昨日までの4日間にわたり採り上げた「杭全(くまた)神社」の最寄駅は、「JR大和路線 平野駅」。
5月14日のブログで見た、「大阪鉄道 湊町駅」から柏原駅間を明治22(1889)年のその日に開業した関西私鉄2番目の鉄道路線の、一つの駅として開業しています。
現在は、「天王寺駅」の東の次駅「東部市場前」と、「加美駅」の中間駅。快速は止まりません。
線路・ホームは高架にはなっていない「地上駅」ですが、駅舎や改札口に関しては「橋上駅」です。
所在地は、大阪市平野区平野元町9番街区になります。
< 駅舎南口側 >
< 駅舎北口側 >
北口側階段昇り口の傍らには、橋上駅化と駅前広場整備の工事が、昭和60(1985)年4月に竣工したことが記されています。
駅の東部には、「平野川」が流れ、鉄橋と歩行者・自転車用の橋が架かっています。
現在の「平野川」は、柏原市古町で「大和川」から引水し、その後、八尾市~平野区~生野区~東成区~城東区と流れ、「第二寝屋川」に流れ込んでいます。
今見る姿は、戦後の治水対策事業の結果で、昔の流れの面影はすっかりなくなっています。
ましてや、奈良時代、古大和川の本流であった事実を信じる人もいなくなってきています。
< 奈良時代の大和川の主流 > < 同時期、大和川主流に沿う「渋川路など >
奈良時代の大和川の本流は、八尾の植松付近から西北に流れ上町台地にぶつかっていました。
「平野(ひらの)」の地の開拓以前で、勿論「平野川」の名はなく、植松以西は、「河内川」や「渋川」の名で呼ばれていたと思われますが、その一部の堤防である「渋川堤(しぶかわのつつみ)」や「伎人堤(くれひとのつつみ)」が度々決壊し、国をあげて修復したことが、『続日本紀(しょくにほんぎ)』に見えます。
また、それに沿う「渋川路(しぶかわのみち)」は、「聖武天皇」らが「平城京」と「難波宮」の往還に利用していますし、のち、「和気清麻呂(わけのきよまろ)」がこの「河内川」を上町台地を掘って直接海に流そうと試みています。
このように、「平野川」は、歴史的にも由緒ある大河だったのです。
< 古平野川の自然堤防跡の微高地に成立した平野の町 >
この図は、明治18(1885)年測量地図と、昭和58(1983)年発行の土地条件図を重ね合わせて作成したものです。JR大和路線・平野駅や明治期までの「平野」の町も書き込まれています。
少し見にくいですが、明治期には、現・国道25号線に沿う形で流れてきた「平野川」が平野の町の東側辺りから北上し、現・JR線を横切っています。
黒く色づけした部分は、過去の川が氾濫して出来た「自然堤防」跡や「天井川」の跡地を示しています。 斜め左上がりに大きくあるのが、大和川の主流であった時代に出来た氾濫跡、すなわち自然堤防跡であることを示しています。平野の町はもとより、周辺の村々の集落も、古「平野川」の自然堤防跡などの微高地に形成されていることが分かります。
因みに、地図の左端部分は、「段丘」と、大和川付け替え以前に平野川に流れ込んでいた「狭山西除川」の天井川跡地・自然堤防跡地です。
尚、詳しくは、上掲絵図も掲載している、拙書、『於吉奈我河考(おきなががわこう)』『於吉奈我河考Ⅱ』、および『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』などをご参照いただければ幸いです。
(プロフィール参照)
現在の鉄橋は、車両一両分ぐらいしかありませんが、明治期には、こんなにも長い鉄橋でした。