが揃っていた。当初はそんなことは考えもしなかったのだが、その後、私自身が大学の教員になるにつれて学校運営の様々な実態を見ることになり、「気になる学生」や「問題ある学生」などは教員と職員が協力してサポートして一般の学生とは別扱いにすることがままあった。そう考えると、文部省からユネスコモデル校として指定され海外から教育関係のお客様をお迎えするような小学校では、きっと問題のありそうな生徒を一か所に集めておくことも、実際に行われていた可能性が高いと思わざるを得ない。最初に私の通信簿を見てどうも生意気に思われたのか、ゲシュタポ=丹治校長先生は、その時点で私を隔離した方が良いと判断されたのかもしれない。いずれにせよこの一言で、私の人生は突然アウトローの世界に導かれるようになったように思えてならない。

 

西戸山小学校では、毎週月曜日の朝の朝礼に校長先生のお話があって、全校生徒が校庭で話を聞くことになっていた。以前も触れたことがあるが、とにかく丹治先生の声はよく通る晴朗な声をされていて、しかも言葉は明瞭ではっきりされていたので、とても聞きやすいものであった。しかもその口調は、まるで軍隊の教練で教官が兵隊に述べる訓示のようなものであり、また選挙の際に政治家が街頭で行う演説のようなものでもあった。最初は穏やかに「皆さん、お早うございます。・・」から始まり、次第に話が高じてくると「皆さん」から「諸君」に変わり、最後は半ば命令口調で「これだけは、よく覚えて置くように !」と訓示のように締めくくるのであった。丹治先生の年代だと恐らく戦争経験もされているだろうし、実際に軍隊の経験もされていたのかと思われるが、コミュニケーション研究における説得効果という点から見れば、権力者の威厳を見せつけるという点からしても、小学生相手に毎回実に巧妙で効果的なコミュニケーションをされる先生だと思われたのだった。特に私にとって強く印象に残っていたのが、1968年のメキシコオリンピックのマラソンの結果を聞いたときのことで、これは月曜日の朝の朝礼で丹治校長先生から「金メダルはエチオピアのウォルデ、マモ・ウォルデという人です。・・そして銀メダルは、日本の君原健二という人でした。」という情報をこのとき聞いたのであった。しかもこのさんざん勿体ぶりながら小出しにして、ゆっくりゆっくり話したのが丹治校長先生だった。どう考えても性格が捻(ひね)くれているとしか思えなかったのだが、そんなことからも丹治先生には生徒たちからゲシュタポの徒名(あだな)が付けられていた所以(ゆえん)なのだろうと思う。

 

(※ 新宿区立西戸山小学校 7    グルノーブル五輪とメキシコ五輪 鈴木恵一と君原健二 参照)

 

その丹治校長先生の朝礼で話される内容というのは、短いながらもテーマがはっきりしていて、西戸山小学校の生徒たちに何らかの教訓を示しているものが多かった。今でも私がよく覚えている話としては、家で父親から何か頼まれた場合の生徒の対応の仕方についての話があった。丹治先生の話の導入部は大抵は誰にでもあるような身近な話題から入る。

「皆さんのお家でも家の人から何か用事を頼まれるようなことがあるでしょう。それで皆さんは、お父さんやお母さんからよく自分のことは自分でしなさいと言われたりしませんか? そう自分のことは出来るだけ人に頼らず自分でするようにしましょう。でもね、これを勝手に自分に都合よく解釈してはいけませんよ。それはどういう状況なのかよく考えてから判断しなれけばなりません。」と、ここまでが恒例の前置きの部分になるのだ。これからいよいよ本題に入る。まずはテーマに繋がるような事例からだ。

「そう、例えばね、皆さんの家でお父さんからちょっと新聞取ってきてくれないかと頼まれたりするでしょう。こんな時、皆さんはどうしていますか? ここで教えられた通り自分のことは自分でしなさいとお父さんに言ったりしてはいけませんよ。普段から目上の人から頼まれたら、少しでも役に立てるようにしてください。そしてできればお父さんの靴が汚れていたら、お父さんから頼まれなくても自分から靴を磨いてあげるようにしなさい。いいですか。間違ってもお父さんに自分のことは自分でしなさいなんて言ったら駄目ですよ。両親や先生などの目上の人に対して平等だと思ってはいけませんよ。いいですね。・・」という内容だった。

今の小学生や若い人たちがこれと同じことを聞いたらどう思うだろうか。さっそくネット上では「上から目線」とか「老害」とか「昭和の暴言」など、ひどい罵詈雑言が飛び交うのではないだろうか。時代が変わったと言えばそれまでの話だが、もう少し社会学的に見ると、何がどのように変わったのか、またどうして当時と現代ではそのような違いがあるのか、そしてその変化の背景にはどのような要因が潜んでいるのか。こういうことを分析考察するのが社会学的考察になるのだ。逆に言えば、このような丹治先生の話に含まれている教育的メッセージが、現代の日本の教育の場からなくなってきているとすれば、それはなぜかを問うてみることが重要であることに気づくはずだ。半世紀以上も昔のことなので、現代の小学校の事情とは大きく違うことは当然なのだが、もう少し客観的にその内容を考えてみると、今日本社会が陥っている文化的諸問題の原因がそこに潜んでいると見ることもできる。それはまず社会が豊かになり少子化で生徒数が激減したことは明白なのだろうが、公教育の場で子供たちに何を伝えればよいかという思想や哲学の部分をもっと注視しておく必要があるだろう。丹治先生の話に出てくる中に今の日本の社会や家族を改めて考えてみるヒントがあるのだろう。

まず「お父さん」の存在だ。戦後社会では核家族化が進み、戦前までのような大家族の家父長的権威主義は大きく変わってきた。「新聞を取って来る」にしても、今新聞を取っている家も少なくなってしまったし、朝ごはんを家族で一緒に食べることも少なくなったのではないだろうか。ましてお父さんが履いている革靴を、出勤する前に子供が磨いておく状況など、現代では非現実的過ぎてマンガにも出てきそうもない。つまり「お父さん」のために「新聞を取ってくる」のも「靴を磨く」のも、伝統的価値観に基づく「家庭内儀礼」を含意しているわけである。ただそのような行為を「ウザい」とか「ダサい」と決め込むだけでなく、そのような儀礼的行為は何のために必要なのかを考察し自覚することが大切なのである。もっともそういう私自身も、朝礼で丹治先生も話を聞くたびに、今で言うように「ウザい」と感じていた生徒のひとりであるし、こんな話を聞かされるのはいつも鬱陶しいと感じていたものだった。しかしもう少し丹治先生の立場に立って考えてみると、学校教育で大切なこととして小学生のうちから規律と秩序の大切さを学ぶことや、良い人間関係を築くためには礼節と敬意を持つことなどが重要であるということを伝えたかったのではないかと思われる。あまりにも当たり前のことではあるが、よくよく現代の日本社会を考えてみると、学校のいじめの問題、不登校、引きこもりの問題、さらには児童虐待、家庭内暴力、そして学級崩壊、闇バイト、若年層の犯罪の増加などなど、学校教育に原因があると考えられることも少なくない。

このようなことの背景として少子高齢化やバブル崩壊後の空白の30年や就職氷河期などを挙げる意見もあるが、私自身は長年教育現場で教職を務めてきた経験から言えば、小学生時代の学校教育と家庭教育の中に根本的原因があると考えている。最近では「昭和の時代」と言うと特に若い世代からは否定的に捉えられることが多いようだが、それは嫌悪を通り越して生理的に受けつれない言葉にまでなってきているようにも感じられる。しかし教育現場が当時から改善されたかと言えばそういうことはなく、むしろ学校教育における現代の子供たちが置かれている状況は、さらに深刻化していると思われる。現在に問題があるのなら、それは「昭和の時代」から何が変わったのかをもっと客観的に分析しなければならないのではないかと思うのだ。若い世代の人たちが教育の権威主義や事大主義を批判することは簡単だが、それだけでは近年の無秩序なネット社会における解決策を見出すのは困難なことだ。そのためには自由や解放に伴う責任や義務、そして社会全体の規律や秩序をどうすべきかという視点が求められるだろう。半世紀以上も前の丹治校長先生の言葉を思い出しながら、温故知新(古きを温(たず)ね新しきを知ること)の重要性を改めて感じることになった。 (次回に続く)

 

 

 

 

 

   西戸山小学校 丹治守雄 校長先生

 

 

 

新宿区立西戸山小学校 10    原爆おやじと秋の大運動会

 

 

しばらくの間、時間が経過してしまったが、特に断筆したというわけではなく、少し元気が出てきたので、これからまた投稿を再開することにしよう。

 

西戸山小学校の前には新宿区営の広い野球場のグランドがあった。ここは隣接する西戸山中学校も利用していて、野球以外のスポーツやイベントなどにも使用されていた。日曜日になると真新しいユニフォームを纏った社会人の軟式野球や女子ソフトボールの試合などが行われていたりして、どこから来たのかわからないような野次馬がネット裏に陣取って大きな声で声援と野次を送っていたのだった。このグランドは、当時の都会の小学生にとって貴重な遊び場であり、また人生経験を積む貴重な場であり、ただ単にスポーツを楽しむ場というだけでなく、様々な人々が行き交う様子を観察することが出来る格好の舞台ともなっていたのであった。

この近くには知る人ぞ知る職業安定所(現在のハローワーク)があった。そこには毎朝仕事を求めて集まって来る季節労働者のような人たちが大勢屯(たむろ)していた。最近でもこの近くの公園に行くと、早朝、何台かのトラックが来て、その場で日当の建設労働者を雇用してトラックで走り去っていく光景が見られるそうだ。私が西戸山小学校に通っていた1960年代はまだ外国人労働者を見ることはなかったが、恐らくは行く当てのないホームレスのような高齢のおじさんたちがこの辺りにいて、中には公園のベンチで寝泊まりしているような人もいた。また昼間から一升瓶を手にしながらボロボロの薄汚い作業着のようなものを着て、公園やグランドの周辺を行く当てもなく徘徊しているような人もいた。見るからに不潔だし近くを通り過ぎただけでも異臭のような匂いがすることもあった。思わぬことで子供たちに危害が及ぶ危険性もあることから、小学校でもこのような人たちから声をかけられても絶対に近づかないようにと指導されていた。でもね。この頃の生意気な小学生ともなると、このように先生から注意されればされるほど、反抗期の少年にとっては却って逆らってみたいという衝動に駆られるものである。

小学校の前のグランドで野球をしていると、いつもキャッチャーの後ろにきて、大きな声で「ストライーク !」と言って審判をしてくれる初老のおじさんがいた。恐らく酒浸りの生活をしているのだろう、いつも薄汚い風体に赤ら顔をしていたのだが、子供好きなのか少年野球が始まるといつもキャッチーの後ろに来ては勝手に審判を始めるのだった。その人は頭はもう白髪が混じっていて、暫く風呂にも入っていないらしくボサボサの髪が上を向いて逆立っていたが、その髪型がまるで原爆のきのこ雲のように見えたので、我々小学生の間では、そのおじさんのことを「原爆おやじ」と呼ぶようになっていた。最初は皆んなが怖がって近づかなかったのだが、毎日のように審判をしに来ていろいろな話もするようになると次第に慣れてきてしまって、すっかりこのグランドの少年野球専属の審判のようになってしまっていた。その「原爆おやじ」は、どういう人なのか詳しいことは誰も知らなかったのだが、いつも小学校の周辺の公園やグランドのベンチにいて、時には大きな鼾(いびき)をかきながら爆睡していることもあった。我々小学生と話をするときは、とても温厚で陽気だった。笑うと何本か歯が抜けていて残りは銀歯だったことが分かった。グランドに来ると子供たちの野球のプレーの一つひとつを見て、大声を出して激励したり叱咤したり冗談を言ったりして、いつも楽しく場を盛り上げていた。初夏の長い一日が終わる頃、もう夕暮れが近づいてきてあたりに夜の帳(とばり)がグランドに降りて来る時間になっても、遠くからあの「ストライーク !」という声がよく聞こえてきたものだった。西戸山小学校の少年野球には「原爆おやじ」はいつの間にか欠くことのできない名脇役になっていたのだった。

ある日のことだった。陽も傾いて北風が身に染みるような公園のベンチのところに何人かの男の人たちが集まって言い争いをしているようだった。あまり近づかないようにして遠巻きに見ていると、人の輪の中に例の「原爆おやじ」の姿が見えた。どうも不穏な雰囲気のようだったが少し近づいてみると、いつも笑顔を絶やさない「原爆おやじ」がどうしたのか俯いて膝まづいたまま涙を流しながら何かしきりに謝っている。消え入るような声で「もう、勘弁してくれよ。・・お願いだから、・・もう、勘弁してくれよ・・」と言う声が聞こえた。だが周囲を取り囲んでいた男たちはそんな懇願を聞き入れる様子もなく、さらに怒気を荒げて「このバカヤロー !」と言いながら、膝まづいている「原爆おやじ」の顔や頭を蹴飛ばしていた。「お願いだから、もう許してくれよお願いだから・・」そういう弱々しい声が聞こえていた。一体何があったのだろう。理由はともかくとして、年老いて職を探してこの公園やグランドにやって来た「原爆おやじ」にも、彼なりの生活や人生があったはずだ。こんなところで集団リンチを受けるような人には見えなかったが、普段、少年野球の審判をしているときのような明るく快活な人でも意外な一面があるのかも知れない。きっと他人には分からないような過去があり、いろいろな失望や無念があるのだろう。こんな「原爆おやじ」のような高齢者が公園のベンチで暴行を受けている現場を目撃したことは本当にショックだった。その光景は暫くの間、私の頭から離れなかった。

 

この野球場グランドの周囲は一周するとだいたい500mほどだっただろうか。皆んなで駆けっこをしたり自転車で競争したりしたものだ。この地域には公務員住宅や都営住宅や企業の社宅などの団地がたくさんあって人口密度がかなり高かったので、何か大勢の人が集まる行事やイベントなどが行われるときにも、このグラントが使われることがよくあった。しかし私が小学校4年生まで過ごしていた川崎市平間の公園のように、チンドン屋が来たり紙芝居屋が来たりするようなことはなく、近くに子供たちの溜まり場となるような駄菓子屋もなかった。そういう点では新宿区の小学校は管理教育が徹底していたと言えるのだが、近くに職業安定所があったり新大久保や大久保方面に行くと歓楽街やラブホテルもあったりして、大人の裏の社会とすぐ隣り合わせになっていて、そういう世界があることを小学生でも無意識のうちに知る環境にいたのは川崎とは異なっている点だったかもしれない。

 

秋になるとこのグランドで行われる一大イベントが大運動会であった。西戸山小学校は全校生徒が約1000人規模の学校だったが、生徒全員が参加してひとつの目標に向かって競い合うようなイベントは運動会が一年のうちで唯一の機会だった。そういうこともあってか、運動会の日が近づいてくるにつけそれなりに盛り上がったものだった。この学校の運動会は全校生徒を紅組と白組に分けて、様々な競技で得点を競わせるというよくあるルールが採用されていた。同じクラスの中でも紅組と白組に分かれるので、運動会の少し前からそれぞれ対抗意識を持ちながら本番の日を迎えた。私が6年生の1968年の大運動会は928日に行われた。この日は朝から私の母が会場に来て写真を撮ってくれたので、その日のことを伝える貴重な写真が何枚か残っている。先日、古いアルバムを探してみたら懐かしい写真も出てきた。

小学生にとって運動会というのは、いろいろな意味がある。ただ単純にスポーツで力と技を競うというだけでなく、普段はよく知らないほかのクラスの子たちのことを知る機会にもなっているし、男子にとってみると運動会は自分をアピールするための重大な場でもあるのだ。特に徒競走や騎馬戦などの花形競技で活躍すると一躍ヒーローにもなれるし、もしかすると女子にももてるようになるかもしれないという淡い期待も少なからずあったのではないだろうか。逆に運動会で大失敗をしたりカッコ悪いことをしたりしたら、皆んなから白い目で見られるし高邁なプライドもズタズタにされる。小学生にとってみれば、それこそその後の学校生活にも大きな影響を与えかねない重大な試練の場でもあった。また女子の活躍も男子には気になる要素だった。この年頃ならどんな男子でも一人や二人はお気に入りの女子がいて、その子がどの種目に出場してどんな成績を収めるのかはやはり気になるところだった。それから男子同士でも運動会はいろいろな意味で人間力が試される場となっていた。特にリレー種目や団体戦などでは、誰がチームリーダーとしての資質があるのかを試されることになり、小学生とはいいながらクラスの中で肉体的にも精神的にも頼りになるのは誰かを知る材料になっていた。男子にとって一番みっともないのは、普段は偉そうなことばかり言っていてキザな態度をしている奴が、いざ運動会になると全くのウンチ(運動音痴)であることが暴露され、しかも負けてから言い訳ばかりするような奴は、一瞬にしてその信用を失うことがあるものだ。こういう時の女子の評価は極めて辛辣である。あとで女子に話を聞いてみると、運動会でドジをした男子のことは殆ど無視され徹底的にバカにされてしまうようなのであった。これは何としても運動会ではみっともない真似はできないと思った。それから私には個人的なプレッシャーもあった。私は放送部の部長に就いていたのだが同じ6年生の部員だけでなく5年生の部員も私のことを見ているだろうし、放送部長は下級生の生徒にも顔が割れているので、その前であまり無様な姿を晒すわけにはいかなかったのだった。もし私が出場して足は遅いし動きは鈍いし団体競技では全く役立たずであったりしたら、それこそ放送部長は口先だけだと思われてしまうかもしれない。ここは何としても頑張らなければならない。そんな今から思えば阿保らしいような危機感を持ちながら、その年の運動会の日を迎えたのだった。

西戸山小学校の秋の大運動会の朝は早い。会場を設営する係の先生や生徒たちは、テントや万国旗など様々なものを事前に準備し、普段は野球場として使用されているグランドに楕円形の陸上用トラックを作るのに上手に石灰で白線を引いていち早く完成させていた。放送部はマイクやスピーカー等の放送用機材を搬入し、音楽担当の先生がレコードをかけられるようにセットするまでが事前の仕事になっていた。そんなことより何と言っても放送部長としてみっともないようなことにならないように、出場する競技に合わせてコンディションを整えておかなければならない。そんないろいろなことを考えているうちに、前日の夜は目が冴えてなかなか寝付けずすっかり寝不足になってしまった。午前中はまだ気が張っているので何とかなるかもしれないが、午後になってどっと疲れが出てきて走れなくなったり、途中で転んでしまったりしたらどうしよう。こういう状況になると、急に弱気の虫が出てきて心配でしょうがなくなるのだった。

思えば、私は川崎の平間小学校のときも運動会では楽しいという思い出はあまりなかったように思う。平間小学校では3年生のときにクラスの応援団長に選ばれて、大きな旗を持って「フレーフレー ! 」と応援の掛け声をかけるように言われて本当にうんざりした経験があった。他人の競技を見たりどちらが勝ったのかを見るのは嫌いでもなかったのだが、自分が競技に出たり応援団長になったりして晒し者にされたあげく、周囲からあれこれ言われるのはどうしても耐え難い気持ちがしたものだ。競技に出る以上は、やはり負けるより勝ちたいと思うのが当然なのだが、どこの学校でも私などよりも数段運動神経が優れている生徒はいるもので、自分が一番になって一躍ヒーローになれるようなことはなかなか想像できないことが多かった。しかし5年生からこの西戸山小学校に来て思ったのは、この学校の生徒は口達者な奴は結構いるものの、本当にスポーツのスーパーアスリートと思われるような生徒は意外と少ないことだった。これなら何とかなるかもしれない。私はさっそく自分が出る種目を見ながら作戦を考えて臨むことにした。

最初の種目は短距離走である。一周200mの半周の100mを走るコースで最初の部分がコーナーのカーブになっていた。ここは何としてもスタートダッシュが勝負だ。コースは5コースに分かれていて、同じ64組の男子同士の競走となる。私は内側から2番目の2コース。少しカーブがきついコースだ。メンバーはいつもの野球のメンバーばかりで、内から太田、今村、福島、大山、山本の5人。この中では1コースの太田君がライバルと思われた。ゆっくり作戦を考えるまでもなくあっさりスタート。このときのことは実はよく覚えていないのだが、母が撮った写真を見てみるとスタートでライバルと思われた太田君がどうやら出遅れたらしい。どういう展開だったのかは忘れてしまったが、母の写真には「庸一、1着」と書いてあったのでトップだったらしい。

それから次に出場したのが6年生男子全員が一緒に約1000mを走る持久走だ。これは結構体力とスタミナがいる競技で、学年の中でも誰が一番になるのか優勝候補が事前に噂されるような注目のレースでもあった。ここで特に男子生徒には真価が問われることになる。普段は学級委員などを務めている優等生でも、いざ運動会の持久走でどん尻を走るような男子は誰からも評価されないような空気があった。結果はもちろん大切だが、いざという時になって誰もが苦しい状況を何とかして乗り越えていくような逞しい気概と根性があることが求められているのだ。たとえ負けても一生懸命に戦って最善を尽くしたのであれば、人間として大した奴だと評価されるが、逆に最初からやる気もなくあっさりと惨敗した上にあとから言い訳ばかりするような奴は、どんなに頭が良くても尊敬されない。持久走という種目は、そのような人間性が試される試金石にもなっていたのであった。持久走は学年別になっていて、6年生男子は約80名が対象になっていた。個人の記録も大切だがここではクラス対抗戦という意味合いもあり、持久走で好成績を収める生徒がいるクラスはどこか、それは即ち人間として根性や気概があり信頼されるような生徒がいるクラスはどこかが試される競技にもなっていたのだった。日頃の野球や体育の授業などから大体優勝候補の生徒は分かっていてスタートしてから10名前後が先頭集団を作った。私はそのハイペースにはついていかず第二集団で後半勝負の作戦をとることにした。こういうレースでは普段はおとなしくて目立たない生徒でも精一杯頑張ったりするので、後半は本当に大激戦だった気がする。結果は先頭集団から少し遅れて全体の10番台でゴール。クラスでは太田君に次いで2番の成績だった。

最後は運動会の掉尾を飾る騎馬戦である。騎馬戦は男子のみの種目で運動会では一番盛り上がる花形種目である。これは4人一組で一騎の騎馬を作るのだが、そのうち上に乗る騎手が相手の騎馬と対戦して先に相手の帽子を奪うか下に落としたら勝利になるというものだった。私は白組で上に乗る役の騎手になり、どういう戦い方をすれば良いのか事前にほかの三人と入念に打ち合わせをした。最初は紅組と白組の騎馬全体が一斉に出て戦う団体戦である。一定の時間が来るまでお互いに帽子を奪い合いタイムアップになったところで生き残っている騎馬の数で勝敗を競うというものだった。そこで私の騎馬の4人で考えた。団体戦の中に入り込んで紅組の何騎かをやっつけたとしても、最終的に生き残っていなければ意味がないわけだから、戦略的には出来るだけ戦いには巻き込まれないようにして、何とか最後に生き残ることを最優先にすべきだという意見で一致した。そうとなればもう前に出て戦う必要もない。スタートの合図とともに我々の騎馬は終始逃げの一手で、出来る限り紅組の騎馬とは直接対峙しないように後方で逃げまくることにした。結果は作戦通りだった。勇敢に最前線に打って出て討ち死にした騎馬もいたが、最終的に生き残った騎馬の数で勝敗が決まるのだからそのような果敢な作戦はむしろ無謀であった。こうして我々の騎馬も含めて団体戦は白組の勝利となった。次にいよいよ勝ち抜き戦になった。勝ち抜き戦は、紅組、白組、それぞれの一対一の対戦をして勝った方は勝ち残りで続いて次の騎馬と対戦することができる。一番手の先方から最後の大将の騎馬まで全ての騎馬が打ち取られた組が負けとなる。今度は団体戦のときのように逃げまくる作戦は採ることはできない。私は実際に戦う騎手になったわけだが、ここは相手の立場に立って心理戦を考えてみた。相手も何とか勝ちたいと思って私の帽子を狙ってくることは目に見えているので、相手の腕が伸びた瞬間を捉えて言わばカウンターで相手の帽子を狙うことにした。きっと相手も焦って攻めてくると思われるので、こちらは老獪に相手の心理を利用した方が効果があると考えたのだった。騎馬戦のルールはなかなかよく出来ている。上にいて戦う騎手の体格が大きく腕が長いほど有利に戦えるが、体格が良ければいいというものでもない。通常は騎手の体重が重くなるとその分だけ下の三人の騎馬にかかる負担が大きくなる。短時間の勝負ならその作戦もいいかもしれないが、なかなか決着がつかず長期戦になると体重が重い騎手の騎馬はその重さの負担が大きくなってきて動きが鈍くなることになる。しかしだからと言ってあまりにも小柄で非力な騎手にしてしまうと、体格と体力で最初から圧倒されてあっさり敗れ去ることにもなるのだ。私が騎手として適性だったのかどうかは分からないが、少なくとも団体戦で逃げまくり三人の騎馬の体力を温存していたことと、私が後の先のカウンター戦法を採ったことで、これが功を奏す結果となった。一対一の対戦が始まると、予想した通り相手の紅組の騎手は強引に私の帽子めがけて攻勢に出てきた。少し距離があるところを無理やり腕を伸ばしてきた瞬間がチャンスだ。すかさず私は相手の赤帽に指をかけて奪い去ることに成功した。啞然としながら悔しそうな表情を浮かべる紅組の騎手。次も、その次も、またその次も・・・。同じような展開が繰り返された。結局、私は6人抜きの快進撃で白組の勝利に貢献することが出来た。この騎馬戦の様子は全校生徒や先生方も注目して見ていたらしく、運動会が終わったあともこの騎馬戦のことであちこちから声をかけられたりした。私の勝利を見ていてくれる人がいるのは、小学校の騎馬戦と言えどもやはり嬉しいものである。それから放送部長としても何とか面子を保つことが出来て、一気に胸のつかえが降りたような気がした。

この日の運動会の騎馬戦で私が得た教訓は、とにかく「逃げるが勝ち」と相手の心理の上を行く「カウンター戦法」であった。今からこれを振り返ると本当にたわいもないことのようにも思えるが、それはその後の私の人生にも反映されているような気がしないでもない。小学校のときの何げない経験は、案外その後の人生の方向性を決定する重要な要素になっているのかもしれない。今になってその時の写真を見てみると、まあ当時から大して成長していないものだなあとも思えてしまうのだ。

 

それから何十年もの歳月が流れた。数年前に西戸山小学校のクラスメイトと久しぶりに会う機会があり母校を訪ねることになった。周囲の建物などは殆ど建て替わってしまったが、小学校の校舎や校庭などキャンパス自体は当時のまま残されていた。あの運動会が行われたグランドにも行ってみたが、敷地は同じだったものの全面人工芝のグランドに張り替えられていて、普段は一般には開放されていないようだった。小学生の頃、ここで野球をしていると、どこからともなくあの「ストライーク !」という声が聞こえてきたものだ。「そういえば、あの「原爆おやじ」どうしたかなあ。」と私が友人に尋ねたところ、「原爆おやじ? 知らなかったの? 間もなく亡くなったらしいよ。公園かどこかで一人で亡くなっていたって聞いたけど・・」と素っ気ない答が返ってきた。「ふーん、そうか。・・亡くなったのか・・。」その言葉を聞いて、何故かあの頃の光景が急に蘇ってきた。あの髪の毛が逆立ったような原爆頭でいつも元気な声で「ストライーク !」と発していたおじさんのことを。いろいろ厳しい人生だったのかもしれないけれども、最後はこの西戸山小学校の近くで生涯を閉じた「原爆おやじ」。少年野球の審判をしているときはとても楽しそうに見えたよな。きっと最後は幸せな人生だったと思いたいものである。

 

 

 

      大運動会会場のグランド (左が西戸山小学校)

 

 

     大運動会会場のグランド (奥が西戸山中学校)

 

 

  短距離走 (今村・内から二番目で1着)

 

 

       持久走 (今村・頑張ったが全体の10番台)

 

 

      騎馬戦・団体戦 (逃げるが勝ち作戦)

 

 

  騎馬戦・勝ち抜き戦 いざ出陣 (今村・右の騎手)

 

 

騎馬戦・勝ち抜き戦 (今村・右 6人抜き)

 

 

新宿区立西戸山小学校 9    個性溢れる先生方 哲学堂写生大会金賞 合唱コンクール出場

 

 

西戸山小学校の先生方は、とても個性溢れる方ばかりだった。

6年4組の担任だった大沢俊子先生はとても几帳面で生真面目だったが全ての科目で常にしっかりした授業をされていた。6年生のほかのクラスの先生方も一人ひとり個性もあり専門も異なっていた。1組はやや偏屈と言われていた山崎秀雄先生。数学がご専門で小学校の算数を教えていただくには勿体ない感じがした。2組は古典文学がご専門の斎藤秀子先生。能や謡曲がご趣味でバス旅行のときにその詠唱を聴かせていただいた。3組は歴史や地理がご専門の田中忠男先生。長身でハンサムだったが、あの俳優の田中邦衛さんの実兄だそうだ。当時は全く気付かなかったが、そう言われてみると似ているような気もする。そのほかここでは専門性の高い科目には、中学や高校のように専門の先生が担当する場合が多く、図工の秋元清弘先生、音楽の高安八郎先生、理科の藤井清先生、保健の今給黎つゆ子先生などは、それぞれの専門科目の授業を担当していただいた。

 

この中でも図工の秋元先生にはとても思い出深いことがある。秋元先生は普段はとても寡黙な方で、たいていラフな格好をしていて芸術家らしくよくベレー帽を被っていた。図工は文字通り図画と工作を体験する授業だったが、中学では美術や技術工作の時間に相当する授業だ。この学校では小学校にしてはかなり本格的な内容を扱っていて、絵画のためのデッサンや材木を使用した木工などは高価な道具を使った専門的な授業になっていた。秋元先生はいつも授業の初めにその日にやることを簡単に説明したあとは、ほとんど生徒の自主性に任せていたようだった。それでも生徒が困っていたり質問があったりするときには適切なアドバイスをしていた。また生徒がいい作品を仕上げてきたりすると個別に呼んで褒めてあげたりしていた。

図工室にはほかのクラスの生徒が描いた絵が展示してあったのだが、その中で私がひときわ感心していた作品があった。それは公園の樹々を描いた水彩の風景画だったが、何と樹々の幹の色や葉っぱの色がオレンジ色と黄色で描かれていたのだった。その絵は日没間際の夕景を描いたもので、オレンジ色と黄色がグラテーションになって樹々が夕日を浴びて輝いている情景が鮮やかに描かれていた。絵に近づいて見ると樹々や葉っぱの細部は省略されていて何だかよく分からない。しかもほとんど絵の具が原色のまま並列に塗られていて近くから見たら何を描いているのかよく分からないが、少し離れて見るとそれは樹々の幹や葉っぱが夕日を浴びて輝いて見えるような作品に仕上がっていたのだった。これには驚いた。それまで私は色に関しては固定観念があって、空は青、雲は白というように、描く対象物はある程度の色が決まっているという先入観を持っていたことに気がついた。樹々の色にしても、幹は茶色、葉っぱは緑というように、物には決まった色があるものだと思っていたのだが、この絵に描かれているように夕日を浴びた樹々はオレンジ色や黄色で描いても構わないのだ。いやむしろ、その方が実際の風景には忠実に自然の色を表現していることになるわけで、私はこの作品にしばし見入ってしまったほどであった。

西洋美術史に詳しい方ならよくご存知かと思うが、これこそ19世紀のフランスでモネやルノアールなどが初めて試みた印象派の色彩分割という技法が使われていたのだった。印象派の作品の多くは水彩画ではなく油絵ではあったが、当時としては画期的な方法で絵画の世界に革命を起こしたことで知られている。それによれば、それまでの新古典派やロマン派の画家たちが原則としていた固有色の固定観念を排して、移ろいゆく光の色に忠実に色彩を再現するためには、絵の具を出来る限り混合しないで原色の鮮やかな色をそのまま並列させて描くという方法が色彩分割と言われる技法として知られている。西戸山小学校の図工室に展示されていたこの絵は、すでにこの印象派の色彩分割の技法を用いて描いたものだったのである。誰がどこでこんなことを覚えたのだろう。この時点では私も印象派の知識もなかったので、ただただ驚いてこの絵を見ていただけだったのだが、何げなく教室の壁に飾られている小学生の絵の中にも、この学校の美術教育の水準の高さが見て取れた。

西戸山小学校では遠足も兼ねて毎年郊外に写生大会に行く行事があった。学校から歩いて30分位のところにある中野区の哲学堂公園に行って、各自、水彩画で写生をしてくることになっていた。哲学堂というのは、明治時代に東洋大学を創立したことでも知られる哲学者の井上円了がこの地に四聖堂(哲学堂)を建て、その後ここは公園として整備されて今では近隣住民の憩いの場として親しまれている所である。私が西戸山小学校にいた頃も、広い公園内には大きな森や池が園内に配置されていて、樹々や草花など絵になる風物詩がいたるところで楽しめるような公園になっていた。写生大会というのは毎年行われていたが、学年毎に全員が作品を提出して、後日、優秀作品が選ばれて表彰されることになっていた。ただ私の場合、広々とした公園に行って一日中スケッチをしているような気分にはどうしてもなれず、印象に残った場所の下絵を何枚か適当に描いて、絵の具箱は開かずにあとは家に帰ってから仕上げをすることにした。正直な話面倒くさいし、あまり現地で一生懸命絵を描く気になれなかったのであった。しかししばらくそのままにしておいたものだから、提出する前日まで何もしないで時間が過ぎてしまった。さあ、これは困った。どうしたものか。下絵は何枚かあるので、あとはこれに絵の具を塗って色をつけるだけだ。ただ、もうどんな色だったのか覚えていない。まあ水彩画として色がついていればいいのだろうと思って、精密に現場の風景を再現することは早々に諦めることにした。

そこで、ふと例の絵を思い出した。そうだ、あの図工室に貼ってあった夕景の樹々の絵。幹や葉っぱがオレンジ色と黄色で描かれていた絵だ。あのような絵にしてみようと思って試してみた。まず下絵の中から中央に歪(いびつ)な曲線をした枝のある木があるものを選んだ。そして一番手前に太い大木の幹、そしてその中央に曲がりくねった木の枝が伸びていて遠近感があるように配置し、木の根元には雑草が伸びていて、そこに日の光が当たっているようなイメージを考えてみた。個々の木や枝や草の輪郭は出来るだけ単純化して細部は適当に描いておき、一番手前の太い幹はできるだけ重みのある漆黒の黒色に。それから全体は樹々の陰になっているように深めの緑色や茶色に。中央の歪な形に曲がっている枝には斜めから木漏れ日が当たっているように明るい部分と暗い部分を分けて描き、最後の雑草が木の手前に生い茂っている中央のところは、ちょうど光が当たっていて最も色鮮やかになるように原色の黄色や緑色や青色を散りばめ、所々光が強く当たっている場所にはまるで神聖な後光がさしているようなハイライトとして白色を加えるようにした。

本当はもっと丁寧に描きたいところだったのだが、もう時間が迫ってきてしまったので、半ば未完成のような感じだったがそのままその絵を提出することにした。たぶんもっと綺麗な絵を描いてくる生徒もたくさんいることだろう。私の作品は構図も抽象画のように大雑把で、出来るだけ絵の具を混ぜないで描いたため未完成の作品のように思われても仕方ない作品だった。

それから一週間ほどが経った。この哲学堂公園の写生大会の優秀作品が、二階の渡り廊下のところに展示されることになった。私はあまり期待もしていなかったのだが、皆んながどういう絵を描いたのか興味もあったのでさっそく見に行った。小学生とはいっても絵が上手な生徒の作品は本当に感心させられるほどよく描けていた。秋元先生の指導もいいのだろう、作品の一つひとつが実に個性的だった。だんだん歩を進めていくと奥の方に入賞作品のコーナーになっていた。まずは銅賞。かなりの数の作品に銅メダルのマークが付けてあった。次に銀賞。ぐっと数が少なくなるがここにも佳作が並んでいてそれぞれ銀メダルのマークが付いていた。もうここまでくると私の作品は望み薄だった。時間に追われて描きかけのような作品なのだから半ば入賞など望むべくもないと考えていた。そして一番奥のところに、今回の金賞作品が3点ほど掲示してあった。そこに見慣れた絵があった。何と私の絵が金賞に選ばれていたのだった。ほかの作品が初夏の明るい公園を描いていたのに対して、私の作品だけは全体が極端に暗く、遠くから見ると黒っぽい絵に見えた。しかし私が意図したように中央部分の雑草が生えているところだけ、葉陰から光が差し込んでまるで後光がさしているように微かな光が当たっていて、それが絵の具を混ぜずに描いた原色の効果で一段と色鮮やかに目に飛び込んできた。一番手前の漆黒の太い幹も遠近感を表すのに効果的で、まるでピカソやミロが描いたモダンアートの作品のようにも見える。改めて自分の作品を近くで見ると思った以上にいい作品になったと思えてきた。あれだけ大勢の生徒たちが一生懸命に描いて提出した中で、最優秀作品の金賞の3点のうちのひとつになったのである。私自身は自分の絵の才能は、あのストーリーマンガを好んでいたフクこと福島君ほど才能があるとは思っていないが、それでもこの哲学堂公園の写生大会で金賞をいただいたことは、それからの絵画や美術に触れるときのためにも大きな刺激をプレゼントしてもらったと思っている。

その次の図工の時間には、あの秋元先生から呼び止められて「君の絵、よく描けていたね。金賞、おめでとう。」と声をかけていただいた。有難いことである。偶然にもこの図工教室で見た夕景のオレンジ色と黄色の絵を見たことがヒントとなっていただいた金賞である。私は印象派や色彩分割について何の知識もなかったのだが、きっと秋元先生はそのあたりのことも評価して私の作品を金賞に選んでいただいたのではないかと思われる。秋元先生と図工教室とそして哲学堂公園の写生大会は、私にとっても実に忘れられない経験をさせていただいた。

 

音楽の高安八郎先生も私にとって印象深い先生だった。高安先生はロマンスグレーの銀髪で、もうかなりのご高齢のようだったが、彫りの深い輪郭の風貌でどこか外国人のようにも見えた。いつも帰り際にはコートの脇にバイオリンを抱えて歩いておられていて、まるでパリの街角を歩く本物の音楽家のように見えたりしたのだった。高安先生の音楽の授業は、毎回先生がその日にテーマを決めて、作曲家や作品の解説をしたり実際に皆んなで歌を歌ったりした。平間小学校のときの音楽の授業も4年生の担任だった日高先生の授業などは小学校の音楽の授業にしてはとても充実したものだったが、なぜか川崎市では全員がハーモニカとリコーダー(縦笛)を持ってそれで演奏することが多かったように思う。この西戸山小学校ではハーモニカやリコーダーは殆ど使われていなかった。それに代わって高安先生からは特にクラシック音楽の楽曲についての解説がよく行われた。私のようなクラシック音楽に関心がある生徒にとっては本当にためになる内容ばかりだった。先生はいつも気難しそうな顔をしながら話をされるのだが、話を始めると本当に音楽に関する知識や造詣が深く、小学校の教員というよりは音楽大学の教授という感じがした。

この授業でよく覚えているのはシューマンの「トロイメライ」とチャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレ」である。「トロイメライ」はクラシック音楽では有名な曲だが、それが「子供の情景」というピアノ組曲の一部であることや、この曲は後にシューマンの妻となるクララのために書かれた「トロイの木馬」の「夢」を表現した曲であることを教わった。そして実際に高安先生はグランドピアノで「トロイメライ」を弾いていただいたのだが、本当に素晴らしい演奏で夢のような授業だった。もう一つの「アンダンテ・カンタービレ」はチャイコフスキーが作曲した有名な弦楽四重奏曲である。授業では第二楽章の展開部について曲の説明がありバイオリンによるピチカートの技法も先生が実際にバイオリンを使って弦を指で弾(はじ)くように弾(ひ)くやり方を実演してくれた。高安先生の授業は小学校のレベルを遥かに超えていて、音楽の作曲技法や演奏技法に至るまで、音楽に関する専門的な知識や教養がたっぷり詰まっていたのだった。この授業で習った「トロイメライ」と「アンダンテ・カンタービレ」はいつか自分もピアノで弾けるようになりたいと思い、中学生になってから楽譜を買ってきて独学で猛練習して弾けるようになった。今でも時々思い出して自宅のピアノでこの曲を弾くことがあるのだが、弾く度に私はあの高安先生の授業のことを思い出すのだった。

その高安先生は、この西戸山小学校の合唱の指導もされていた。当時、新宿区の小学校を対象にした合唱コンクールがあって、6年生の中から歌の上手い生徒が選抜された。私は幼少期から歌を歌うのは好きだったし、ピアノも習っていたので音楽の成績は常に5だった。しかもこの頃、11歳か12歳の頃はまだ声変わりする前でボーイソプラノであった。そういうこともあってかその合唱コンクールの男子のメンバーのひとりに私が選ばれた。合唱を指導するのは高安先生である。全体で15名前後の少人数の合唱隊だったが、ボーイソプラノは3名でそのうち4組からは私と丹羽君が選ばれた。練習は毎日授業が終わったあと放課後に行われたが、いつもの音楽の時間とは違って高安先生はとても楽しそうにされていて、歌詞の一つひとつをご自身で見本を示しながら指導されていた。因みに3名の男子以外は全て女子の混声合唱団である。女子はソプラノとアルトに分かれていて、それぞれのクラスを代表するようなお嬢様揃いであった。高安先生の指導で男子のパートの部分を練習していると、残りの女子が周囲を取り囲んでジロジロ見ては笑いながら何かしゃべっている。針の筵(むしろ)とはこういうことなのかと思ったものだ。この時ピアノ伴奏を担当していたのが2組の木下牧子さんだった。その時からピアノの技術は飛び抜けていたのだが、彼女はその後、東京芸術大学大学院作曲科に進学し、今では日本を代表する合唱曲の作曲家になったらしい。不思議なところでご縁があるものである。

その合唱コンクールは神宮外苑にある日本青年館ホールで行われた。このホールは大正時代に竣工した歴史ある建造物で、現在では近代的な高層ビルに建て替わっているが、当時はまだ建設当時の威容を残したまま威風堂々と神宮の杜に立っていた。合唱団の男子は上は白いワイシャツで蝶ネクタイ着用と決められており、当日は黒い革靴を履いてくるようになっていた。中に入ってみると、大理石の重厚な階段があり床は全面に赤絨毯が敷き詰められていた。ホール自体は小規模のものであったが、ここで学校を代表して合唱を披露することは大きな誇りでもあったし、メンバーに選んでいただいたことに対して感謝する気持ちで一杯だった。そのときどんな出来栄えだったのかはよく覚えていないのだが、後日、そのときの合唱を録音したレコードがメンバーに配られてきた。冒頭部分の歌詞は確かこんな風だった。「風が吹いてきたー。そーら始まるぞー・・」もう歌のタイトルも忘れてしまったのだが、そのレコードを聴いたときにかん高いボーイソプラノの声が聴こえてきた。あの一部が自分の声かと思うと、何だか信じられないような感覚になったものだ。当時、我が家にもまだテープレコーダーというものはなく、自分の歌声を自分で聴いたのはこのレコードが初めてのことだったのである。

今でも明治神宮外苑に行って日本青年館の古い会館があった場所の近くを通ると、あの日、この場所で合唱コンクールのメンバーで歌ったことが思い出されてくる。西戸山小学校の音楽の授業といえば、高安先生のあの味のある内容とこの合唱コンクールのことがとても強く印象に残っている。6年4組からは丹羽君と私の二人だけ体験することが出来た大変有難い機会でもあった。あのときの合唱団のメンバーも、きっと皆んな同じような思いがあることだろう。

 

このように西戸山小学校の先生方はいずれも個性豊かな上に各々の専門性を持っていて、小学校教諭のというだけでなく一人の人間としてもとても魅力溢れる先生ばかりであった。またただ単に小学校の教材を教えるということに留まらず、その分野の専門的な知識や学問的背景に至るまで、より深い次元の知識や情報を伝えていただいて、結果的にはそれが生徒たちのその後の人生の基盤となるような教養や人格の形成に役立っているのではないかと思われる。こういうことは金儲けの手段や立身出世のためになったりするわけではないが、小学生の頃にインプットされた知識や経験というのは、その人の人生観にとっては大切な価値を形成するのではないかと考えられる。

その後、私はプロの放送作家となり、またメディアや情報を扱う大学教授にもなったのだが、そのようなキャリアを積むための基盤はどこにあったのかと自問すれば、やはりこの西戸山小学校時代に学んだ知識や情報が無意識のうちに役立っていたのではないかと思われるのである。私の大学の授業でも「芸術学」という講義を担当したことがあるのだが、その中では印象派の色彩分割を説明したり、また音楽の対位法や和声を講義したりしたのだが、そうした知識の元はどこにあったのかと辿ってみれば、実は西戸山小学校時代に触れた知識や経験から始まって私の基礎を作ってくれたのではないかとも思われるのだ。こういうことは自分が小学生のときには想像もしなかったことだが、この歳になって自分の人生を振り返ってみて自分自身がどういう経緯で現在の自分になってきたのかを自己分析すると、今まで気づかなかった小学校の頃の出来事の中に再発見や再認識するようなことがたくさんあることに気づく。そんな時いつも思うのは、私は数多くの人々と出会い、特にいろいろなことを教えていただいた恩師といえるような先生方には本当に恵まれていたということである。そうした先生方から学んだことの全てが、今の私を形作っているのだと思うと、感謝の言葉しか思い浮かばない。私に教えを授けていただいた全ての先生方には、今改めて「ありがとうございました」とお礼を申し上げたいと思う。

 

 

 

 

    6年4組の頃 自宅のベランダで

 

 

         6年生の担任の先生方

斎藤先生(2組) 山崎先生(1組) 田中先生(3組) 大沢先生(4組)

 

 

 

 

         専門科目の先生方 

秋元先生(図工) 今給黎先生(保健) 高安先生(音楽) 藤井先生(理科)

 

 

      写生大会の会場となった哲学堂公園

 

 

 

   合唱コンクールの会場となった日本青年館

 

 

新宿区立西戸山小学校 8    がんばれ !  ベアーズ  6年4組 放送部長と野球少年

 

 

西戸山小学校に転校してきてから1年が経った。1968年4月になって私はそのまま6年4組の生徒になった。

 

5年生から6年生に進級することで、学校生活の上では取り立てて大きな変化はなかったが、教室が別棟の3階から本棟の3階へ変わった。この学校の最上級生になったのだから、下級生のお手本になるようにと先生からも注文がついた。6年生の教室は校長室や職員室にも近く、5年4組の教室のようにどう見てもほかのクラスに迷惑がかからないように一番端っこの教室に問題児が集められるというわけにもいかず、節度のある品行方正な学習態度が求められていたのだろう。6年生の、特に4組の男子生徒にそのような「自覚」があったかどうかは甚だ疑わしかったが、少なくとも1組から3組までの生徒は、最上級生になって何となく大人になったように見えなくもなかった。また4組は明らかに女子上位で、この年代は男子よりも女子の方が発育が速いせいか、知能や態度だけでなく、体格や腕力などでも男子は女子に負けていた。ほかのクラスが同じだったのかは分からないが、少なくとも何かあるといつも女子は褒められ役、男子は怒られ役になっていた。こういうことからも、このクラスの男子は自分たちが負け組であることを自覚して、常識的で真面目な優等生を嫌悪していたようにも思えた。こうした環境からも4組の男子生徒がサブカルチャーやオタク文化に傾倒していく理由があったのかもしれない。

 

6年生の教室になって変わったことと言えば、教室にテレビが付いていたことだ。今では各々の教室に大きなモニターやプロジェクターが付いていることは当たり前だが、この時代は小学校の教室にテレビがあること自体、全国的に見てもとても珍しいことで、ユネスコのモデル校になっているだけあってかなり先進的で贅沢なことでもあった。テレビは25インチほどの白黒テレビで授業で参考にするような時だけ特別に視聴することができた。しかもテレビは通常はロックがかかっていて、放送室の奥にあった調整室のロックを解除しないと見ることができないようになっていた。これは当然のことながら教員の許可が必要で生徒が勝手にロックを解除することは出来ない。どうしても教室でテレビを見たいときには、先生に頼んで使用許可書を提出して放送室に先生と入ってロックを解除しなければならなかった。そういうことからも、テレビを見るためにはとにかく放送部員になってこの煩雑な手続きをいつでも簡単に出来るようにしておく必要があったのだった。

 

私は5年生の後期から念願の放送部員になったのだが、6年生になっても引き続き放送部員になることを認めてもらった。放送部の仕事はどれを取っても興味深いものばかりだったが、具体的にどういうものだったのか少し思い出してみよう。最初の頃は、放送部の仕事は慣れないことが多く、6年生の先輩にいろいろ教えてもらいながら、マイクや機材の使い方などを覚えていった。この学校の放送室は別棟の2階にあって、朝と昼休みは必ず校内放送を流すことになっていた。それから朝礼のときや放課後の放送のときも、マイクの設置や機材の運搬などは放送部の仕事になっていて、放送部の男子部員はしばしば力仕事に従事する必要があった。放送室はスタジオ部分と調整室(サブ)の部分に分けられていて、小学校の放送室にしては立派な機材が整えられていた。スタジオはラジオ用のブースになっていて上から大きめのマイクが下がっていた。また大きなガラスで隔てられた調整室はアナウンサーにキュー(合図)を出すようになっていてガラス越しにカンペを見せるようになっていた。調整室には壁に沿ってラックが並んでいてたくさんの機材が収納されていた。ハンディマイクや大きなPA(プレイアンプ)があり、多くの機材からは何本ものコードが複雑に接続されていた。こうした機材やコードも一つひとつ覚えていかなければならなかった。それから音楽を流すときは当時はレコードをかけることになっていたのだが、この頃は全てレコード針を手動でレコードの細い溝に乗せなければならず、これが大変な緊張を要する作業だった。例えばLPレコードの4番目の曲をかける場合は、レコードをプレイヤーにセットして回転させている状態で、3番目の曲の終わりと4番目の曲の始めの間にあるわずか1ミリもないような溝の上に上手にレコード針を置かなければならない。最初は緊張のあまり手が震えて上手く置けないことがよくあったが、先輩から要領を教えてもらい、しばらくすると自分でも名人になったと思えるほど百発百中で針の先を細い溝の上へ静かに乗せることが出来るようになった。まさに駆け出しの放送職人の修業時代のようであった。

放送部に入って一番最初に感じたことは、皆んなそれぞれのクラスを代表して放送部員になってきたことだけのことはあって、品行方正の優等生ばかりのように見えた。また女子はアナウンサーらしくかなりの美人揃いで頭の回転も速く上品で聡明そうな女子が多かった。6年生の男子の先輩たちは性格が明るく積極的で、5年生の後輩にはとても親切に面倒を見てくれた。同じ5年生の放送部員同士はすぐに仲良くなったが、総じて言えることは4組のような屈折した悪ガキのようなタイプは殆ど見当たらなかった。他人の言うことを素直に聞いて前向きに行動するタイプが多く、変に言葉の上げ足を取ったり裏を探る必要もないような生徒ばかりだった。私はここへ来てようやく私の居場所が見つかったような気がした。

放送部員は当番制で、各自何曜日の朝や昼休みに担当するようになっていたのだが、特に担当日以外のときでも放送部員は時間がある生徒はいつでも放送室に来て手伝うようにもなっていたため、私などは時間さえあればできるだけ放送室にいることが多くなった。そして昼休みは給食があり、それぞれのクラスで給食当番というのがあってそれが面倒な仕事になっていたのだが、どうしても昼休みの校内放送に立ち会わなければならないという理由をつければ放送部員は給食当番を免除されるようになっていたのだった。これは良かった。このお陰で私は昼休みはたいてい放送室にいて給食は届けてもらえるようになったのだった。私がどうしても放送部に入りたいと思っていたのは、何より朝礼と校長先生の話を回避するためだったが、昼休みの給食当番も免除されることは想定外のメリットだった。こんなときには放送部員になって本当に良かったと思ったりしたものである。

 

新年度になり放送部員も新しいメンバーが入ってきた。私のように5年生から引き続き放送部員になった者もいたが、新5年生の部員や6年生で新しく加わった部員もいた。新年度から放送部の顧問の先生に、私の担任だった大沢俊子先生が担当することになった。平間小学校で5年生なったクラスの担任だった田村先生がやはり放送部の顧問で私を副部長に推薦してくれたように、今回は6年生になったので大沢先生にも、できれば最上級生でもあり昨年から継続して放送部員にもなっているので、私に放送部長をさせてほしいとお願いした。そうしたら最初は生返事をしていて、ほかの先生とも相談してみると仰っていたが、数日後どうやら承諾が取れたようで、放送部の会合で私が部長に立候補することを認めていただいた。ここが5年生から継続していたメリットでもあり当初からの狙いでもあった。いきなり6年生から放送部に入部した生徒が部長になっても、まずは基本的な仕事の作業手順から覚える必要があるので、リーダーシップを発揮することは難しい。幸い私は5年生のときに先輩の6年生から仕事の段取りや機材の管理などを学んでいたので、その点ほかの生徒よりも有利な立場にいた。放送部長という学校の要職を決めるに当たって、6年のほかのクラスの部員は少し躊躇ったような雰囲気もあって、よりによって4組の生徒が部長にならなくてもいいのではないかというような暗黙の抵抗のようなものも感じられたが、恐らくは大沢先生が放送部の顧問につくことになったことから抵抗勢力がこの場で顕在化するようなこともなく、私は平間小学校以来、長らく目標としてきた放送部の部長に就くことになったのだった。それから1年間、学校を卒業するまで放送部長を務めたのだが、この間に知り合ったほかのクラスの部員とも交流することが出来たことは本当に大きな財産になった。それまでは6年4組という一種特殊なクラスにいて、これはこの西戸山小学校全体の生徒の特徴なのか、あるいは4組特有の特徴なのかなかなか判別できないような要素もあったりしたのだが、ほかのクラスの「常識的な」放送部員の生徒たちから情報を得ることによって、6年4組を今度は外から相対的に見ることが出来るようになったし、やはりこのクラスに限られた一種異様なことも冷静に判断出来るようになったのであった。

 

さてその6年4組では相変わらず野球が盛んだったが、他のクラスも野球をしていて、どこが一番強いのか対抗試合をしようという動きが出てきた。4クラスあるうちで評判が高かったのが隣の6年3組だった。ここは見るからにスポーツ万能の生徒が何人もいて、草野球をしていても大抵活躍するのは3組の生徒だった。秋の運動会では学年単位で1000メートルを走る持久走が行われるのだが、5年生のときにこのレースで優勝したのが3組の西牟田君だった。彼はニッシンと呼ばれていて体は小柄だったが運動神経が抜群で、陸上の長距離や短距離だけでなく器械体操や球技などでも、いつもスターアスリートだった。その3組にも野球チームがあって西牟田君はエースのピッチャーだった。小さな体から投げ下ろす球はとてつもなく速くコントロールも抜群だった。投球練習をしているところを見たことがあるのだが、本当に全身がバネのようになって投球フォームも躍動感が漲っていた。こんな相手と試合をして勝てるのだろうか。いつも屁理屈ばかり言っていてスポーツではこれといった実績のない4組が勝てるはずがないとも思われたが、しかしそこはやって見なければ分からない。まずは試合をする前に4組としてどのように試合に臨むべきか事前に作戦会議を開くことになった。

恐らくここからが6年4組がほかのクラスとは違うところなのだろう。何をやるにしてもまずは理屈から入るのだ。話の中心はあのマンガ研究会のヒロタだった。まず最初にメンバーを決めようということになり、4組で野球の対抗試合に出しても恥ずかしくないようなメンバーを選定して打順を決めることになった。私はかねてから俊足巧打を誇っていたので、定位置の3番ショートだった。次に卑しくも3組と対抗試合をするとなれば、それなりの格好が大事なのではないかという意見が出てきた。4組の正規のチームである以上は、何か統一したものがいるし、見た目にもユニフォームがあった方が見栄えがいいという意見が出てきた。まるで低俗なギャグかコントのような話だが、その当時は皆んな大真面目そのものだった。それで対抗試合までに、皆んなでお揃いのユニフォームを作ってきて、それぞれ胸にチーム名、背中には各自の背番号をつけて試合に臨むことが決められた。普段はあれやこれやと百家争鳴になってなかなか物事が決まらない4組だったが、こういう時はその場の思いつきで提案されたことが即決で決まり、行動に移すのも驚くほど速かった。私は前年から自分のマイナンバーは1番と決めていたので、迷わず1番をユニフォームに縫い付けることにした。さてそこで今度は胸に付けるチーム名を決めなければならない。どんな名前がいいだろうか。私とヒロタが中心となっていろいろなアイデアを出してみた。まずプロ野球で使用されている名前のジャイアンツやタイガースなどは二番煎じになるので、当然のことながら使わないことになった。ここで議論になったのは、4組らしい名前で強そうにみえる名前がいいこと、それから他では使われていないような目新しい名前であること、そして皆んなが覚えやすい名前であること、などが条件に挙がった。そのとき私は、ふと意中の球団にしていた近鉄バッファローズのことを思い出して「バッファローズ」も考えたのだが、誰も知らないし既にプロ野球でも使われている名前でもあるし、これは対象外だと思ってほかの名前を探すことにした。バッファローズは野牛なので、それなら同じ牛のオックスはどうかと提案したのだが、これを英語にすると「OX」となって胸に「〇」(まる)と「×」(ばつ)が書いてあるように見えるので即座に却下されてしまった。それからもう一つ重要な条件があることに気が付いた。これから各自、自分の家に帰って胸の部分にチーム名、背中に背番号を縫い付けなければならないのだが、チーム名が長いとそれだけでも大変になるので、出来るだけ短い単語のチーム名の方がいいのではないかという意見が出てきた。なるほどそう言われてみるとジャイアンツは「GIANTS」で6文字、バファローズは「BUFFALOES」9文字になってしまうので、これを胸に縫い付けるだけでも大仕事になるのは明白だ。そうなるとなかなかチーム名を決めるのは難しい。強そうで、4組らしく、既存のものは使用せず、オリジナリティがあって、文字数が少なく、誰にでも親しみやすいもの・・。ここまで来ると4組のセンスが問われるので、いい加減な名前は付けられないと思って皆んな真剣に考えていた。こんなところに異常なまでの時間と労力を惜しまないのが4組の特徴と言えば特徴なのかもしれない。冷静に考えれば、本当にアホらしいようなことに、とことん執着するタイプの少年が集まっていたものである。

そんなとき、ふと我が家にあった置物を思い出した。それは父が北海道に行ってきたときにおみやげで買ってきたものだが、アイヌ名物の木彫りのもので熊が鮭をくわえて歩いているものだった。どういうわけかこの時に急にこの木彫りの熊を思い出して「熊」はどうかと閃いたのだった。熊は英語だと「BEAR」複数形にしても「BEARS」の5文字になる。これなら、強そうだし、プロ野球では使われていないし、オリジナリティもあるし、文字数も少ない。これは妙案ではないか ! さっそく4組のチーム名を「BEARS」(ベアーズ)にすることにして承諾を得た。そして各自、試合の日までにチーム名と背番号をユニフォームに縫い付けてくることにした。

 

因みに「BEARS」(ベアーズ)と言えば、アメリカ映画になった「がんばれ !  ベアーズ」を思い起こす人が多いのではないだろうか。時系列を見てもわかるように、映画の「がんばれ ! ベアーズ」は1976年に公開され大ヒットしたものである。6年4組の「BEARS」(ベアーズ)は1968年の話なので、我々の方が先輩なのである。しかも映画の「がんばれ ! ベアーズ」のストーリーも、6年4組のものをパクったような内容で、普段はどうしようもない悪ガキの集団を、元メジャーリーガーという近所のおじさんが「ベアーズ」というチームを作って指導し少年たちが成長していくコメディになっていた。1976年というと私はもう高校を卒業していた年代だったが、この映画のタイトルとストーリーを見たとき思わず笑ってしまった。アメリカ映画もこの程度かと思ったものだ。こんな企画は西戸山小学校では8年も前からとっくに考えていると思い、改めて6年4組の先進性を再認識したものである。とにかく「BEARS」(ベアーズ)という名前は親しみやすいものだが、どこか落ちこぼれで、弱小チームながらも皆んなで力を合わせてがんばるというイメージは共通しているようだ。

 

話を戻そう。いよいよ試合の日が来た。その日は日曜日。場所は近くにある都立衛生研究所(都衛研)のグランドと決まった。ここの研究所は、戦前は陸軍の広大な敷地があったところで、普段の日は立ち入り禁止になっていた。ただ周囲を囲む塀の一部に穴が開いているところがあって、冒険好きの男子生徒はしばしばその穴から中に入って遊び場にしていた。今にして思えば、かなり危険な場所だったようだ。研究所の施設のあちこちには、戦時中に使用されていたと思われる防空壕の跡が残っていて、壕の入り口は鉄条網が張り巡らされていた。ここの研究施設は一部では化学兵器を製造していた所だったという証言もあり、もしかするとその防空壕跡地の奥には使用されていない化学兵器が埋められていたかもしれないのだった。当時の小学生にとってはそんなことは知らずに秘密の通路を通って中に入り、防空壕の周りを縦横無尽に走り回っていたのであった。

都立衛生研究所は平日はグランドも使用されていたりして子供が使うことは出来なかったのだが、日曜日になると研究所自体が休館になりグラントも使用されていないことが多かったので、短時間であればクラス対抗試合をするには恰好の場所でもあった。こうして6年3組と6年4組の対抗試合が、いよいよ行われることになった。

 

先攻は4組になった。相手の投手は予想通りエースのニッシンこと西牟田君だ。小さな体からダイナミックなフォームで繰り出されるボールは、いつ見てもほれぼれするようなスピードがある。1番、2番と簡単に打ち取られた。さあ3番は私の番だ。新しいユニフォームに袖を通した初打席。相手にとって不足はない。まずは速球に振り遅れないようにしなければならない。1球目、空振り。やはり見た目以上に速い。とにかくどんどんストレートを投げ込んでくる。これにタイミングを合わせなければならない。2球目、ボールをよく見てバットを振ったがボールがかすっただけでファウル。なかなか当てるのは難しそうだ。3球目は外に大きく外れてボール。カウントは2ストライク1ボールになった。ここでバッターボックスを外して二回ほど素振りをした。次はまた真ん中に速い球だろう。それを強く打ち返すにはバットをひと握り短く持って腰を回転させるようにして素早く振り抜かなければならない。力を入れすぎないようにして、ボールが来たら腰の回転で打ち返すようにしよう。そう思って4球目を待った。自信満々で西牟田君が4球目を投じた。内角寄りの快速球。それに合わせて少し短めに持っていたバットを鋭く振り抜いた。次の瞬間、ボールは物凄い勢いのライナーになってレフト方向に飛んで行った。外野手が途中まで追いかけていたが諦めた。どうやら遥か遠くのグランドの塀を越えていったようだ。ホームラン !  自分でも信じられないような当たりだった。周囲で見ていたチームメイトが大騒ぎしている。西牟田君の方を見たら、ちょっと苦笑いしているように見えた。6年4組「BEARS」(ベアーズ)、初のホームランである。私にとっても、これが人生初の柵越えホームランになった。そして同時に、生涯で唯一のホームランにもなったのだった。今でもあの日のホームランは鮮明に覚えている。相手チームのエースの速球を打った文句なしのホームラン。6年4組で毎日のように野球をしていて、あのホームランを打てたことだけでも、野球少年でいて良かったと思えたものだ。これ以来、4組の今村君は3組のあの西牟田君の速球を場外ホームランにした強打者だという評判が広まったらしい。こういう噂は大歓迎である。これだけでも「BEARS」(ベアーズ)のユニフォームを作って良かったと思ったものだ。

尚、この試合であるが、試合の途中で研究所の職員の人がやってきて「ここで、野球なんかやったらダメだろう !  早く皆んな出ていきなさい ! 」と怒られて、結局永遠にノーゲームとなってしまった。もう覚えている人もいないことだろう。

 

そんなこともあったが、いずれにしても私にとっては良い思い出である。アメリカ映画の「がんばれ ! ベアーズ」よりも8年も前に結成された西戸山小学校6年4組の「BEARS」(ベアーズ)。放送部長と野球少年の日々を満喫していた6年生であった。

 

 

 

      6年4組の教室 テレビ視聴授業  (右下が今村)

 

 

 

 6年4組の男子生徒  (中央上向きが今村)

 

 

 

   6年4組の女子生徒 とにかく女子は強かった。

 

 

  6年4組「BEARS」(ベアーズ)  新調のユニフォームで

     (後列 左から2番目が今村。3番ショートだった。)

 

 

 

 

 

新宿区立西戸山小学校 7   グルノーブル五輪とメキシコ五輪 鈴木恵一と君原健二

 

 

1968年は2つのオリンピックがあった。2月の冬季大会グルノーブルオリンピック、10月の夏季大会メキシコオリンピックである。この年私は新宿区立西戸山小学校の5年生と6年生を過ごしていた。この2つの大会は、ただ単に深く心に刻まれただけではなく、その後の私の人生にとっても大きな影響を与えるほど衝撃的なものとなった。

4年前の東京オリンピックの時には、日本中が天地がひっくり返るほどの大騒ぎをしていて、私自身もその渦の中にいたのだが、それは初めて見るオリンピックでもあったし、テレビの生中継と言う新しい環境のもとで行われたことも印象的だった。また翌年に公開された映画「東京オリンピック」も映像作品としての魅力も備わって、小学生の私にはこの上なく大きな刺激を受けた大会でもあった。当然のことながら、次のオリンピックはどんな大会になるのだろうかと興味と期待が年々高まり、私はその時点で、すっかり誰にも負けないようなオリンピックマニアになっていたのだった。

 

オリンピックに冬の大会があること自体あまり知られていなかった。そもそも雪があまり降らない関東地方ではスキーやスケートは縁遠い競技でもあるし、国内の大会に関しても日本人の多くは冬季競技そのものの知識がなかったのではないかと思う。ただ1964年の夏季大会がアジアで初めて東京で行われたのに続いて、今度は1972年には札幌でやはりアジアで初めて冬季大会が行われることが決まっていた。そのため東京オリンピックが終わったあとには、冬のオリンピックに対する関心が高まっていったことも事実であった。

 

1968年の冬季ピックオリンピックは、この年の2月フランスのグルノーブルで開催された。オリンピックが衛星経由で世界に生中継されたのは1964年の東京オリンピックが最初のことだったが、冬のオリンピックとしてはこのグルノーブル大会が初めてのことになった。私も冬の大会自体をテレビで見ることが初めてだったので、すでに開会式のときには日本では深夜になっていたが、それでも白黒テレビに映し出されるグルノーブルからの生中継の映像を目を凝らして見ていた覚えがある。冬の大会は雪と氷の大会でもある。白銀の山を背景にしたアルペンやノルディックのスキー競技。そしてスピードスケート、フィギュアスケート、アイスホッケーからなるスケート競技。そのほとんどがヨーロッパ勢中心の競技で、遠いアジアの島国から見るとまさに別世界のようであった。

西戸山小学校でも、連日グルノーブルオリンピックの話題で持ちきりだった。早速スキーやスケートの格好するものがいたし、教室の中でスキーのジャンプの真似をするのがあったり、廊下でスピードスケートのスタートダッシュをするものもあった。

それまで冬のオリンピックで日本勢が獲得したメダルとしては、1956年のコルティナ・ダンペッツォ大会で猪谷千春がスキーの回転で銀メダルを獲得したのが唯一のメダルであった。その時点でスケート競技ではメダルを獲得したことがなく、誰が日本人スケーターで一番最初にオリンピックのメダリストになるのか注目されていた。

そんな中で、メダルどころか金メダルの最有力候補として注目されていたのが、スピードスケート男子500メートルに出場する鈴木恵一だった。鈴木のスケートはまさに芸術品だった。コーナーの魔術師とも言われ、世界選手権でも何回も優勝を飾っていた。そしてグルノーブルオリンピックの1ヵ月前にはインツェルで39秒3の当時の世界記録を樹立し、世界記録保持者としてグルノーブルオリンピックに出場していたのだった。試合前のインタビューでも自信満々で、当然金メダルを目指すと力強いコメントを発していた。どんな結果になるのだろう。ワクワクしながら男子500メートルの日を待っていた。

私が初めて結果を知ったのは、翌日朝1番のNHKニュースだった。現地から実況中継をしていたようだったが放送は録画中継だった。その時の実況が、朝1番のニュースでも取り上げられていた。見出しは「鈴木、メダルならず! 8位」と淡々としたものであった。何があったのだろう。世界記録保持者で世界選手権に何度も優勝してきた鈴木恵一が、オリンピック一体でどうしてしまったのだろう。そして映像を見て驚いた。当時の冬の大会のスピードスケートは全て屋外リンクである。まだ現在のような頭からかぶるスケート用スーツのようなものはなく、鈴木はニット帽をかぶっていた。鈴木は不利なアウトスタート。それでもなかなか良い滑り出しで順調に第一カーブから向こう正面を加速していった。次の瞬間、アナウンサーが絶叫した。「あっ! 鈴木危ない!鈴木危ない!…鈴木、遅れました。鈴木、スピードが出ません。…」向こう正面から第二カーブに入るところで、突然鈴木の動きが止まって棒立ちになってしまっていた。スピードは急に減速し、それから先はいくら力を振り絞っても挽回することができなかった。テレビカメラはゴールしたあとの鈴木を追いかけていたが、もう結果を伝える電光掲示板を見ることもなく、しきりに頭を振って下をうつむいていた。

私はこの時の映像を忘れることはなかった。ゴールしたあとの鈴木恵一の気持ちを思うだけでも胸が塞がれるような思いがして、その残像は私の瞼の中に強く残ったのだった。どうしてこんなことが起きるのだろう。こんなに一生懸命やって、ここまで成績も残してきたのに、どうしてオリンピックではこんなことが起きるのだろう。オリンピックには魔物が住んでいると言われるが、どうしてここまで神様は意地悪で非情なのだろうか。その後のこの男子500メートルでは、メダルが有力だった日本人選手が次々に本番で悲劇に襲われてメダルを逃すことが続いた。それにしても、鈴木恵一に何が起こったのだろう。そしてこの人は、このような受け入れがたい悲惨な結果を背負って、その後どのように人生を生きていくのだろう。その時の疑問が、私の心に深く刻みつけられていて、いつかはこの時のことを、本人からどうしても聞きたいと思うようになったのである。

4年後の札幌オリンピックの開会式では、日本の選手代表として鈴木恵一は選手宣誓の大役を果たした。最後のチャンスで臨んだ男子500メートルはもう満身創痍の体が動かず、結局19位に終わった。

 

その後、鈴木恵一はプロ野球の西武ライオンズの職に就き広岡監督のもとで広報の仕事を務めるようになった。1984年に行われるサラエボ冬季オリンピックに向けて、スピードスケート男子500メートルでやはり金メダル最有力候補だった黒岩彰に期待が集まっていた。黒岩も前年の世界スプリント選手権で総合優勝し金メダル候補に挙げられていたのだが、私にはどうしてもグルノーブルオリンピックの時の鈴木恵一とダブって見えていたのであった。

オリンピックでは何があったのか?長年の疑問を尋ねるために、私は鈴木恵一を訪ねることにした。サラエボオリンピックを2ヶ月後に控えた1983年12月のことである。

小学校5年生の時に初めて見たグルノーブルオリンピックのスピードスケート競技。あの時の強烈なイメージが残っていて、どうしてもその前後に何があったのか知りたかったのだった。その大会から15年が経った。鈴木恵一は池袋のサンシャインピルにある西武ライオンズの球団事務所にいた。私はまだ駆け出しの作家だったが、電話で趣旨を話すと取材にも快く応じてくれた。そしてその時初めて私に語ってくれた驚くべき真実が出てきたのだった。ここではその詳細は省略するが、その時点ではどんなに黒岩彰が世界一の実力があり優勝候補に挙げられていても、オリンピックは全く別物だとする見方を鈴木恵一は私に話してくれた。そして、結果はその通りになった。

サラエボオリンピックでは、競技前の突然の大雪でスケジュールが大幅に遅れたこともあったが、様々なことが重なって黒岩は10位と惨敗。皮肉なことに黒岩に勝ったことがなかった北沢が2位に入り、スピードスケートで日本人初のメダリストになったのだった。

 

このオリンピックのスピードスケートを巡る人間模様を、1985年の文藝春秋のスポーツ専門誌ナンバーで、私はスポーツノンフィクションの作品「サラエボの雪、グルノーブルの石」として執筆した。これはナンバーでは名作選のひとつになっているそうだが、ここではその冒頭部分だけ添付資料で紹介しておこう。

小学生の時に見たグルノーブルオリンピックの鈴木恵一のレースの記憶とオリンピックへの謎が、その後作家となった私の作品を通じて世に知られるようになり、テレビでも取り上げられるようになった。今でも忘れ得ぬ冬のオリンピックであった。

その鈴木恵一さんは、本年2025年1月25日、82歳で亡くなったそうである。冬のオリンピックが来るたびに、あの1968年のグルノーブルオリンピックのことや、1983年に直接会って話をしたことなどが、まるで昨日のことのように思い起こされるのだ。人生を通じて数奇な機会を与えてくれた鈴木恵一さんには、改めて感謝するとともに、ご冥福をお祈りしたいと思う。

 

 

それからこの年、1968年10月に行われた夏のオリンピックがメキシコオリンピックだった。東京オリンピックから4年。あの衝撃的な記憶を保ったまま、連続小説でも読むようにその続きが今か今かと待ち遠しく思われた。そんな矢先、年明け早々からショッキングなニュースが伝えられた。

東京オリンピックで銅メダルを取ったマラソンの円谷幸吉が自死したというニュースだった。メキシコオリンピックでは金メダルを期待されながら体調を崩して代表入りが絶望的になったことを悲観しての自殺だとされていた。残された遺書には期待に答えられなかったことへの悔恨の念と、両親に対する哀切な思いが綴られていた。

それからもうひとり、ローマオリンピックと東京オリンピックでマラソン2連覇を達成していた36歳のエチオピアのアベベが、3連覇をかけてメキシコオリンピックにも参加するということであった。アベベの衝撃的な走りは、東京オリンピックの生中継でテレビでも見ていたし、映画「東京オリンピック」の後半部分では、ただ黙々と走る哲人アベベのクローズアップしたワンショットの映像が延々と続いていた。その超人ぶりからオリンピック3連覇もあり得るのではないかとする期待もあった。

 

この年は我が家でも画期的な変化があった。テレビが白黒テレビからカラーテレビに変わったのだった。この当時カラーテレビは結構高価なもので、我が家がいた公務員住宅の中でも19インチのカラーテレビを購入したのは我が家が最初だった。そのため近くの子供たちがどんなものか見に来るほどだった。

私もその後、映像メディ史を専門に研究することになるのだが、個人的な体験感覚からしても、この1960年代末の白黒テレビからカラーテレビへ移行した時期は、マクルーハン流に言うなら人間の感性や感覚が拡張していった時期に相当することになるのだろう。特に鮮やかな色彩を伴ったスポーツ中継などは、白黒テレビと比べると段違いで迫力満点であった。

メキシコオリンピックが行われたメキシコシティは標高1600メートルを超える高地であったため、陸上の短距離や跳躍種目では空気が薄いことから記録が出やすく、逆に長距離種目やマラソンなどは心臓への負荷が大きくなるので記録は下がると言われていた。しかもこの時期になってもメキシコシティは気温も高く、長距離種目の選手にとっては過酷な環境になるものだった。早速、陸上男子100メートルではアメリカのハインズが初めて10秒を切る9秒95の世界新記録で優勝。そしてこの大会を象徴する競技としては、男子走り幅跳びのアメリカのビーモンが、それまでの記録を30センチ以上も上回る8メートル90という驚異的な世界新記録を出して優勝。高地で行われるオリンピックでまさに歴史が塗り替えられた。

これに対して長距離種目やマラソンなどは選手にとっては地獄である。この大会から驚異的な記録で次々とメダルを獲得していったケニヤやエチオピアなどのアフリカ勢の躍進が目覚ましく、10000メートルではケニアのテムとエチオピアのマモとのデッドヒートなどは最後まで人間とも思えないようなハイスピードで競り合い、信じられないような名勝負となった。

このメキシコオリンピックは、全てではないが現地からかなりの競技の様子が生中継で伝えられてきた。メキシコと日本では約15時間の時差があるため、現地の夕方から夜にかけての試合は日本では早朝から午前中になる。注目の男子マラソンがスタートしたのは、日本時間の午前7時前後であった。

この大会では、前年に福岡で日本人として初めて2時間11分台の日本最高記録を出した佐々木精一郎にメダルの期待がかかっていた。また東京オリンピックでは円谷の3位に次いで8位になった君原健二も出場していた。アベベの3連覇はなるのか。福岡で2時間9分台の世界記録を出したオーストラリアのクレイトン、イギリスのヒル、ニュージーランドのライアンなども優勝候補に挙げられていた。またここまでの陸上長距離競技の結果から、マラソンでもアフリカ勢の優位は動かないだろうとする見方が多かった。

当時の陸上競技は長距離には女子種目はなく、1500メートル以上は全て男子の種目だった。オリンピックに女子マラソンが採用されたのは、1984年のロサンゼルス大会からである。このメキシコ大会は30度近い高温で、しかも空気が薄い標高1600メートルの高地ということもあって、この時代はまだまだマラソンは男子に限られた過酷な種目だった。

マラソンが行われるコースはメキシコシティの名勝地であるソカロ広場から陸上競技場までの片道コースで、選手たちに随行するテレビ中継車はなく、定点に置かれた固定カメラで順次選手たちの順位を伝えていくという体制がとられていた。

このマラソンの日が来るまで、多くの少年がそうであったように、私も毎日毎日指折り数えながらスタートを待ったものである。ただ残念なことに、この日は日本では月曜日だった。マラソンはテレビやラジオでも生中継で伝えられていたが、レースの途中で小学校に行かなければならない。月曜日には朝礼がある。私は放送部員でもあったのでサボるわけにはいかなかった。本当に後ろ髪を引かれるような思いで大急ぎで小学校に行って朝礼に臨んだのだった。

マラソンはどうなったのだろう?アベベは3連覇したのだろうか?佐々木や君原の日本勢はどんな走りをしたのだろう?本当にこういう時はどんなことがあってもテレビに齧り付きたいと思うものである。いつの時代でも言えることだが、最新情報をいつどこで誰からどのメディアを通じて知ることができたのかということは、メディアの歴史を研究する上では永遠のテーマでもある。そしてその価値ある衝撃的な第一報を、誰から聞いたのかということは、その人の一生の記憶として刻まれるものだ。このメキシコオリンピックのマラソンの結果を私が初めて知ったのは、他でもない西戸山小学校の朝礼の時の丹治校長先生からだったのである。今でも、あの時の状況ははっきり覚えている。当方はとにかく早く結果を知りたい。それなのに相手をわざとじらすように、ゆっくりゆっくり勿体ぶった口調で、丹治校長先生はそれを告げたのであった。この日は朝から暑かった。そんな事はどうでもいいのだが、早くマラソンの結果を伝えて欲しい。私はその一心で先生の話に聞き入っていた。

丹治先生はいつものように、朝礼台のマイクを取ると、何かすごいものを見てきたと言わんばかりに興奮したような雰囲気を漂わせながら、ゆっくりと話し始めた。

「皆さん、おはようございます。…今日も、暑いね。ハハハ…」(そんな事はいいから、マラソンの話を早く聞きたいのであった。)校長先生は続けて行った。「日本も暑いけど、いやいや今日はメキシコも暑かった。」(とにかく前置きが長い。)「皆さーん!  オリンピック、見てますか?そうですか、皆さんも見てますか。先生も、毎日見ていますよ。」(そんな事はどうでもいいことだ。早くマラソンの話を…)「ついさっき、マラソンが終りました。いやー、すごかったですよー!」(きっとさっきまで校長室のテレビで見てたのだろう。いいなぁ!こっちは朝礼があるために、泣く泣く学校に来て、その準備をしていたというのに…それで、マラソンの結果は?)校長先生は生徒たちをゆっくり見回してから質問するようにして行った。「今回のメキシコオリンピックのマラソンはね、誰が勝ったと思いますか?」(こうやって権力者は相手の興味を引っ張っておいてから、弄ぶ(もてあそぶ)ようになっているんだな。本当に卑怯な奴らだ。私は決して権力者にはならないでおこう。それはともかく、マラソンはどうした?)「前回の東京オリンピックのマラソンは、誰が勝ったか、皆さん、知っていますね。」(そんなの、知ってるに決まってるじゃないか。エチオピアのアベベ!それより早く結果を言ってくれよ!)「それでは、先ほど終わったマラソンの結果を教えてあげましょう。誰だと思いますか?」(なかなか結果を公表しない。時間をかけてこうして値が上がるのをのを待つのは、株や米などの相場師と同じではないのか。ふと周囲を見ると、皆んなが校長先生の一言一言に、今までなかったほど熱心に耳を傾けているではないか。貴重な情報を出す時ほど性急に安売りしてはダメだと言う教訓なのかもしれない。それはこの際どうでもいいから早く結果を知りたい。)「そうねぇ、それではまず優勝者の国から教えてあげましょう。…今回も優勝したのは、エチオピアでした。」(ということはアベベが3連覇を達成したのか。日本人はどうなったのだろう?いやそれより前に誰が優勝したのか確認しなければならない。)ここまで来て校長先生は初めてアベベの名前を出した。「エチオピアの、誰だと思いますか? (誰か生徒がアベベと言った。)え?アベベ?…残念ながら、アベベじゃなかったんですよ。」(まだ優勝者の名前を出さない。エチオピアだけどアベベじゃないところまではわかった。じゃあ誰だろう?まさか…)「では、優勝者を教えてあげましょう。エチオピアのアベベじゃなくて、…ウォルデという人です。」(ウォルデ?そんな選手いたかなぁ?私は全く思い浮かばなかった。そのあと丹治校長先生はもう一度確かめるように言葉を選びながら言った。)「そうウォルデ。エチオピアのマモ・ウォルデという人です。アベベの後輩が優勝しました。これでエチオピアはオリンピック3連勝です。」(マモ・ウォルデ、あのマモか!10000メートルでは、ケニアのテムとデッドヒートを繰り広げラスト50メートルで抜かれて銀メダルに終わったあのマモがマラソンで優勝したのか!これは驚いた。ますますレース展開が気になってきた。それで日本人選手はどうだったんだろう?)

丹治先生はそのあと少し間を置いてから話を続けた。「日本人選手も健闘しましたよ!2位に入って銀メダルを取ったのは、日本人でした!さぁ、誰だと思いますか?…」(なんと日本人が銀メダル!これはビッグニュースだ。東京オリンピックの円谷が銅メダル、そして今回のメキシコで銀メダルの快挙だ!佐々木だろうか?早く結果を知りたい!こういう時は、まさに天の声を聞くような気分になるものだ。)校長先生はもう一度ゆっくりとした口調で話を続けた。「日本人選手で銀メダルを取ったのは…佐々木?いゃ、佐々木じゃないんですよ。…東京オリンピックにも出ていた君原、君原健二という人です。最後、本当によく頑張りましたよ。私からもおめでとうと言いたいと思います。」こうして校長先生の話は終わった。

これが私がメキシコオリンピックのマラソンの結果を初めて知ったときの状況だった。いずれどの道知ることになるような情報でも、いつどこで誰からどういう状況で聞いたのかと言うのは大切なところではないだろうか。しかもその情報が極めて重要で大切なものであった場合には、この情報伝達の付帯状況は、情報の中身以上に大切な意味を持つことになることすらある。私の場合は、この日のまだ暑さが残る月曜日の朝の朝礼で、丹治校長先生から初めて聞いたメキシコオリンピックのマラソンの結果の情報は、その後もずっと忘れられないほど強く記憶に残るものとなったのであった。その年の1月に親友であった円谷幸吉が自死したことを思えば、君原健二の銀メダル獲得は二人にしか分からないような大きな思いがあったのではないかと推察された。

 

その日、家に帰ってからテレビでマラソンの途中経過等の映像も見ることができた。空気の薄い高地でのレース、しかもこの日は30度を超える高温だったというのだから、選手たちにとっては過酷な条件だったことだろう。3連覇がかかっていたアベベは20キロ付近で棄権した。10000メートルではマモを破って優勝したテムも、序盤はずっと先頭争いをしていたがハイペースがたたって途中棄権した。そんな過酷な中でも君原は後半じわじわ順位を上げてついに銀メダルまで辿り着いた。東京オリンピックの時には円谷も2位で競技場内に入ってきて最後に抜かされて3着になったのだが、君原は追いすがるライアンを振り切って2着となり銀メダルを獲得したのであった。このあたりにも円谷と君原だけの二人の絆が続いてるように感じられたものだった。

東京オリンピックの時には平間小学校の2年生で、初めて見る地元東京開催のオリンピックのため衝撃も大きかった。4年後のメキシコオリンピックは、カラーテレビの普及もあり早朝の名勝負を毎日テレビで堪能することができた大会でもあった。とりわけこのマラソンについては、その後のオリンピックの大会を含めて、私にとってはいつまでも心に残るような最も感動的な大会になった。そしていつの日か、メキシコで銀メダルを獲得した君原健二にも直接会って、東京オリンピックからメキシコオリンピックまでの思いを聞いてみたいという衝動がこの時に芽生えたのであった。

 

その思いが実現したのは、それから23年後の1991年に行われた東京世界陸上のことであった。この大会では私は日本テレビで番組の構成を担当する3人の放送作家の1人になった。大会は8月に開催されたのだが、その事前番組の特番でマラソンの特集を担当することになった。東京でオリンピックや世界陸上などの世界的大会が行われるのは1964年以来27年ぶりのことであったし、東京の中心部がコースになっているマラソン大会で世界一が決められるのも東京オリンピック以来のことだった。それで私は、27年前の東京オリンピックのときにアベベや円谷とともにマラソンに出場し、4年後のメキシコオリンピックで銀メダルを獲得した君原健二と会ってインタビューを取ることにした。

開会まで2週間を切ったある真夏の昼下がり、私は千駄ヶ谷の国立競技場で君原健二と会った。ディレクターやカメラマンなどを連れて、私は国立競技場の周囲を君原さんと2人で歩いて思い出などをいろいろ伺うことにした。君原さんは、銀メダルを取ったメキシコオリンピックよりも8位に終わった東京オリンピックの方が印象強く残っていると言った。自己最高を出して銅メダルを獲得した円谷に対して、メダルも取れず8位に終わった君原。そして、4年後の円谷の死…。しばらくの間何かを思い出していたのか、考え事をしていた君原がインタビューで私の方を向いて行った。

「この話は今まで誰にもしたことがなかったのですが、今回いろいろ話をしてきて、ここで初めてお話しする気になりました。メキシコオリンピックでスタートラインに立った時、私は心に決めたのです。このレースは自分のためではなく、円谷君のために走るんだと。それまでのいろいろな感謝を込めて、この日は円谷君のために走るんだと。銀メダルを手にした時、きっと円谷君が私を守ってくれたのだと思いました。」

そして収録が終わったあと、君原健二は私にこう言った。

「いつかはこの話を誰かにしようと思っていたのですが、今日はこうして国立競技場で今村さんとお話が出来て本当に良かった。いろいろ話をしているうちに、この話はあなたにしようと思いました。これで何か胸につかえていたものが取れたような気がしました。今日は本当にありがとうございました。…」

このインタビューは、私が放送作家として経験した数え切れないほどのインタビューの中でも、本当にお宝のようなインタビューになった。そして、西戸山小学校6年生の時に丹治校長先生が朝礼で知らせてくれた「日本人の銀メダリストは、君原健二という人です。」という情報から始まって、23年後の1991年の夏に君原さん本人から直接聞いたかけがえのない言葉になったのだった。

 

1968年のオリンピック。冬のグルノーブルオリンピックの鈴木恵一と、夏のメキシコオリンピックの君原健二。この年にテレビで見たこの日本を代表するオリンピアンの2人と、その後、仕事を通じて実際に会えたことは、私の人生にとっても大きな出来事であった。それが実際のノンフィクション作品やテレビ番組の一部にも反映されたわけだから、そのような数奇な運命に巡り会えたことには感謝するしかない。子供の頃に一瞬見た忘れられないシーンが、その後の仕事や研究にもつながっていけるということは実に幸せなことである。今でもあの時にテレビで見たシーンとそのあと直接聞いた声は、はっきり私の胸に残されている。

 

新宿区立西戸山小学校にいた1968年。この年に見た二つのオリンピックは、今から振り返ってみても、その後の私の人生にとって大切なものになったと、改めて感じられるのである。

 

(文中敬称略)

 

 

 

 

  グルノーブルオリンピック 男子500m

        鈴木恵一のスタート (1968年)

 

 

 ナンバーノンフィクションより (1985年 文藝春秋)

  「サラエボの雪、グルノーブルの石」今村庸一

 

 

       メキシコオリンピック マラソン (1968年)

          銀メダルを獲得した君原健二

 

 

 メキシコオリンピック マラソン表彰式

君原健二(銀・日本)  マモ(金・エチオピア)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新宿区立西戸山小学校 6    近鉄バファローズと背番号1

 

 

西戸山小学校の5年4組に転校してからというものクラスメートたちの一風変わった遊びや趣味の世界には面食らうことも多かったが、その中でも私の理解を超えたものが少なからずあった。

 

私はそれまでの川崎市平間小学校のときには根っからの野球少年で、地元の川崎に本拠を持つ大洋ホエールズを応援していた。大洋ホエールズは私が4歳の時1960年に日本シリーズを制して日本一の球団になったこともあり、そのうちまた日本一になってくれるものと信じていた。しかしその後は川上監督率いる読売巨人軍の天下になり、1965年から9年間、ONを中心として圧倒的な強さを誇り毎年日本一になる常勝軍団になっていたのだった。平間小学校にいた頃は、多摩川を挟んで巨人は東京のチームであり大洋は川崎のチームであると思っていて、巨人や東京は川崎にとってはいつも敵でしかなかった。子供心にもそのような東京や巨人に対する反抗心というのが芽生えていたし、あの煌びやかな超満員の大金持ちの後楽園球場に比べて、貧相で汚ならしいが正直で誠実そうな川崎球場のほうにむしろ愛着を持っていたのであった。

しかし今度は東京のど真ん中の新宿区に引っ越してきたわけである。野球少年としては敵の本拠地に転校していったようなものだ。首都東京に暮らしているクラスメイトたちも皆んなどいつもこいつも巨人を応援している敵の手先だと最初は思っていた。勝って当たり前。自分たちこそが世界の中心にいると思っているような鼻持ちならない連中とは仲良くやっていけないのではないかとも感じていた。ところが、ところが…である。私の予想は全く的外れなものとなったのであった。

 

西戸山小学校でも野球は盛んだった。放課後になると、みんな学校の前の野球場のグランドに行ってはキャッチボールや草野球を楽しんでいた。ここは同じ学年でもクラスごとにチームが分かれていて、5年4組はクラス内のメンバーで野球の遊びをすることが多かった。プロ野球の情報にも皆んな詳しくて12球団のチーム名や選手の名前などもよく知っていた。当然常勝巨人軍のファンが多いと思いきやここが意外だった。何と巨人ファンなど誰ひとりいなかったのである。しかも巨人はおろか巨人のライバルだった阪神や中日にも関心がなく、大洋などは全く問題外であった。どういうことかと言うと、いつも勝ってばかりいて人気を独り占めしている巨人を応援するなど、軽薄なミーハーで田舎者だという意識があったようだった。当時のプロ野球と言えばテレビもラジオも巨人戦しか放送がなく、大洋ホエールズの試合が見たければ巨人戦を待つしかなかった。パ・リーグに至っては毎朝朝刊にセ・リーグと同じように結果は出ているものの、テレビやラジオで放送されることは滅多になく、どんな球場でどんな選手がいるのかさえ映像で見るのは物理的に不可能であった。私も川崎にいたときはパ・リーグのチームや選手のことなど全く眼中になかったし関心もなかった。ところが今度の西戸山小学校の5年4組の男子生徒は、何とパ・リーグのオタク揃いだったのであった。本物の通はパ・リーグというのが暗黙の了解だったようだ。

 

その頃のパ・リーグと言えば南海ホークスが最強チームだった。鶴岡監督のもと野村や広瀬など何人かの選手は知られていたし、長嶋と立教大学時代にチームメイトだったエースの杉浦がいたことも知っていた。しかし私は彼らの映像をテレビで見たことはほとんどなかった。

私が小学校3年生の時、日本シリーズで巨人が破った相手が南海ホークスだった。それから巨人のV9時代が始まるわけだが、パ・リーグのチームは南海を筆頭にして知らないし地味だし魅力のないチームでしかなかったのだった。ところが何故か5年4組のクラスメートたちは、このパ・リーグのことに信じられないほど詳しくて、それぞれ応援しているチームや選手も異なっていた。そしてこれも病的なまでに、そのお気に入りの選手の背番号を日常生活でもマイナンバーとして愛好していたのであった。ある者は東映フライヤーズの張本の10番。ある者は西鉄ライオンズの池永の20番。またある者は阪急ブレーブスの足立の16番。…といった具合である。こんな選手見たことない選手ばかりだった。それどころか、さらにこのクラスの男子が異常だったのは、このようなお気に入りのマイナンバーが暗黙のうちに各自決められていて他人のものは使わないという流儀が徹底していたのである。例えば何か授業で配布物があって通しナンバーが打ってあるときには、必ず自分の番号が付いているものをもらって絶対に他人のものには手をつけないような習慣が徹底していた。それはあらゆる状況において全員がそれを守っていたのである。靴箱の番号、傘立ての番号、音楽の楽譜立てを入れるビニールの袋の番号、理科の実験用の機材の番号、…。身の回りの全てのものにおいて、ナンバリングされているものは自分のお気に入りの背番号と同じ番号を各自が自分の番号として認識していて、誰も他人の番号には立ち入らないようにしていたのだった。これには驚いた。このような半ば偏執狂的行動様式はよく集団的パラノイアなどとと呼ばれているが、まるで全員が集団催眠にでもかかっていて暗示にかけられているような変わったルールが成立していたのであった。1人か2人がこのような特殊な行動をしているのならば変わり者として片付けられるのだが、このクラスの男子生徒のほとんどが、このようなマイナンバーで動いているのだった。私もこれについていかなければならないのかと思うと沈鬱な気持ちになったものである。

そして、そうパ・リーグね。パ・リーグかぁ。それまで私が知らない地球の裏側のような世界であったが、ここではこれからはパ・リーグのことも知らなければ、皆んなの話題についていけないのではないかと思ったりした。

 

この年1967年時点でのパ・リーグにはどういうチームがあるかご存知だろうか?まずは関西の3球団、南海ホークス、阪急ブレーブス、近鉄バファローズ。いずれも親会社が私鉄の球団で、東京から見るとまるで地球の裏側のような疎遠な存在ではあった。もう一つ鉄道会社としては福岡の西鉄ライオンズ。こちらは日本シリーズで巨人を3連敗から4連勝で下して優勝したので有名だ。神様、仏様、稲尾様の稲尾投手がいて私も知っていた。そして関東では2チーム、東映フライヤーズと東京オリオンズ。私はこの年までこの2チームのフランチャイズがどこにあるのか知らなかった。東映は映画会社が母体になっていたが本拠地は当初は駒沢公園内の駒沢球場にあり、とても狭くプロ野球の球場とは思えないものであった。しばらくしてから巨人が本拠地としていた後楽園球場を間借りして巨人の試合がない時にそこをフランチャイズとしていた。いわば巨人の影に隠れた裏世界でもあった。東映と言うとヤクザ映画を上映していたこともあり、当時の選手たちも荒々しい乱暴なタイプが多かったので、よくヤクザ軍団などと言われたりしていた。あまり子供は見ないほうがいいとも言われた。そして最後に東京オリオンズである。ここは毎日新聞と大映が出資した大毎がスポンサーになっていて、東京の下町の荒川区に東京スタジアムという小規模な球場があった。いかんせんマイナーなチームであったが、数年後にロッテがスポンサーとなった。現在の千葉ロッテマリーンズの前身球団である。この関東にある東映と東京はテレビ中継されることは滅多になく、普段目にしている巨人や阪神などのセ・リーグとは全くの別世界であった。

5年4組の生徒たちは、このパ・リーグの選手たちの一人ひとりを詳しく調べてその中から自分のお気に入りの選手を決めて、その背番号を男子生徒のほとんどが自分のマイナンバーにしていたのである。何ということだろう!このこだわりの世界は何と表現すれば良いのだろう!当時はテレビの普及期にあって国民的ヒーローに人気が集中するような時代であったが、この西戸山小学校の男子生徒たちはそのようないわばミーハー的傾向を断固拒否して、個々の趣味やこだわりの世界へ没頭するようなオタク文化を先取りしてるようにも感じられる。これが田舎とは違った都会の小学生たちの傾向なのかもしれないが、それにしても私には異質を通り越して異常にも思えるような思考であった。

東京の野球少年たちは皆んなが巨人軍を応援していて毎年日本一になるたびに大喜びをしているのではないかという予想をしていたのだか、この予想は完全に外れた。その巨人に対抗意識を持って多摩川の向こうの大洋ホエールズを応援するということもなかった。巨人ファンやアンチ巨人なのかというとそうではないのだが、そうかといって完全に巨人に無関心なのかというとそういうことでもないようだった。毎日テレビで放送されている巨人戦は皆んな見ていたし、前日の試合で王や長嶋がどうだったかについては全員がよく知っていた。その上でのパ・リーグである。私は最初はこんなことにこだわる理由がよく理解できなかったが、考えてみると皆んな私よりもずっと先を行っているのではないかと思い、少し心配になってきた。プロ野球に対する情報の量や質、そして個々のこだわり。それは平間小学校では見られなかったような接し方があった。それからはもう少しパ・リーグのことも勉強しなければならないと思って、毎日朝刊に出ているパ・リーグの試合結果や選手の名前などもよく読むように努めたのだった。

 

その年の夏休み、親戚の家の人に頼んで近くの東京オリオンズの本拠地東京スタジアムに連れていってもらうことになった。パ・リーグの試合を見るのはこれが生まれて初めてのことだった。何しろプロ野球の試合だ。地元チームの東京オリオンズはどのようなチームなのか興味もあったし東京の下町の荒川区にあるという東京スタジアムにも関心があった。その日は東京オリオンズ対近鉄バファローズの試合だった。球場に入ってみて驚いた。これがプロの試合会場なのか!カクテル光線に照らされて球場内は綺麗になっていたが、とにかく人がいない。内外野合わせても観客は数えるほどであった。真夏の夜のナイターではあったが、何か寒々とした感じさえした。

スコアボードには「東京」と「近鉄」という表示があった。今宵は東西対決だなと思って見ていたら、目の前に座っていた親子連れがいて、男の子が父親にしきりに聞いていた。

 

「ねぇ、東京ってあるけど、巨人じゃないの?」

「巨人も東京だけど、この東京は東京オリオンズだよ。」

「東京には国鉄もあったよね。」

「ああ、あれはサンケイに名前が変わったんだ。」(金田正一を擁した国鉄スワローズは1965年にサンケイスワローズに改称。現在の東京ヤクルトスワローズの前身である。)

「この東京オリオンズと巨人とサンケイでは、どこが一番強いの?」

「(少し苦笑しながら)東京オリオンズはパ・リーグなんだよ。だからセ・リーグの巨人やサンケイとは戦わないんだよ。」

「ふーん、そうかぁ。それで国鉄は地下鉄になったの?あれ地下鉄でしょ?」

「えっ?ああ、あれか。あれは地下鉄じゃなくて、近鉄(きんてつ)って読むんだよ。大阪から来たチームなんだ。」

「そうなんだー!大阪では地下鉄のことを近鉄(きんてつ)って言うの?」

「そうじゃないよ。…まあ、黙って試合を見ていなさい。」

 

そんな無邪気な会話が私の目の前で行われていた。当時まだ私も小学校5年生だったが、この親子の会話には感心して聞き入ってしまった。なるほど、近鉄と地下鉄ね。しかも大阪から来たチームだから知らないことが多いわけだ。それにしてもパ・リーグのチームとは、野球場に見に来ている人でさえこの程度の認識なのであった。ますます夜風が身に染みるようになってきた。

試合は拮抗したゲーム展開になった。東京オリオンズが1点リードした後半、近鉄の土井正博がバッターボックスに入った。次の瞬間火の出るような当たりがレフトのボール際に飛び込んだ。逆転スリーランだ!試合はそのまま4-2で近鉄バファローズが東京オリオンズを破った。私が生まれて初めて見た近鉄の試合であった。

それまで近鉄バファローズという球団について全く知らなかったのだが、マイナンバーを決めるにはどこかパ・リーグの球団を選ばなければならない。5年4組のクラスメートには、東映フライヤーズ、阪急ブレーブス、南海ホークス、西鉄ライオンズなどを贔屓にしている奴はいたが、近鉄バファローズのファンは聞いたことがなかった。これはもしかするといいかもしれない。

初めて訪れた東京スタジアムで見た近鉄バファローズ。この時の出会いが、その後の私の野球観戦人生の悲劇的な始まりとなったのであった。

 

2学期が始まった。5年4組の学級委員を務めていた伊賀君がまた北海道に帰ることになった。4月に北海道からこのクラスに転校してきたばかりでいきなり学級委員で選ばれてしまったあの伊賀君である。見るからに爽やかな好少年で、1ヵ月あとに転校して来た私に対してもとても親切に対応してくれた。でも何があったのだろうか。もしかするとこの異様な雰囲気のクラスに耐えきれずに、また北海道に帰る決心をしたのかもしれない。普通の感覚であればちょっとこの環境にはついていけないだろう。でも伊賀君はそんなことは一言も言わずに、笑顔で爽やかに別れの挨拶をして去っていった。

それからもう一つ。西戸山小学校では様々な部活の委員が半年ごとに決められることになっていた。私の天職は放送部員である。平間小学校ではせっかく放送部員になり、しかも5年生では最高位の副部長にもなっていたのにいきなり転校になってしまった。できることならそれを継続する意味からも、この学校でも放送部員になりたいと思っていた。放送部員は平間小学校と同じように5年生と6年生から各クラス男女各1人ずつ担当することになっていた。人によっては継続して放送部員を続けることもあったが、私はこの年後半の放送部員に立候補して、何とか放送の仕事をしたいことを訴えて了解してもらった。そのときの経緯はもうすっかり忘れていたのだが、先日小学校時代の友人に聞いてみたところ、朝礼の校長先生の話を聞かないようにするには、どうしても放送部員になりたいと言うことを皆んなの前ではっきりと言っていたそうである。こんなことを言うと反感も買いそうだが、どういうわけかこのクラスではすんなりと私の要望が受け入れられたらしく、私は晴れて5年生の2学期の後半から放送部員になることができたのであった。

 

因みに私のマイナンバーであるが、平間小学校の時に私はすでに野球のユニフォームを作ってもらっていて、背番号は庸一(ヨウイチ)から41番を着けていた。しかしプロ野球の選手で41番をつけているスター選手はいなかったし、このクラスの趣味に合わせるようにパ・リーグの選手となるともはや未知の世界であった。また授業などで備品を受け取るときに41番がない場合が多く、できればもう少し若い番号にする必要があった。しかもすでにお気に入りの番号を誰かが決めている番号は先約があるわけだ。各々それなりに意味があるので、それに重複することなく若い番号で誰も使っていない番号にしなければならない。いろいろ考えたのだが、そうしたら意外にも1番は誰も使っていないことがわかった。1番と言えば、巨人の王貞治、中日の高木守道、そして大洋の近藤昭仁の番号だった。通常であれば巨人の王の1番にして巨人ファンになるところだが、こんなことをするとミーハーだと言われて、周りから白い目で見られかねない。また中日の高木守道も俊足巧打のいい選手だが、何もわざわざそのために名古屋のチームに肩入れする気にもなれなかった。平間小学校で贔屓にしていた川崎の大洋ホエールズの近藤昭仁はなかなかの良い選手で、1960年に日本一になったときにはMVPを獲得しているほどの選手だった。ただ今さら川崎の大洋ホエールズとも思っていたし、その後は伸び悩んでいてスターと呼ぶには地味な存在に甘んじていた。まあそれでもいいかと思って、誰を贔屓にするとはせずに、当面は空き番号であった1番を私のマイナンバーにすることに決めた。ただ私の心の中には何か煮え切らないものがあって、もっとインパクトのあるような理由が欲しかった。何といっても「いの1番」である。この番号を選んだおかげで大きな夢を持つことができて、私の人生が開けたと言うような理由付けが欲しかったのであった。

その理由付けが見つかったのが、翌年の8月。近鉄バファローズのエース鈴木啓示がノーヒットノーランを達成したというニュースが新聞に出ていたのであった。ノーヒットノーラン?この時はそれがどれほど大変なことなのかよく分かっていなかったのだが、この人は18歳で入団以来快速球の左腕投手として三振の山を築き、ついに1本のヒットも許さないノーヒットノーランまで達成したのだった。背番号1の近鉄バファローズのエース。私が初めて東京スタジアムで見たのも近鉄バファローズだ。これはきっと何か神様のおぼし召しがあるに違いない。近鉄というチームのことはよく知らないが、この人とこのチームについていけば、いつの日かきっと日本一になって歓喜の瞬間を叶えてくれるに違いない。きっと神様、仏様、鈴木啓示様となるような気がしたのだった。よし、決めた!私のマイナンバーは1番。それは近鉄バファローズの鈴木啓示投手の1番だ。これは誰にも言わないことにしておこう。鈴木啓示投手が近鉄のエースとして晴れて日本シリーズで優勝し日本一になった暁に、その時初めて私の1番は鈴木啓示さんの1番だったのだと皆んなに告白するようにしよう!その日が来るまでは、私の心の内にしまっておこう。…と、この時は思ったのであった。

こんなことを思うようになったこと自体、既にもう人生の迷路に入っているようなものである。その後の私の野球観戦人生は、この近鉄バファローズと鈴木啓示氏の日本一を信じて、それに随行する長い長い旅の始まりになった。そしてそれは、とんでもない悲劇の第一歩だったのであった。

 

 

 

     近鉄バファローズ 鈴木啓示 投手

 

 

 

 東京スタジアム 東京オリオンズ 対 近鉄バファローズ

                        (1967.8.16)

 

 

   東京スタジアム (東京都荒川区)にて (1967.8.16)

 

 

 

 

 

 

 

 

新宿区立西戸山小学校 5    酒蓋の奥義 ヒロタとフクのマンガ研究会

 

 

新宿区立西戸山小学校5年4組に転校してから1学期が過ぎた。最初はあまりにも異様な状況だったので、どのように対応すればよいか分からなかったのだが、クラスメイトの何人かと親しくなるようになってきてから、少しずつこのクラス特有の感覚や価値観なども理解できるようになってきた。それまでの川崎市平間小学校からそれほど距離も遠いわけではないし、同じ小学生なので共通部分は多いと思っていたのだが、しばらく観察しているとこのクラスの男子は平間小学校とは随分違った感覚や価値観があることに気がついたのだった。

このクラスはほかのクラスと違って一見すると無秩序で統制がとれていないように見えるが、それは実は表面的なことでそれまで私が知らなかったような世界に異常なほどのこだわりがあることが分かってきた。また日常生活や普段の遊びにしても同様で、二農工商(ニノ)に見られるようにここしかないような独特のルールが生徒たちに暗黙裡に浸透していた。しかもそれは外部から見るとほとんど些細なことにように見えることでも、身の回りにある卑近なことでそれほどお金もかからないようなことにいちいち細かいルールが設けられていた。このような一見すると下らないと思われるようなことへのこだわりが、ここでは不思議なくらい生徒たちに徹底していたのであった。

 

二農工商(ニノ)の次に私が驚いたのが「酒蓋(さけぶた)」という遊びだった。これは日本酒の一升瓶についている酒蓋のコルクの部分を外して平らになった蓋の部分だけ取り出して机の上に置き、親指か人差し指で弾いて相手の酒蓋に当てて机の外に弾き出すとそれをゲットできるという単純なものだった。ちょっと見た目には女の子の「おはじき」や男の子の「ビー玉」に似ている。また自分の球を相手の球に当てて外に弾き出すという点ではビリヤードのポケットにも似ている。それにしてもこれを日本酒の蓋でやるという発想が何とも変わっている。一対一でやるときには一人用の小さな机の上でやることもあったが、数人でやるときには理科の教室にあるような大きな机の上でやることもあった。だんだんと技術が上がってきて上級者になると、このような大きな机では長い距離を正確に指で強く酒蓋を弾くことが必要になり、こういうときだけこの競技では抜群の能力をもつ達人がいたりするものであった。

この酒蓋には銘柄によって競技に向いているものと向かないものがあった。勝負の勝ち負けの決め手になる要素としては出来るだけ重心が低く薄いものがよく、しかも机の上を滑(すべ)らせるときには底面が滑(なめ)らかなものがよく、酒蓋同士が衝突したときに相手を弾き飛ばし、相手から当てられたときには弾き飛ばされないように少しでも重量が重いものが有利だった。このような条件を満たす酒蓋を求めて生徒たちはどんな困難も惜しまずに涙ぐましい努力をしていた。

ある時、酒蓋を集めに行こうと誘われて夕方遅く何人かで近くの商店街に繰り出した。そこで酒屋を見つけると、店の裏に回り廃棄処分になっていた日本酒の空の一升瓶がないか探すのであった。どうして夕方から調達に行くのかというと、廃棄物とはいっても酒蓋だけ盗んでくるのは立派な窃盗行為であり、これを白昼堂々と行うだけの度胸はない。それで少しでも暗くなってから行くことにして、店の人に現場を見られないように小学生なりの細心の注意を払う必要があったのだった。それまで私は日本酒の銘柄などには何の関心もなかったのだが、この酒蓋調達のために随分詳しくなった。当時の有名どころでは「菊正宗」「月桂冠」「大関」「白鹿」「剣菱」「黄桜」・・などがあった。当時の日本酒は上から順に、特級酒、一級酒、二級酒、・・等に分かれていて、上等な酒ほど高価な値段がついていた。だが、高価な銘柄の酒蓋が競技に向いているとは限らない。また当然のことながら甘口や辛口の違いも問題ではない。ここは値段も等級も味も関係ない。とにかく競技に有利な酒蓋を選んでくることが最大のミッションであり、西戸山小学校の生徒にとっては日本酒の価値とはあくまでも酒蓋だけのものであった。その基準は、重心が低く、滑(すべ)りがよく、重量があることが大切なことであった。その中では「黄桜」と「剣菱」は比較的薄くて重心が低かった。特に特上特級酒であった「黒松剣菱」の酒蓋が一番重心が低く競技には最高だった。そのせいか近隣の酒屋をあちこち回っても、この「黒松剣菱」の酒蓋はなかなか見つからず、たまに見つけると大喜びして翌日皆んなに見せびらかしていたものだった。

次にこの酒蓋選びのあとは、これを競技用に加工するという手の込んだ作業をするものがいた。酒蓋は最近ではコルクの部分がプラスティックになっているものが多くなったが、当時はまだコルクが一般的でそのコルクを外すと机に押し当てる底面がザラザラしていたり空洞になっていたりする場合があった。そういうときにはこの空洞に少しでも競技に有利になりそうなものを塗ったり詰めたりして細工したりするのだった。少しでも重量をつけようということで、ご苦労なことに自宅でハンダを溶かしてきて酒蓋の裏側に塗ってきたものもいたし、また空洞になっている部分におが屑を入れて少しでも滑(すべ)りをよくしようと蝋(ロウ)を塗ってくるものもいた。こういうこだわりは趣味の範囲を超えていてとても尋常なものではなかった。しかもこんなことにこだわって「酒蓋」を競技として楽しんでいるのは、恐らくここだけではないかと思った。確かにそれほどお金はかからないし、遊びとしてもなかなか面白い。世間一般の流行に迎合することもなく、有名ブランドに拘泥することもない。このような文化が暗黙の裡にここの小学生の間に根付いていたことは、その後のオタク文化を先取りしていたようなものだったのかもしれない。

 

1学期も過ぎてクラスメイトの中でも特に親密になった友達が何人かいた。話をしているうちに、マンガ好きの廣田君と福島君とでマンガ研究会を作ろうということになった。私も平間小学校の頃から普通にマンガ好きの少年であったし、時には友人や先生の似顔絵を描いたりしていた。廣田君は背丈は小さい方だったが、性格は明るくクラスの中では活発だった。皆んなからはヒロタと呼ばれていて、いつも仲間の中で何か早口で喋りまくっていた。彼の家が我が家の近くの公務員住宅だったこともあって、しばしば学校への登下校で一緒に行動したりして仲良くなった。とにかく元気一杯の楽しいキャラクターだった。もう一人の福島君はフクと呼ばれていて、いつ見ても不愉快そうな様子で何かにつけてケチをつけるタイプだった。最初見たときには随分捻くれた奴だと思ったが、よくよく聞いてみるとケチをつけている理由がなるほどと思わせるようなことが多く、ある意味では批判精神が旺盛な少年でもあった。言葉遣いも乱暴でぶっきらぼうだったが、どこか立川談志を思わせるような人を食ったような態度が特徴でもあった。

このヒロタとフクがマンガが好きだというので、我が家に呼んで三人でマンガ研究会を作ろうという話になったのだった。とにかくこの二人が揃うとやかましい。二人とも喋りだしたらもう止まらない。そこに私も加わって三人で次から次へとマンガに関する雑学合戦が繰り広げられることになった。ヒロタとフクは好奇心の塊のようだった。我が家に来てから部屋中を見渡して、珍しそうに一つひとつのものをまるで家宅捜索でもするように眺めていた。本棚の上に女の子の人形が置いてあるのを見つけると、それを手にとってまじまじと見ながら、これを使って何か面白いことはできないかと言い出した。最初は人形の手足を動かしたり髪を引っ張ったりしていたが、面白いことを考えついたと言って、急に部屋の中央にある蛍光灯の紐をその人形の首に括り付けたのだった。ヒロタが言った。「これ、どお ?  面白くない? 」フクも笑いながら答えた。「面白い、面白い。これで絞首刑の出来上がりだ。」可哀そうにその女の子の人形は部屋の中央に首を括って吊るされた状態にされ、まるで首吊り自殺か絞首刑にされたような状態にさせられていたのだった。事情を知らない人が部屋に入ってこれを見たら、かなりギョッとすることになるだろう。最初は他人の家に来ていきなり室内の物をいろいろ物色したあげく、そこに飾ってあった女の子の人形を蛍光灯の紐に括りつけて絞首刑のようにするなど何と不謹慎な奴らなのだろうと思ったのだが、彼らにとってこういう悪ふざけもマンガのネタに使えそうなアイデアなのであった。次に部屋にあったマンガの本を一緒に見ながら、いろいろと批評し合うようにした。そうしたら二人ともマンガのことは実に詳しくて、当時の人気漫画雑誌の「少年マガジン」や「少年サンデー」に掲載されている殆ど全ての作品や漫画家のことはよく知っていた。ヒロタはギャグマンガが好きで「おそ松くん」の赤塚不二夫のギャグを細かく解説していた。フクはストーリーマンガの愛好家で当時「無用ノ介」で売り出し中だったさいとうたかをを敬愛していると言っていた。二人の話を聴いていると、マンガ好きを通り越してもはやマンガ評論家の域に達していると思われるほどマンガに関する知識が豊富だった。

私が感心しながら二人の話を聴いていると、ヒロタが面白いことを言い出した。ここにあるマンガに何かを書き加えてひとつの作品を作ろうと言うのである。机の上にはいろいろなマンガの人物の画がたくさんあった。笑っている人、泣いている人、二人で何か話している人、大きな口を開けてあくびをしている人・・・いろいろな人物の画があった。突然何か閃いたようにヒロタがその画の上から鉛筆で書き出した。何かと思ってみたら、全ての画の人物がまるで監獄の中にいるように、それぞれの画の上から鉄格子が書き加えられたのであった。「これ、いいと思わない? 囚人シリーズ」と言いながら作品を完成させた。最初はまた何という悪ふざけをするのだろうと思っていくらか不快を感じながら見ていたのだが、よくよくこの鉄格子の画を見ているとあることに気がついた。それまで全く別々のマンガの人物が、各々の異なった状況で悲喜こもごもの表情で描かれていたものが、全ての画に「囚人」というレッテルが貼られて鉄格子の中にいる人物として描かれてみると、それはまた新しい印象や解釈が可能になることに気がついたのだった。元のマンガでは当然のことながら、そこに描かれている人物は監獄や鉄格子とは無縁である。だが、これらの人々を一括りにして鉄格子の中にいる「囚人」にしてしまうと、そこに入っている各々の人生や犯罪や挫折などが想像されたり、またある者はあるいは無実なのに濡れ衣を着せられて鉄格子の中に入れられて憤慨しているかもしれないと思うようになったのだ。そのような人々が、笑ったり怒ったり泣いたりしている画としてひとつの作品にすることで、監獄に収監された人たち一人ひとりの人生の喜怒哀楽が感じられるようになり、それはそれで新しい「作品」として成立しているのではないかと思ったりしたのだった。さらにもう少し想像を働かせると、このヒロタが書き加えた「鉄格子」は普段は目に見えないもので、現実世界の多くの人々がこのような無意識のうちに何らかの「鉄格子」で囚われの身になっているのであり、それは全ての人が気づいていないだけなのではないかと考えることも出来る。そう考えるとこの問題はとても大きな普遍性をもつテーマにも繋がるのではないかと思えてきた。それまで私はマンガのギャグというのは大勢の人を笑わせたり楽しくさせたりするものだと思い込んでいたのだが、このヒロタの発想を見て初めてギャグの中でもブラックジョークやパロディーの要素が表現になり得ることを知ったのであった。

このようなブラックジョークやパロディーの文化というのは、専門的に研究するとなかなか面白い。例えば日本では古くから落語や漫才などにも、このような要素は伝統的にあった。そのブラックジョークやパロディーの中には普段はなかなか口に出すことができないような大衆の本音や社会の矛盾、さらには権力者の腐敗や人生の悲哀などが含まれているものだ。そういうものは誰でも心の中に感じてはいるものの、公の場では口にすることも憚られることが多いのだが、落語や漫才のような娯楽の場では半ば冗談として多くの観衆の笑いと共感を呼ぶことになる。ところがこれに深刻な社会風刺や政治的諧謔が加わってくると、笑ってばかりもいられないし、そのような表現をすることさえ許されないこともある。社会風刺や政治的諧謔の裏には社会権力に対する抵抗があり、因襲やタブーに対する挑戦が常に含まれているものだ。

テレビ番組でこの問題が深刻に取り上げられた例としては、ドリフターズの「8時だよ! 全員集合」(TBS)がある。今では誰もが知る国民的娯楽番組として有名だが、放送開始当初はブラックジョークが度々出てくるコントに批判が集中し俗悪番組とされた。教育界からも激しいクレームがついて子供たちの教育上よくないとして放送中止の要請まで出たほどだった。だが、当時の西戸山小学校の生徒はそんなことは問題にもしていなかった。番組は毎週皆んなが見ていたが、どこが面白かったのか、翌日にはさっそくコントの巧拙について真面目な顔をしながら議論したりしたものだった。今となっては微笑ましいことである。

それから1980年代になると、当時経営不振だったフジテレビが番組制作現場を一新させ「楽しくなければテレビじゃない」のキャッチフレーズを打ち立てて「MANZAI」ブームを引き起こした。当時私も報道番組を中心にこの時期フジテレビでも仕事をしていたことがあるのだが、当時の横澤彪プロデューサーのもとで登用され人気を博していたのが、漫才コンビ「ツービート」のひとりであったビートたけし(北野武)だった。彼が登場してきたときに徹底してやっていたのが、このブラックジョークとパロディであった。当時フジテレビがまだ曙橋にあった時代だったが、毎週私は会議が終わって地下1階の通路を歩いていると、ちょうどその時間に「俺たちひょうきん族」の収録が終わったビートたけしがヤッターマンの格好をしたまま降りてきて、立ち食い蕎麦屋で隣り合わせになったことがよくあった。あのピエロのような姿をしているビートたけしが隣で日本蕎麦を啜りながら黙々と食べているのを見て、この人のブラックジョークやパロディーが今日本を席巻しているのかと思うと、何か情けない気分になったものだ。ビートたけしのギャグは、それまでの落語や漫才では遠慮してやらなかったことまで、敢えて踏み込んでえげつないことまで言うところが受けた。当然のことながら最初は世間からの批判も多く「下品」「無節操」「意味不明」などと酷評されたのだが、やがてそのようなブラックジョークやパロディーが若年層から支持されるに至って、そういう表現方法が当時のサブカルチャーの一環で新しい表現として、いつの間にか市民権を得ていったのであった。

このようなブラックジョークやパロディーの文化史というのは実に奥が深い。20世紀の第一次世界大戦後にフランスを中心に広がったダダやシュールレアリスムという芸術運動にも、このような常識や意味に対する揶揄や破壊が行われたりしていた。この時代を代表する芸術家でもあるマルセル・デュシャンなどは、それまで最高の美とされていたモナリザの絵に口髭を加えて「L.H.O.O.Q」(彼女のお尻は熱い)という意味不明のタイトルをつけて出品した。当然、当初は美に対する冒涜として猛烈な批判に晒されたのだが、髭をつけたモナリザをよくよく見てみると「美しい女性」だと思い込んでいたモナリザが「勇猛な男性」に見えてくるのだから不思議だ。そのようなかなり暴力的な方法で、デュシャンは常識とされていた伝統的や価値観や意味に対して疑問符を投げかけて、ブラックジョークとパロディーの世界を「高尚な芸術」に持ち込んだとされている。

実をいうとヒロタの「囚人シリーズ」もそれと似たようなものだった。それまで当たり前だと思われているようなことや、身の回りに転がっている卑近なものにでも、「鉄格子」をつけて新しい解釈を加えることで「作品化」するというかなり高度な文化活動の一環を無意識のうちに行っていたことになる。このようなサブカルチャーの走りとも言えるようなことが成立するためにはいつくかの条件がある。基本的には経済的に豊かであることと、表現の自由が認められていること、そして何といっても都会の悪ガキが考えるような悪戯(いたずら)と遊びの精神があること。こういうことが備わっていて初めて可能になることだ。だいぶ時間が経った今から考えてみると、この西戸山小学校に来てから私が最初に感じた違和感というのは、このようなブラックジョークとパロディーの文化的背景が関係していたのではないかと思われる。

もう一人のフクの方はヒロタともまた違ったキャラクターの持ち主だった。とにかく人を見れば屁理屈をまくし立て、何でもかんでもケチをつけるような特異な性格だった。マンガについては特にストーリーマンガが好きだとしていて、日本のマンガにおけるストーリーマンガの現状を彼なりに熱心に解説していた。私ものちに大学でマンガやアニメについても講義することになるのだが、この当時1967年の頃はようやく「鉄腕アトム」や「鉄人28号」などのテレビアニメの放送が始まった時代であった。しかし多くの少年少女たちがマンガと接するメディアは何といっても「少年マガジン」や「少年サンデー」や「少年キング」などの週刊雑誌だった。このような雑誌は各々一冊40円で、毎週3冊買うと高いので近くの貸本屋へ行くと1日1冊10円で借りることが出来た。ストーリーマンガというと何と言っても手塚治虫である。その頃、西戸山小学校からも近い豊島区椎名町にあったトキワ荘からは、手塚治虫をはじめとして赤塚不二夫、石森章太郎、藤子不二雄、つのだじろう、等々の人気漫画家が多く出ていた。フクはそのような漫画界のことにも詳しくて、各々の作品と漫画家のことになると、とたんに饒舌になっていつまでも話をしてくれた。この時期、特にフクが入れ込んでいたのが「無用ノ介」を描いていたさいとうたかをだった。さいとうたかを氏は「ゴルゴ13」のシリーズで長年日本のマンガ界に大きな足跡を残し数年前に天寿を全うされたが、我々が小学生の頃はまだ無名の漫画家だった。「無用ノ介」は時代劇の浪人侍の物語を「少年マガジン」に連載していたものだったが、それまでの子供向けの「楽しく面白いマンガ」の概念を一変させ、まるで活劇映画を見ているような重厚で迫力ある作品に仕上げられていた。それから間もなくして、このさいとうたかを氏を中心にした劇画の時代が到来することになるのだが、まだ小学生の段階でそのとてつもない可能性をフクは感じていたのだろう、自分もそういうマンガを描きたいと言っていた。

三人でとりあえず自分の描きたいものを描いてみようということになった。フクが画用紙にサッサッサと鉛筆で描いたデッサンのようなものを見て私は驚愕した。そこには二羽の鶏が描かれていたのだが、鶏の歩いている姿態や足や首の線、一羽が雄で一羽が雌の鶏だった。威厳を示すように鶏冠を立てている雄鶏と、身を低くして地面の餌を探している雌鶏、この二羽の鶏が瞬時に見せる体の線が見事にバランス良く描かれていたのだった。これは・・・とてもじゃないが私には出来ない。普段は性格が悪く、いつも悪態をついているようなフクだったが、彼は美術の世界では本物の天才なのかもしれないと思ったりした。聞けば、しばらく絵画教室に通っていたことがあってデッサンの基礎はそこで習ったと言っていた。それにしてもあの二羽の鶏の絵は、とても小学生が描けるような代物ではない。20世紀を代表する抽象画の大家パブロ・ピカソの少年時代の絵を見たことがあるが、まるでラファエロが描いたようなデッサンがあったり、印象派の巨匠が描いたような水彩画があったことを思い起こさせる。フクの描いた二羽の鶏も私にとってはそれくらい素晴らしい才能を感じさせられるものであった。

それからしばらくして図工の時間に教室を出て写生をすることになった。私はフクがどんな絵を描くのか興味があったので、二人で屋上に行って西戸山小学校の屋上から見える風景を描くことにした。天気の良い日で、周囲の西戸山公園の緑が広がり、目の前にある野球場のグランドが見え、山手線の線路を挟んで遠くに早稲田大学理工学部の高層校舎も臨むことが出来た。さて何を描こうか。全景を描こうと思うと狭い画用紙には入りきれない。正確に描こうとすると高層建築を小さくしなければならない。私が何をどのように描こうか迷っていると、フクは暫く全体を見まわしたあとサッサと下書きを始めた。それを見せてもらった私はまたまたフクの並外れた才能を目にすることになった。そこには目の前に広がっている主要なもの、樹々、公園、野球場、道路、などが描かれていて、遠くに見える早稲田大学の高層ビルも目の前にあるように描かれていた。しかもそれは望遠レンズで見たように拡大して描かれていたのだ。風景画の写生といってもそこに描かれていたのは、かなりデフォルメされた構図で、全体がまるで魚眼レンズで覗いたように描かれていたのであった。これには驚いた。当時の私の能力では、このように実際に見えるものを変形(デフォルメ)させて描くという発想はなかった。しかも遠くに見える印象的な高層ビルは望遠レンズを使ったように拡大して描き、画面に収まりそうもない全体の風景は細部を省略して魚眼レンズを使ったように描いていた。これを瞬間的に頭の中でデザインして、フクは実際に画用紙の上に表現していたのだった。まさに脱帽である。この才能はどこから来たのだろう。普段、何げなくマンガを見ているにしても、さいとうたかを氏の迫力ある劇画調の画を自分のものに取り入れていたのだろうか。本当に「人は見かけによらないものだ」ということを痛感した。

こうしてヒロタとフクとのマンガ研究会では、思いがけない発見や学びを経験することが出来た。5年4組に入ったときは、このような不真面目で態度の悪い連中とどうやって付き合っていこうかと思ったものだが、一人ひとりと接してみると実に個性的でそれまで私が知らなかった世界をたくさん知っていることが分かってきた。皆んな決して優等生タイプではなかったが、それぞれの趣味やこだわりが半端ではなく、また大人の世界にはないような豊かで柔軟な発想もあることが分かってきた。こういうクラスメイトたちに囲まれて、私はこの西戸山小学校5年4組の一種特有の文化の中に引き込まれるようになっていったのだった。

 

因みに二人のその後であるが、ヒロタこと廣田君は大学卒業後就職し、東北地方で30年以上も営業職を務めたあと退職して、現在は千葉県柏市にいて乗馬クラブに凝っているそうである。またフクこと福島君とは中学卒業後は音信がなく、風の便りではあるが若くして亡くなったという噂を聞いたことがあるが、詳細は不明である。あの年のマンガ研究会で得た知識は、その後の私の放送作家の仕事や大学教授の研究にも少なからず生かされている。改めて二人には、感謝したい。

 

 

    ギャグマンガのヒロタこと廣田君

 

 

   ストーリーマンガのフクこと福島君