中国の農業科学研究者、いや科学者全体をみても知らない人はいないであろうという著名人に袁隆平という方がいます(彼のプロフィールについてはこちらを参照)。彼は1960年代から中国においてハイブリッド米研究に着手し、中国における「ハイブリッドの父」と称され尊敬を集めています。FAO(国連食糧農業機関)もハイブリッド米自体が1974年に中国で開発されたと紹介しており、それには彼の功績が欠かせませんでした。ハイブリッド米は現在広く用いられるに至っており、2004年における中国のコメ作付面積の半分は既にハイブリッド米になっているとされている(上述FAOのページ)ところから、現在はもっと多いことが予想されます。
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ハイブリッド米の栽培は広がりを見せている(写真は黒龍江省の試験場)

 しかし、そのハイブリッドの普及に異を唱える三農学者が、彼に意見を投げかけました。李昌平(河北大学中国農村建設研究センター主任)は、実は2000年に当時の朱鎔基総理に公開レターを投げかけ、当時の農村の厳しい「三農問題」現状を訴えた、湖北省のある郷政府共産党委員会書記だった人です。今は17年の農村での経歴の後に研究の道に入っています。その彼が今回書いた「手紙」では、袁隆平にこれ以上のハイブリッド米研究を止めて、在来品種の研究に立ち戻ってくれるよう懇願しています。

ハイブリッド VS 在来品種

 彼の主張のポイントは在来品種の見直し。理由は幾つかありますが、一つにはハイブリッド米が種子を保持することができず、播種季毎に種子会社から種子を購入する必要があること。また、それ故に災害などの特殊事情で収穫ができなくなった後に種子が臨時に必要となった時にも、かつてならその前の作付けから貯蔵していた種子などを使えていたが、ハイブリッドへの依存が強くなった今ではそれも難しくなりました。種子会社は季節に合わせて販売しており、それ以外の時期に在庫を抱えていないことから調達が難しく、その後に作付けもできなくなってしまうことも。また、ハイブリッド米の高い単収はそれに見合った農業投入(化学肥料など)を前提としており、それは農家の負担となっているし、土壌汚染にもつながることも問題です。

 李昌平も自らを「忠実な袁隆平のファン」と称し、ハイブリッド米の存在、更には袁隆平の業績を否定しているわけではありません。ただ、ハイブリッドがあまりにも普及し過ぎ、単一になることを懸念し、またこれまでの在来種子も条件を考えれば十分な単収を得られるというのが主張です。国は土着種子を全体の3割以上は確保すべく法律で規定すべきと主張しています。

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農作業の機械化も含め、中国の農業生産コストも上がる一方。(写真は寧夏のある農家の農機)

農家の声の代弁者か、科学技術への無知か

 ネット上でも、著名な袁隆平への「反論」と捉えられたのでしょうか、賛否両論が湧き上がっているそうで、元々この話題が載った27日付「南方農業報」が次々と転載されています。「農家の声を代表する良心の声だ」と支持する意見がある一方、「遺伝子組換えとハイブリッド米を併論するなど、科学技術のことを分かっていない」などといった反論・反応もあります。

【考えたこと】
 李昌平が河北大学で研究をしているというのは聞いていましたが、10年越しにまたもやこういった「三農レター」と言う形で世間の耳目を集めるとは面白いです。今回は総理よりは垣根は低そうですが、それでも科学者としては大物中の大物に対する意見具申、しかもこちらもその10年前のレターで有名になった李昌平の意見ということが重なり、一見地味にも見えるこの話題も脚光が集まったのはとても良いことだと感じます。
 
 ハイブリッド米が化学肥料、農薬などの投入を増加させているという指摘は、いわゆる「緑の革命」という1960年代における議論を思い起こさせます。こちらも世界の食糧危機を救う水稲単収増加に期待が高まりそれを満たす改良品種が現れた一方、同時に必要となる肥料、農薬の増加により結局それらの初期コストに耐えられる比較的裕福な農家のみがその恩恵を受け、貧困農家は却って貧しくなったという批判が後には高まりました。化学肥料、化学農薬のこれまで以上の投入を必要とすることから、環境への影響などの違った側面もより懸念されるようなって来ました。

 ただ、公開レター発表後の李昌平のインタビュー(4月28日付京華時報)を読んでいると、何も今普及しているハイブリッド米を止めろと言うわけでもなく、在来種子も大事にしながらのバランスを取れという趣旨で30%と提示したりと、提案としてもリーズナブルに感じます。生産増加をもたらしてきてくれたハイブリッド米を肯定しつつも、過剰なハイブリッドへの依存に懸念を示しているということなのだと思います。

 市場の論理は合理的な資源配分を概ね促すものですが、それでも独占状態は健全な競争を阻害する悪い状態として規制する法律があるくらいです。自然を相手にする農業では一旦淘汰してしまうと戻ってこないもの(種の保存などの問題)があるわけですから、両者の違いを明確にしつつ、実際に農業を行う農家に選択肢を残すべきと言うことが肝要なのだろうと思います。