中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 大阪市東住吉区の田辺地区の探索。再び、「法楽寺」(山坂1丁目)に戻ります。


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 山門を入ってすぐ右手の「鐘楼(しょうろう)」とも呼ばれる「鐘撞堂(かねつきどう)」の奥に、大クスがそびえ立っています。樹齢800年近く、市内では住吉大社のそれに次いでの古木とされています。

 




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 幹周8.0m、樹高26.0m。根元もしっかりとしています。

 昭和56(1981)年6月1日に、「大阪府指定の文化財天然記念物)」になりました。


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 一方、山門左手には、昭和43(1968)年に大阪市の「保存樹林」(樹林第5号)に指定されたとする標識があります。面積500平方m。「代表樹・くすのき」の幹周4.0m・樹高17.5mとあって、当然、代表樹になるであろうこの「大クス」と、数値が違う木が選ばれているのは、何故なのでしょう。


 


 話題をこの「大クス」に戻すと、木の東側には、それに因んだ「くすのき文庫」が設けられています。


 また、根元近くに、昔はほとんどの小学校に設置されていた「二宮尊徳」も建てられています。

 「二宮尊徳」(1787~1856)の通称は「金次郎」。江戸時代末期の、今の神奈川県である「相模(さがみ)」の人で、神・儒・仏の思想をとった生活様式である「報徳仕法(ほうとくしほう)」を創始しました。


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 金次郎像の台座には「分度推譲(ぶんど・すいじょう)」の文字が刻まれています。

 報徳の実践に当って、誠実勤勉に働き稼ぐ「至誠勤労(しせい・きんろう」と共に留意すべき事項です。


 「分度」とは、天を測して自己の実力を知り、それに応じて生活の限度を定めること。

 「推譲」とは、人を(お)し上げて、自らること。

     ・・・『広辞苑』には、こう書かれています。


 要するに、「収入に応じて限度ある支出で余裕をもたせ、それを蓄えて次世代や地域に譲っていくべき」というような意味合いでしょうか。


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 私の出た小学校(追手門学院小学部)にも、金次郎像がありました。

 また、私が物心ついた頃には既に、わが家にも、金次郎の人形がありました。

 立像ではなく座っていて、鎌を置き、籠を背負ったまま本を読む姿です。

 学校でも、家庭でも、「このように寸時を惜しんで勉学に励め…」と教わった記憶があります。




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 「大クス」の傍らの「稲荷社」の近くに石柱が建っています。

 「水位測定標柱」との説明があり、石柱には目盛りが刻まれています。

 上から「五・四・三・・・」も文字が見え、長・中・短の横線があります。

 長い線の下の数字の単位は「尺」、「寸」刻みの目盛りで、少し長いのは「5寸」を表しているのでしょう。


 3尺3~4寸(約1m)辺りで、石の色が変っているように見えます。

 そこまで、水が浸かったことがあったのでしょうか?

 「文久元年1861)年11月」の日付けは何を意味するのでしょうか?

 管見の限り、この年月の水害記録はありませんが・・・


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★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 8月10日 ☆★


● 《 石川合流付近で堤決壊(1633) 》

 河内に入った「大和川」は、まもなく南からの「石川」を合流します。古来、大雨増水時には、その合流点で勢いを争い度々氾濫を繰り返し、村の存続をも脅かしました。1620年の柏原村の甚大な被害に続き、寛永10年(1633年)のこの日、国府(こう)・船橋・柏原村で堤防が決壊、家屋流失や死者も多くを数えました。その2年後にも、更に下流域にも広がる被害がありました。度重なる被害で、特に柏原村の困窮度は大きく独自の復旧も困難となり、それを救うべく代官・末吉孫左衛門は、村内を流れる了意川が平野川として大坂に繋がっていることに着目して、それを利用する舟運を計画しました。寛永13年(1636年)に営業を開始した「柏原船」がそうです。