●大和川付け替え工事に際して、土地に不案内な江戸の役人の道しるべにと、中甚兵衛がそれまでの河内平野の絵図に新川の予定川筋を書き込んだとされる、「河内扇」と称するものがあります。


 ●先日来見ている、今米川中家の顕彰板「川中家と屋敷林」でも、写真入りで解説されています。


 ●幕末の河内の文人・中西多豆伎(なかにし・たずき)の『河内扇之記』にその由来を求めているもので、

付け替え250年記念の『治水の誇里(ほこり)』の表紙を飾ったころから、関係各書に登場するようになりました。


            


 ●その後、「河内扇」は由来記からも外れて一人歩きを始めます。

 「付け替えの目論見図(設計図)」~「嘆願時に懐に偲ばせていた」~「江戸への直訴の際に、図面では関所を通れないので…」などに発展、小学校の副読本にも採用されていました。


 ●大和川の付け替えに関する史料は、迷惑を訴えた新川予定筋の村々からは数多く見つかっていますが、付け替えを望んだ方の運動から工事前の見積書に至るまで、拙家以外からは皆無の状態でした。

 「甚兵衛作なのに何故わが家に伝わっていない?」という単純な疑問から、詳細な検討をはじめ、いくつかの疑問点が出てきたため、昭和62年(1987)2月に「河内扇の不可思議伝説」として私製冊子を発表、その改稿を平成4年12月発行の『改流ノート』の第五章として「河内扇伝説の疑問点」を収めました。

 新聞紙上にも大きく採り上げられ、府内各地の教科書副読本の改訂へとつながりました。


 ●先の荻田昭次氏の論文「河内扇について」は、実はこの「改流ノート」への反論でしたが、論文の最後の結論は私のものと大差ないものでした。その他の詳細な点について氏の論文への反論を投稿しましたが、冊子の研究会に入らなければ掲載しないということで断念した経緯があります。


 ●荻田氏は「大和川付け替え工事史のシンボルのような存在にまっている河内扇について、最近疑問がもたれている」として、中西多豆伎『河内扇之記』を説明、「河内扇はこのような歴史的由緒をもっている」という当時の一般的評価を強調されたに留まり、この記そのものに、どれだけの裏付けや信憑性があるかといった、当方の疑問点は無視されました。



 ●ともかくも、その『河内扇之記』を見ましょう。

 ●「中西多豆伎」は、本名・宗兵衛茂保、文化7年(1810)、恩智川(おんぢがわ)中流右岸に位置する河内郡下喜里川(しもきりがわ)村の庄屋の家柄に生まれ、父・多豆廼舎と並び、風雅の文人として知られています。

 ●『扇之記』が成ったのは、その奥書に見える天保10年(1839)4月16日で、この時多豆伎は30歳。

 大和川付け替えから135年を経過していることに先ず注目したいと思います。

 中甚兵衛乗久の百回忌も、すでに10年前に終えています。


 ●扇の持ち主として登場するのは、今米村の川中家、すなわち西川中と呼ばれる三郎平家です。

 この時に扇をもって多豆伎を訪れたのは川中三郎平常亮(別名・庸平、1794~1868)で、46歳。

 彼もまた文人と伝わり、『枚岡市史』では両家は親戚関係にあるとしています。

 ここでは、深い関係があるにせよ、話し手と聞き手・書き手に16の年の差があることにも注目です。


 ●『扇之記』の書き出しは、「ひとひ、今米の里人川中ぬし、吾家に来たりて…」で始まります。


     先日、今米の川中氏が私の家を訪ねて来た際、話のついでに、腰にさした扇を取り出し

     云われるには、これは昔、宝永の頃、私の遠い先祖が、大和川を泉州堺の海に落とす

     ことを幕府に働きかけたが、やがてそれを担当する江戸の役人が来られる時、道しるべ

     として差し上げるのが良いだろうと、ひとつはお役人に献上し、もうひとつのこれは自分の

     もとしたものが家に残ったものだとして、見せてもらった。


 ●冒頭部分の内容は以上のようです。

  ここで、二つ作り、一つを献上したという、江戸の役人は誰かを推定するために、「宝永の頃」という記述に注目します。

 新川筋を示すのが6回目になる最後の幕府の検分は、宝永の前の元禄16年(1703)4月6日ですので、これを含むそれまでの「検分役人」ではないのでしょう。


 実際の工事の際、「普請奉行」として来たのは、「大久保甚兵衛忠香」と「伏見主水為信」の二人。

大坂に入ったのが元禄17年(1704)2月、その16日に「住吉喜連村」に最初の普請役所を開設しています。(喜連村は新川全長のほぼ真ん中に近く、工事の進捗具合で役所は移動します。)

 恐らく、由来記の目的から見て、最初の普請役所を開いたこの時でしょう。「元禄」はこの年3月15日に「宝永」と改元されますので、「宝永の頃」という表現は大目にみましょう。

 しかし、役人の数が合わないし、後に詳しく見ますが、描かれている新川は工事途中での変更を踏まえた完成後のものですので、この時点で計画とは違う川筋を描くことは出来ないのです。


 ●また、この記には「中甚兵衛」の名は一切出てきません

 記の最後に付け替えの目的などを述べていますが、甚兵衛のことを「この川中主のくはだて(企て)は…」としています。これが後に「中甚兵衛」ならぬ「川中甚兵衛」なる人物を生みだす因になりました。

 ひいては、甚兵衛は川中家で生まれ、中家に養子に入ったとか、付け替え後に中家を創建したとか、

まことに勝手な説の横行に歯止めがかからなくなってしまったのです。


 ●このように、話し手は、家に伝わる遠い昔の、かなり曖昧な話を述べたに過ぎず、血は繋がっているのでしょうが、大和川付け替えを成し遂げた先祖の苗字・名前と本人の関係を正確に伝えていません

 多豆伎も16歳年上の人の話を、すっかり信じたのでしょう。

 多くの問題をかかえた由来記です。


    次回に続く。