新宿区立西戸山小学校 12 丹治守雄校長先生の世界一周視察旅行 (2)
その丹治守雄校長先生が世界一周視察旅行に出かけるというニュースが入ってきた。詳しいことは分からないが、どうも文部省(当時)の海外視察事業のひとつで世界の小学校や中学校の実態を視察するために派遣される視察団の団長を務められることになったという。西戸山小学校は新宿区立の公立小学校とはいっても、先述したようにユネスコのモデル校に指定されていることもあり海外の教育機関の人たちとの交流も盛んに行われていた。その学校の校長先生ともなると一般の小学校とは違い日本の初等教育のリーダー的存在だったことが窺われた。これは何かとてつもないことのように先生方は興奮していたが、生徒の立場からすると校長先生が世界一周視察に行こうがどうしようがそんなことは遠い世界のことで、自分たちには関係ないこととして冷めた印象しかなかった。今では信じられないかもしれないが、1960年代の一般の日本人の感覚から言えば、海外旅行へ行ける人は特別な人であった。父親が優秀で大企業の海外勤務で派遣されるか、あるいはそれこそ大金持ちの家族がバカンスで家族旅行に出かけるかしかなく、しかも当時は普通の日本人が誰でも無制限に海外旅行へ行けるわけではなかった。1964年の東京オリンピックのときに東海道新幹線が開通しそれに乗ったことがあるというだけでクラスでも特別な存在になっていたのだが、飛行機に乗ったことあるような家は皆んなからは一段上のハイクラスの人として羨望の眼で見られていたのであった。そういう中での丹治校長先生の世界一周視察旅行である。しかも日本を代表するような公務の仕事のの団長として使節団を率いる立場で世界を巡る旅に行かれるというのは、自分の小学校の校長先生だと思うと誇らしくもありほかの小学校の人にも自慢して聞かせたいような話でもあった。
それから一か月ほどして丹治先生が帰国されてきた。さっそく全校生徒が体育館に集められて校長先生からお話があるとのことであった。体育館に行くと壇上に大きなスクリーンが吊り下げられていて映写機のようなものが備えられていた。それは丹治先生が旅行先で撮影してきた写真をスライドショーにするためのものだった。丹治先生はスライドの横に立った状態で、自らスライドを順番に入れ替えながら、ハンディマイクを片手に持って嬉々として説明を始められた。
「皆さん、今日は私が世界をぐるっと周って見てきたものを、こうしてスライドを見せながら説明します。たくさんあるのでここで全部紹介できるかどうか分かりませんが、順番に見ていきましょう。」と嬉しそうに言って説明を始めた。もうかなりのお歳だと思っていたし、普段は苦虫を嚙み潰したような表情をしていてあのゲシュタポのような冷血な印象だったあの丹治校長先生が、この日はどうしたことか急に若返ったように、元気に早口で説明をし始めたのには、正直ちょっと面喰ったものだ。
旅の初めはハワイだった。ハワイと言うと当時の日本人にとってみれば憧れの地である。まだ見ぬハワイは平和な常夏の島で、青い海と白い波、そして若者たちがサーフィンに興じているというイメージしかなかった。最初に出てきたスライドも、やはりハワイの典型的なリゾートビーチの風景だったが、次のスライドを見て驚いた。いきなり丹治校長先生が原色だらけのド派手なアロハシャツを着て、小麦色に日焼けした水着姿の美人を両脇に従え、信じられないほどニコニコ笑っている写真が出てきたのであった。何んじゃ、こりゃ ! と誰もが思ったのではないだろうか。普段のどうしようもないような堅物で背広姿しか見たことのない丹治校長先生が、ハワイに行ってどこかおかしくなってしまったのではないかと思ったほどであった。そうしたら、丹治先生はスライドを送りながら嬉しそうに説明を続けた。「いゃー、ハワイね。これは飛行機で空港に到着したときの写真なんですが、タラップを降りるなり水着の女の人がやってきて私の首に花輪(レイ)をかけてくれたんですよ。それでね、そのあとね、いきなりね、キスされたんですよ ! いゃー、これには驚きましたよ。国が違えば風習も違うもんですねえ。」照れ臭そうにそう言いながら、結構嬉しそうに説明するのであった。私はハワイといえば真珠湾攻撃の話を父からよく聞かされていたので、当然丹治先生からは日本とハワイの戦争に関すものが出てくると思っていたのだがそうした話は全くなく、校長先生がサイケ調のアロハシャツを着てハワイ美人から花輪(レイ)をかけられていきなりキスされた話だけで終わってしまった。朝礼のときには丹治先生はよく戦後日本がいかに大変だったのかのお話をされるのであるが、ではどうして日本はこんなアメリカなんかと戦争を始めてしまったのかをもっと詳しく説明してほしいと思ったものだった。
この日そのあとどういう話をされたのかすっかり忘れてしまったが、とにかく体育館で全校生徒たちにハワイのスライドを見せたことだけは鮮明に覚えている。あのアロハシャツに花輪(レイ)をかけた丹治校長先生の嬉しそうな顔だけが強く印象に残っている。それだけそれは強烈なイメージだったのだろう。映像のイメージとは恐ろしいものだ。何しろそのあときっと大切なお話もしていただいたと思うのだが、あのサイケ調のアロハシャツを着て水着姿の女の人が挟まれた丹治先生の笑顔以外の記憶は、私の記憶には全く残っていないのだから、それだけ映像のイメージが強烈であることの証明になるのだろう。
その丹治校長先生の世界一周視察旅行の話は、体育館でスライドを見せただけでは時間も全く足りなかったらしく、後日、昼休みの校内放送で校長先生自ら出演されて話をすることになった。放送部長だった私にも担当の先生からその旨の指示があった。何といってもこの学校で一番偉い人が昼休みの放送室に来て大切な話をするのである。さっそく放送部員が集められくれぐれも校長先生には失礼のないようにとお達しがあった。この学校の昼休みは1時間ほどであろうか、午前の授業が終わると全校の各クラスの給食委員が一斉に給食室からワゴンでその日の給食を運び出して教室で配膳を始めた。各々の教室で生徒たちは給食をいただくのだが、ここの学校のメニューは一段と豪勢なものであった。全員が食べ終わるとあとは自由時間になって、午後の授業の時間が来るまで校庭や屋上に行ってボール遊びをしたり教室でゲームをしたりした。その間、昼休みの校内放送が流された。放送はラジオ放送で各教室に備えられているスピーカーから音が出るようになっていた。放送部の部員が担当の曜日を決めて、それぞれ音楽を流したり最近のトピックをアナウンサーが読んだりしていた。その昼休みの放送時間を使って、丹治校長先生の世界一周視察旅行の続きをしていただくことになったのだった。
いよいよ放送本番の日がきた。私は放送室のサブ(副調整室)にいて、ガラス越しにスタジオ内の校長先生の話をチェックしたり、マイクの音量やノイズなどがないかを確認するような作業を補佐していた。いよいよ丹治校長先生が放送室にやって来た。担当をしている先生も後ろに付いてきていてしきりに校長先生のご機嫌を取っていた。あの夏目漱石の「坊ちゃん」に出てくる赤シャツと野太鼓のような関係だろうか、お付きの先生がひとりで興奮しながらはしゃいでいた。こういう人のことを「太鼓持ち」というのだと私はこのとき初めて知った。スタジオは結構狭いスペースだったが、ここに丹治先生と6年生の女子の放送部員がアナウンサーが入り、生徒の方からいろいろ質問しながら校長先生がそれに答えるという形式になった。
このときのことはあまり詳しくは覚えていないが、今回の世界旅行で訪れた国ではイギリスとソ連の学校の話をされていたように思う。イギリスでは一般市民が通うパブリックスクールを見学されたそうだが、丹治先生から見るとイギリスの学校は失望されたようだった。この当時、時はビートルズの全盛時代であり、イギリスの都会の生徒たちは男子でも長髪が流行っていて、不良や非行が一種のカウンターカルチャー(対抗文化)のステータスにもなっていた。イギリスと言えばエリザベス女王陛下の国であり、近代日本がお手本としてきた先進国であり、第二次世界大戦では日本も交戦した相手国でもあった。そうした先進的な国の学校教育がどのようなものか、期待しながら視察しに行ったはずだが、丹治先生の意に反してその現場は混乱と無秩序に溢れていたようだ。丹治先生は少し不愉快そうな表情をされながら、訪れたイギリスの学校について話をされた。
「私はイギリスのパブリックスクールに行ってきたのですが、いゃー、驚きましたね。とにかく皆んな生徒たちのお行儀が悪い。男の子でもあのだらしなく髪を伸ばした子もいるし、授業中でも先生の話を聞いていない子もいて、もっとイギリスはしっかりしているものと思っていたのですが、ちょっとがっかりしましたよ。それで授業が終わって休み時間になると、生徒たちは一斉に教室を飛び出して大騒ぎをしていました。学校は遊ぶ場所じゃあないでしょう。イギリスは自由の国だと思っていたのですが、もっと自由は何かということを学校でしっかり教えなければならないのではないかと思いましたよ。」
このときは私自身もイギリスのことは全く知らなかったし、日本より先を行っている国だと思っていたので、この話を聞いて少し驚いた。それだけイギリスの普通の学校では、生徒たちが自由に生活していることのほうが羨ましく思われたほどだった。
それから数年して私が中学生のときに「小さな恋のメロディー」というイギリス映画を見ることになった。当時人気バンドのビージーズの音楽に乗せて、マーク・レスターとトレイシー・ハイドの二人のハイスクール生徒がロンドンの街中で何とも魅力的なラブストーリーを展開してくれる名作である。この映画の中で、まだまだ子供の生徒たちが先生や親などの大人の世界に精一杯抵抗しながら、自分たちの自己主張を可愛らしく繰り広げていく物語になっていた。その中で学校のシーンが出てくるのだが、ここに丹治先生が言われていたようなイギリスの学校の様子がそのまま出てきたのだった。物音ひとつ聞こえないシーンと静まり返った学校の廊下。授業が終わるベルが鳴ったとたん一転して生徒たちが大声を挙げながら教室を飛び出して、校内はそれこそ混乱と無秩序状態になっていた。ははん、なるほどそうか。丹治先生は視察旅行に行かれたときに、これを見たんだなと思ったりした。
私にはイギリスの学校は自由で活力に溢れていて羨ましく感じたのだが、日本を代表する教育者としてこの光景を見た丹治先生は、どうも失望し不愉快に思われたようだ。このあたりの丹治先生の教育哲学ははっきりしている。何といっても規律と秩序が最優先事項であり、他人に対する礼節と敬意が不可欠であるという信念を持っておられることがよく分かった。当時の1960年代末の日本はまだ高度経済成長の途上にあり、戦後の混乱から脱して豊かさを追求する時代だった。この経済的な豊かさの先には何があるのか、まだ当時の日本にはその展望など出来る状況ではなかったことだろう。その頃から大学受験の過剰な関心が日本全体に広がって、日本の学校教育は小学校から高校まで極端な管理教育が進行していった。そうした受験戦争の背景には、高度経済成長に伴う学歴社会の深化が進み、個人や学校の序列化が進展していったと指摘する意見もある。現代のスマホやSNSの時代になっても、子供たちの自由の問題と規律や秩序の問題は深刻な問題だ。このとき丹治先生がイギリスの学校で見た光景は、現代日本の学校教育にもつながる課題を含んでいるものかもしれない。
次に丹治先生が話していただいたのは、ソ連の学校のことであった。ご承知のように旧ソ連は1991年に解体してしまい、現在はロシアやベラルーシやウクライナなど10数か国に分裂してしまった。当時のソ連といえば、何といっても社会主義の国であり、今では信じられないかもしれないが、日本から直行便もなくテレビもソ連国内の映像を見ることは殆ど許されていなかった。1968年の段階では、中華人民共和国もまだ日本との国交は回復しておらず、国連に加盟している中国を代表する政府はあくまでも台湾の中華民国政府であった。つまり当時のソ連と中国は、日本にとってはベールに包まれた大国であり、第二次世界大戦では結果として日本に勝った戦勝国でもあったので、それだけ強い国の学校教育はどのようになっているのかという素朴な興味が小学生の私にもあった。
丹治先生の世界一周旅行では、イギリスのあとにソ連に行ったらしく、訪れた学校の様子もまさに対照的だったようだ。開口一番、丹治先生はソ連の学校をよほどお気に召したのか、とても褒めておられた。
「ソ連というと社会主義の国なので、どこか恐ろしいような気がするでしょう。ところが現地に行ってみると、それが全然違うんですよ。学校に入ると隅から隅まできちんと掃除が行き届いていて、先生が教室に入ったとたん生徒たちが全員立ち上がって礼をするんですよ。そして一人ひとりが元気よく返事をしたり先生の質問に答えたりして、とても緊張感のある充実した授業をしていましたよ。イギリスの学校と違って、男子生徒は髪の毛を短く切っていて気持ちがいいものでしたね。やはり学校はこうでなければなりません。社会主義の国なので、教育方針や教育内容については日本とは大きく違うのでしょうが、学校はどんな国であっても先生と生徒が真剣に学ぶ場所でなければなりませんね。今回私が見たソ連の学校は、とてもしっかりした教育が行われていて生徒たちの態度も良かったと思いましたよ。」
丹治先生はソ連の教育現場はよほど気に入られたようだった。でもね。私だったらどんなことがあってもソ連の学校に行きたいとは思わないだろう。それは丹治先生の教育哲学に則った管理教育が徹底されていて、規律や秩序が最優先にされているのだろうが、何か教育にとって大切なことが欠けているのではないか。その頃は社会主義の国家がどういうものなのか想像も出来なかったのだが、結局のところこれは強力な軍事力と警察力を背景とした、国家権力をそのまま教育現場に適用している結果なのではないかと思ったものだ。そういう体制が良いと考える人もいるかもしれないが、私はご免だと生理的に思ってしまう。これでは学校教育と言いながら軍隊と変わらないのではないのか。たとえ教育現場の規律と秩序が守られていたとしても、そのような体制を実現させている国家や社会の思想や哲学に問題がある場合には、一体誰がこれを修正することが出来るだろうか。その当時から権力をもっている偉い人や金持ちや大人たちは、どうも信用ならない人たちだと思っていたし、権力を持つようになると人間は自分に都合の良い理屈を立てて、平気で嘘をつくようになるのではないかと疑っていたのであった。丹治先生の言われることはどれを取って見てもごもっともであり正論であるには違いないのだが、やはり私の第一印象があるせいか、あの銀縁眼鏡の冷徹な印象は、どうしてもやはりゲシュタポに見えてしまうのであった。
校内放送は基本的に生放送である。世界一周視察旅行の話をされて、丹治校長先生は満足そうにしておられた。それで私が部長を務めていた放送部の企画として、丹治先生からお好きな曲をリクエストとしていただいて、その週は昼休みの校内放送で流すことにした。その場で聞き手の女子生徒が丹治先生にリクエスト曲は何かありますかと尋ねたところ、「そうねぇ」と少し考えてから、「それじゃ『小さな喫茶店』にしてもらおうか。」と言われた。生徒が「どんな曲なんですか?」と尋ねると、丹治先生は笑いながら「これは私の若い頃によく聴いた曲なんですよ。」と言った。
こうして、丹治校長先生による世界一周視察旅行の校内放送は無事終わった。ただでさえ慌ただしい昼休みの放送室に丹治校長先生が来て直接生放送でお話をしていただいた。とても中身の濃い内容だったのではないかと思う。その当時の小学生ではよく理解できない問題もあったが、少なくとも身近の人から海外の事情を直接話してもらえる機会を持つことができただけでも、大変有難いことでもあった。私が川崎の平間小学校からこの新宿区西戸山小学校へ転校してきた日に初めて校長室でお会いしたときの印象から、丹治校長先生はどうも煙たくて鬱陶しいような存在に思えていたのだが、このとき放送室のような狭いところで少人数を相手に、いろいろな話をしていだだくことが出来て、私にとっても随分と丹治先生に対するイメージも変わったような気がした。
それから間もなくして丹治先生がリクエストしてくれた曲『小さな喫茶店』のレコードを探し出してきて、放送部員の生徒たちと一緒に聴いてみた。それは何とも言えないような味わい深い曲で、生真面目で堅物の印象が強い丹治先生のキャラからは想像もできないようなロマンチックで哀愁を帯びた曲だった。その後、私はこの曲について詳しく知りたいと思っていろいろ調べてみた。
『小さな喫茶店』(In einer keiner Konditorei)は、1928年にドイツのフレッド・レイモンド(Fred Raymond)が作曲したコンチネンタルタンゴで、ワイマール時代のドイツで流行した曲である。主にダンスホールなどで演奏され、日本にも1930年代に伝えられたとあった。ワイマール時代とは、第一次世界大戦に敗戦し壊滅的な惨状になったドイツで、新しく理想的な国家建設を求めて建設されたワイマール共和国の時代のことである。ドイツ全土は貧困と絶望に見舞われ、そこに理想的な国家再建の夢をかけて建設されたのがワイマール共和国だった。しかし理想と現実のギャップはあまりにも大きく、ベルリンを中心に耽美的で退廃的な文化が蔓延していった。その頃、ヨーロッパで流行したのがコンチネンタルタンゴだった。そこには一見すると壮麗で華美な様式の中に陰鬱な死のイメージが伴われていて、やがて再び迫りくる戦争と破滅を意識しながら束の間の生の炎を燃え立たせていたような文化があったのではないだろうか。
日本でも1930年代になると、大都会の喧噪の中にひたひたと戦争の足音が聞こえるようになってきたが、それを意識したのかあの昭和初期のデカダンスを追い求める美学が流行した時代でもあった。丹治先生の世代であれば、そんな時代に青春期を過ごしたのではないだろうか。もしかするとどこかの小さなダンスホールでこの曲を聴きタンゴを踊りながら、忘れられないような青春のひとときを過ごしたのかもしれない。やがて訪れる戦争の悲しい歴史を半ば意識しつつ、丹治先生はこの国のことや教育のことを考えてこられたのかもしれない。きっとそうだ。きっとそうなんだ。丹治先生のあの冷徹なゲシュタポの仮面の下には、そういう思いがあるに違いないのだ。そのように想像を巡らせてみると、このタンゴの名曲の中には丹治先生の人生がたくさん詰まっているのではないかとも思えてきた。そしてこの曲が好きな人に悪い人なんかいないだろうと思ったりしたのだった。
丹治先生の世界一周視察旅行の放送が終わったあとも、私は昼休みの校内放送の中で機会がある度にこの『小さな喫茶店』のレコードを持ち出してきてかけてみた。もう何回も聴いたことのある曲だったので、放送部員の生徒からは「今村君は本当にこの曲が好きだね。どうして何回もこの曲をかけるの?」と言われたりしたこともあった。「それはヒミツ。」と答えていたが、この曲には私と丹治先生の二人だけのヒミツで繋がれているような気がしていたのだった。
※ 以下、YouTubeに出ていた『小さな喫茶店』のアドレスを貼り付けておきます。丹治守雄校長先生から推薦していただいたこの曲を、多くの人に鑑賞していただければ幸いです。
https://www.youtube.com/watch?v=J0GjhNYXCcI&list=RDJ0GjhNYXCcI&start_radio=1
西戸山小学校 丹治守雄 校長先生 と 校歌































