●前回まで、今米川中家前の顕彰板「川中家と屋敷林」前段部の記載に関連する事柄を、当時の史料を交えて分析し、問題点を浮き彫りにしてきました。


 ●最初にも触れましたが、一番に問題にしなければならないのは、新田開発当初から明治初期までの「川中新田会所」の存在が葬り去られていることだと考えます。

 付け替え300年に於いても、今米公園から鴻池新田会所に至る「東大阪歴史の道」の重要ポイントにも関わらず、採り上げられませんでした。


 ●もし、「川中新田会所跡」が顕彰されたならば、開発者の一人・河内屋五郎平の住居跡も世に知られ、合わせて、現存・川中家はそれとの関係を明確にしなければならなくなります。創建された時期も公表され、自ずと、「現川中家が中甚兵衛の生家だ」という表現も姿を消すでしょう。


 ●「顕彰板」後段で解説のある「屋敷林」が、それだけで非常に価値あるものであることは、誰もが認めることで、何ら中甚兵衛の生家である必要はないと考えられます。


 ●記述の通り、昭和後期に生まれた大和川付け替えに関する諸々の通説の原点が、付け替え250年の調査にあるという指摘は、平成初期の『改流ノート』や、郷土史研究賞を受けた論文「大和川付替運動の虚構をつく」で公表しましたが、この川中家が二件あったことに関しても、付替250年顕彰事業委員会は見落としていたのです。


     
     


 ●上は、「河内扇」を表紙全面に採り上げた付け替え250年の記念誌『治水の誇里」に掲載されたものです。「中氏旧宅跡」は採り上げられていますが、大和川付け替え後、実際に川中新田を開発した河内屋(川中家・後の東川中家)の住宅であった「川中新田会所跡」が欠如、それどころか現存する「川中氏宅」を「川中新田を開発した家である」と解説しています。

 誰が見ても、川中家はこの一軒しかなかったととれる表現(現・顕彰板も同じ)で、顕彰事業委員会の調査が不十分であったのか、それとも、もう一つの川中家の存在が意識的に葬られたのか、その後の説を助ける材料になりました。


【おわりに】


 ●昭和60年代に入った頃だと思います。父の死後、まだ数年のことでしたが、今米村共有土地相続放棄と清證寺再建の問題で、今米・川中地区の方々と現地で会食する機会がありました。

 食事を終えての歓談の折、何人かと交わした会話です。

 「川中さんって、もう一軒ありましたよね?」「あぁ、あそこは何も関係ないんです。」

 「新田会所がこの近くにあったんですね?」「あぁ、鴻池の会所でしょ。」

 「昔、甚兵衛の碑のある地は、氏子の方々とうちとの間で永久使用権を結んでいましたよね?」

     「えぇっ?そんなことが?誰の名前があります?」・・・・・

 全くかみ合わない話に、これ以上の展開は差し控えましたが、地域でお住まいの方々の御認識を垣間見た感じで、30年を経過した今もはっきりと頭に残っています。


 ●本論「中甚兵衛の生家は何処だ」は、「屋敷林の川中家」か「中家屋敷跡」のどちらを選ぶのかというものでした。甚兵衛の他家からの養子などが伝わらない拙家にとっては、河内への移住以来の屋敷での生誕とみるのは当然のことですので、本稿では、現状広まっている前者の説が成り立たない理由の裏付けに重点をおきました。

 不本意ではありますが、考察上やむを得ず、川中家の家系にも深く立ち入ることになりました。ご理解いただければ幸いです。



 ●それを通じて、明治初期の会所屋敷の消滅、廃家の影響で、先の如く、その存在すら地元の方々でも知らぬ存在になっているこが、まずもって大きな問題となっていることが分かります。

 平成になってからの区画整理で、それまで跡地が明確に伝わっていた区域の形状が姿を消してしまった今、遅きに失した感がありますが、地元の正確な歴史を伝える意味に於いても、「川中新田会所跡」の顕彰は急務と考えます。「中甚兵衛生家」が正しく伝わるためにも。