明治37年(1904)、朝鮮・満州をめぐる日露間の交渉が決裂、日本は朝鮮半島への勢力を

伸ばすロシアを排除すべく、2月6日には、駐露公使を通じてロシアに国交断絶を通告すると

共に、連合艦隊は佐世保を出港しました。

そして2月9日、先制攻撃として仁川(じんせん)沖でロシア軍艦2隻を撃沈。こうして戦端が  開かれ、翌2月10日になって正式に宣戦を布告、「日露戦争」が始まりました。

●この明治37年(1904)は、宝永元年(1704)の大和川付け替え工事から、ちょうど200周年の節目の年。当時はまだ存在していた甚兵衛生家である今米屋敷内に、「中甚兵衛顕彰碑」を建てる準備が進んでいました。


●開戦後の3月になっても、藤戸(ふじと)作次郎・藤井治郎平・団野慶治を発起人とする、

「河内国大和川附違(つけたがえ)治水功績記念碑建立主意書」が配布されていました。

その後半部には、「摂津・河内両国の民(たみ)、今尚伝えて甚兵衛の徳を称えると雖(いえど)も、或いはその功が遂に後世に埋没することを憂い、地方人士の賛同を得て、茲(ここ)に中甚兵衛の住居であった中河内郡東六郷村大字今米に、功績碑を建立し、永くその功績を書き記しておきたいと思う。各位応分の寄付金をお願いしたい。」旨が記されています。

●実際に寄金も集まり始めましたが、次第に戦時体制が強化されて民衆生活も圧迫され、

結局は、建碑計画を中止せざるを得なくなる事態となりました。主意書の末尾から欄外にかけて、祖父・敬男が寄付金の一部と計画中止の旨を書き足しています。

 この建碑が実現されていれば、拙家が今米を離れた後も、恐らく現地に保存されていたと考えると、付け替え250年以降の混乱もなかったものと惜しまれます。

●与謝野晶子が「君死に給うことなかれ」を発表した戦争は、当初は日本優勢のうちに進みましたが、翌、明治38年(1905)6月、アメリカ大統領・ルーズベルトの斡旋で講和、ポーツマス条約を結んで終結しました。

日本にとっては戦果が少なく、日比谷焼打ちなど民衆の暴動も起きました。一方で、帝国主義国家として発言力を強め、軍国主義思想が勢力を得ると共に、重工業を基幹とする第2次産業革命が進行することになります。