●時代を遡って辿りついた、前回の川中家初代の住居「川中新田会所」について、ここで 少し時代の推移通りに追って整理してみます。


 ●「初代・三郎平」は、今米村の中九兵衛と共に、当初「河内屋五郎平」の名で新田開発に携わりました。次回に詳しく見ますが、元々の今米の住人ではなく、落札した新田開発のために、夫婦で移り住んできたものです。


 ●その住居となった「会所」は、勿論、宝永2年(1705)の新田開発着手後に建てられたものですが、実は、元来は今米村の領域内であり、その後替地によって新田領域になったという経緯があります。

 この辺りを、宝永5年(1708)8月改「川中新田会所屋敷替地之覚」などを参考に考察します。


           


 ●先ず、会所地の場所選定の理由として考えられるのは、もう一人の新田開発請負人としての今米村庄屋・中九兵衛と、宝永2年(1705)に剃髪した甚兵衛乗久の存在が挙げられます。

 その屋敷をはじめ今米村の居村が新田地のほぼ中央部のすぐ近くに在り、その集落に隣接して新田会所を置くと、何かにつけ便利であるに違いありません。

 しかし、会所である以上、本来は新田会所にあるべきもので、問題が残ります。



 ●ところで、今米村にも吉田川筋沿いの他の村々と同じように、付け替え前から村領域に接する河川敷を開墾した「外嶋(そとじま)」という田地がありました。村から見て堤防の手前が「内」、向う、即ち川の中の方を「外」と呼んだことによります。また、新しく開拓する新田(しんでん)に対して、古田(こでん)や本田(ほんでん)とも呼ばれるもので、合わせて「本田外嶋」とも表現します。


 ●こうした川敷内における従前の開発地や墓地などは、新田開発後もそのまま領地として残りますが、

堤の部分は、それを崩した土で川を埋め立て開墾する工法を採るため、新田領域とされました。

 すると、旧来の村から見て外嶋との間に新田村の土地が生まれて、従前のようには自由な行き来も阻まれることになります。


 ●そこで開発者を共有する今米村では、従来の今米村居住地のはずれの、堤防際の土地に取り敢えず会所を建造。新田開発後に会所地を川中新田領として渡し、代わりに同面積の外嶋に沿う旧堤部分の土地を今米村領としてもらったとものと考えられます。

 これで、会所を本来の姿、あるべき位置に置くと共に、他の村のような行き来の問題はないにせよ、本田の一体化が図れました。一挙両得です。


            


 ●上図には、会所や今米村集落の位置も示されていますが、先程述べた、水走(みずはい)村や吉田(よした)村の「本田外嶋」が、堤敷部分の新田領地で旧来の村の土地と区切られている一方、今米村は地続きになっていることが読み取れます。

 川中新田と今米村の関係だからこそ、すんなりと出来た処置でしょう。


 ●「川中新田」はこうして、今米村の村役人や居住地を共有する形でスタートしたわけで、別々の村という感覚はなく、今米村の新田とも言うべきものでした。


 ●事のついでに時代を追うと、後年には支配する代官もほぼ同じになることから、一村としての色彩が非常に強くなっていきます。

 川中家においても、これまで見て来たように、後々には甚兵衛乗久から分けられた会所周りの今米の地にも住居を持ち、やがては力をつけて、共に今米の村役人に仲間入りすることになります。

 こうして見ると、分家地を新田内でなく今米に選んだことや、新田の実力者が幕末に今米の庄屋に就いている理由も納得できます。


 ●また、従来の居住地の北に位置する所に古くに「①中家屋敷」が構えられ、大和川付け替え後に至って、南のはずれに先ず「②会所(のちの東川中家)」が、その後に「③西川中家」が建つことによって居住地は更に南に伸び、氏神である春日神社の横まで広がっていったという今米集落の歴史的推移が見てとれます。