昭和38年1月27日午前0時55分 吉田秀雄死去 | 広告の森EXPO 歴史館

昭和38年1月27日午前0時55分 吉田秀雄死去

広告代理店電通の中興の祖にして、
広告業界の飛躍的発展に多大な貢献を
した吉田秀雄氏の亡くなった日時です。享年59才でした。

広告代理店というと、学生の就職先としても安定した人気があり、
また時代の先端を走る業界というイメージがあります。

しかし

「終戦までの広告界は、日本の古事記以前だったし、
 あるいは日本書記以前だったろうと思います。」
「当時の広告屋といえば、正直『広告取り』の名の如く
 なにもかもあったものではありませんでした。それは
 ゴロツキであり、その頃の魚河岸の人夫と何の変わり
 もなかった。」 
(「広告の中に生きる男」片柳忠男著)

以上のような有様だったそうです。
そして社会的にも評価の低かった広告業界の地位
を向上させ、いち広告代理店にすぎなかった電通を
世界の電通までに成長させたのが、”広告の鬼”と
呼ばれた、四代目社長吉田秀雄氏です。

実は私自身恥ずかしながら、広告制作の端っくれに関
わっていながら、吉田秀雄氏のことをよく知りません
でしたので、電通本社ビルの隣にあるアド・ミュージ
アム東京にて氏に関する文献を購入し読んでみました。
(電通本社近辺の本屋は流石に広告・デザイン関連の
 書籍は充実してます。)

仕事は鬼のように厳しく、一分のすきでもあろう
ものなら容赦なく罵倒され、常に危機感を抱き、
時代の先端をノンストップで走ろうとする人でありました。
その反面、きちんとした服が買えない社員には、
スーツやコート、靴などを買い与えたそうです。
いまの電通が、かもし出すイメージも、吉田氏のこんな
気配りがあったからかも知れませんね。

こんなエピソードもあったそうです。
「昭和34年4月、北海道放送についで、札幌テレビ局が
 開局した。この開局記念式典に、吉田社長の随行の一員
 として渡道した。着いた日の夜、ホテルでの晩餐席上のこと
 だった。社長から『諸君は何で来たか』という質問があった。
 社長の隣でスープをすすっていた、石井部長が答えた。
 『飛行機で来ました』
 『北海道は、はじめてか』
 『そうです』
 『バカヤロー!』
 要は、何事をするにしても、もっと神経を使って、
 一分のすきもなく有効に行動をせよ、はじめての土地
 にくる時は汽車で来て、途中の要所要所の土地に下車
 して、広く見聞を身に付けよ、との意味である。」
(「この人吉田秀雄」永井龍男著)

そういう意識を持たない人に、良い広告など作れないという
ことですね。
広告に携わるものとして肝に命じておきましょう。

そして、吉田秀雄と言えばやはり「鬼十則」でしょう。

昭和26年7月・電通51周年記念日には
「全社員、広告の鬼となれ」と叱咤激励し、
その1ヶ月後にはさらい「鬼十則」を執筆して、
全社員に配布したそうです。

私も常に手帳の中にいれて、読み返しています。
自戒の意味もこめてその全文を記載したいと思います。



「鬼十則」

1. 仕事は自ら「創る」べきで、与えられるべきでない

2. 仕事とは、先手先手と「働き掛け」て行くことで、受け身でやるものではない

3. 「大きな仕事」と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする

4. 「難しい仕事」を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある

5. 取り組んだら「放すな」、殺されても放すな、目的完遂までは

6. 周囲を「引きずり回せ」、引きずるのと引きずられるのとでは、長い間に天地のひらきができる

7. 「計画」を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる

8. 「自信」を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない

9. 頭は常に「全回転」、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ

10.「 摩擦を怖れるな」摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる

昭和26年 夏 社長