奈良時代に意味が忘れ去られていた古代の地名は、地形表現を基本においたと推定されています。

地図も文字もない時代に、『地名』に求められた要素は、地形を表現したうえに、発声しやすく、記憶しやすいリズミカルな簡潔さでした。古代の地名は、この全てを満たしています。どのようにして、三音~四音の簡素な言葉で、誰もが納得できる、地形を表現する体系を組みあげていったかを考えましょう。

まず、山手線と京浜東北線が東京北部で別れる、タンボの端っこにつけたと解説される「田端」駅を検証しましょう。



   駒込、田端、西日暮里、日暮里駅周辺地形図

25千分の1デジタル標高地形図  東京区部  平成18年製  () 日本地図センター
地名馬鹿のブログ


 地図の真ん中ななめに横切る台地が、上野から王子まで続く「上野台」、左の台地が「本郷台」です。山手線は、上野から田端まで上野台に沿ってはしり、田端~駒込間で上野台を横切り、さらに本郷台、豊島台を切り通しで上りつづけて、池袋に到達します。

地図の中央に位置する「田端駅」は、日本鉄道東北線から海岸線(今の常磐線)を分岐する駅として、明治2941日に東京府北豊島郡田端村に設置されました。明治3641日に田端~池袋を結ぶ豊島線が開通して、品川~新宿~池袋~赤羽の品川線と連絡し、明治39年に日本鉄道が国有化された後、明治4210月に「山手線」と改称されました。

 戦国時代の記録がのこる田端村は、古地図では台地上部に集落が記されています。縄文時代以来の遺跡や、江戸時代の大名屋敷などに共通する点は、見晴らしの良い台地上が居住地として、最高と考えられていたことです。

 先にあげた地図には、際立った特徴があることがお判りでしょう。上野台の崖下の地面がほぼ平らであることと、上野台と本郷台に挟まれた窪地も、おおよそ平坦なことです。この平坦地は7,0004,000年前、今より23℃気温が高く、海水面が3~5m上昇していた『縄文海進』の時代(縄文時代早期~中期)には、海だったのです。

田端の貨物操車場を解体して、東北新幹線の工事が開始された昭和581983)年、今は新幹線の車両保守基地になった中里貝塚(貝塚遺跡として日本最大級:北区上中里二丁目)から、縄文時代中期に使われた「丸木舟」が出土して、注目を集めました。田端付近、というより上野台全体が、旧石器時代からの遺跡密集地なのです。

こうした歴史を振り返ると、台地上にある田端が、弥生時代以降の命名になる「タンボの端っこの集落」という意味で命名された、とは考えにくくなります。

『地名』に求められた要素は、地形を表現したうえに、発声しやすく、記憶しやすく、韻律を整えた簡潔さでした。Tapata」という、前後対称の三音の地名をワードにのる漢字で記すと、「田端,田畑,田幡、田畠、田羽多,束田」などがあがります。しかし、どの文字で表記しても、「台地の上部」の意味は出ません。

 そこで、タバタを「束+端、旗」と分解して、それぞれの意味をとると、タバには、木々をまとめた束を地面に置いた姿に台地の雰囲気が感じられますし、パタパタはためく旗には、はっきり上端の意味が出てきます。つまり、言葉を分解する。逆に見れば、地名は『掛け言葉』を使って命名された仮設をたてて、地名を考えて行けば、地形表現が浮かび上がる、と考えるのが本ブログの基本です。

ただし、全国の田端がすべて台地上にあるとは断言できません。奈良時代以降は、地形地名の命名法が継承されていないようですし,田畑の地名には、文字通りの表現をしたところもあります。数千年の期間を一遍に眺める、地名研究の難しさがここにあります。

 しかし、田端に使われた「Tapa. Pata」は地名の基本用語です。とくに「Tapa. Tafa, Tawa」は「たはむ→たわむ、撓む」の意味から峠、山に多用された名ですので、『地名考古学』の「峠名の解き方」で詳しく取り上げました。

また、田端周辺の平坦地が海であった史実は、陸地だけにつけられる『地名』の年代測定に有用です。縄文時代早期から中期の「縄文海進」、海が徐々に後いて現代の海岸線に近づいた、縄文時代後期から弥生時代への地形と地名を対照して、統計処理をすると『縄文・弥生の地名』がはっきり区別でき、言語が進化した様子が判るのです。

都合が良いことに、「地名」と「言葉」は、同じ方法で命名されていますので、『地名考古学』で地名の年代測定をして、『地名言語学』で縄文~弥生時代の言葉を復元できる可能性がでてきます。

地名考古学の具体例は、『地名の解き方』 の大阪環状線、山手線全駅の誕生過程と駅名の起源を述べました。もちろん、ほぼ全ての駅名に、通説に反した解釈を提起しています。