大阪市住吉区の「苅田10丁目」の「大和川右岸堤防」を後にして、「苅田南小学校」に戻ります。
写真は、道路の左(西)側が「苅田10丁目」、右(東)側が「庭井2丁目」です。
< ●6→●5 付近 >
●5地点。「大阪市立苅田南小学校」の南東角の「通用門」です。
ここから、時計回りに外周道路を進み、●3地点に向かいます。
「苅田南小学校」は、昭和44(1969)年、周辺の宅地化で児童数の増えた「苅田小学校」の「第一分校」として設立され、昭和49(1974)年に現行名として分離開校しました。
現在の校区は、「住吉八尾線」より南の、「苅田8・9・10丁目」と「庭井1・2丁目」。
卒業生は、浅香1丁目にある「我孫子南中学校」に進学します。
< 苅田南小学校グランドの南西角 >
小学校のグランドの南西角から、校舎のある方へと向かいます。建ち並ぶ住宅の向う側です。
南側フェンスや校舎には、「苅田小学校」で見られたような日除けが作られています。
また、毎日掲揚されているのでしょうか、日の丸の旗が見えます。
校舎部分の西側。小学校の北西角に近づきました。
突き当りにある小学校東西の道路は、苅田9丁目との境界で、奥に見える建物は9丁目にある「府営苅田住宅」です。
< 小学校(右)前の町境界道路。左が9丁目の府営住宅 >
< 苅田南小学校の正門 >
< 正門東側の通用門 >
「苅田10丁目」の北東部にある「苅田南小学校」の、北東角(●3地点)に戻りました。
明日は再び、小学校前の道路を少し戻り、「苅田9丁目」に入ってみます。
< 苅田9丁目「府営苅田住宅 >
★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 11月12日 要旨 ☆★
● 《 城連寺村、渡し船の営業許可願い(1704) 》
大和川付け替え当時、新航路となる剣先船の運行を妨げるなどの理由で、新大和川には紀州街道の「大和橋」を除いて、恒久的な橋は設置されませんでした。しかし、他にも街道が寸断されたり、村が南北に分断されたりしたことから、その行き来は必要なものでした。村々は、「野通(のかよい)船渡」や取り外し可能な仮橋の「野通橋」を設けることを申請して、認めてもらっています。その内の一つ、24haもの土地を失い、田地を分断された「城連寺村」は、「近在の村の往来筋でもあり、年貢の御蔵米を出すに当って舟を使いたいと頼まれるので、渡し船の営業を認めてもらいたい」旨の願いを、付け替えの終了した直後の、宝永元年(1704年)のこの日に願い出ています。