中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 大阪市東住吉区針中野の1~4丁目の境界点の5叉路。

 北へ進めば中井神社などの旧集落、西は環濠跡、真南は針中野駅南から東へ伸びる道路に出ます。

 2日間見た「中野鍼」は、ここから南西方向でした。


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 一方、東に進めば、「今川」に架かる「平等橋」に出ます。

 この東西道路は、東住吉区針中野の「1・2丁目」と「3・4丁目」の、また古くは南百済郡の大字である「中野」と「湯谷嶋」の境界線でした。


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 これまで、現地を歩くと共に、「大正期の地番図」などから、10日間にわたる江戸期の中野村に関するブログでは、環濠集落の位置を、冒頭の5叉路以北と推定し、話を続けてきました。

 従って、「中野鍼」は「環濠集落の外」に位置したことになります。

 大正期は、南百済郡の大字「中野」には属さず、大字「湯谷嶋」(小字「下湯谷嶋」)に含まれます。


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 しかし、「東住吉区」の公式見解とみなされるホームページにある、「東住吉区100物語~065 中野村の環濠」には、「南側は中野鍼灸院の辺りと思われる」とあって、「中野鍼は環濠集落の中」ともとれる記載があります。

 そこで、私も採り上げ、この筆者も参考絵図として挙げられている、「土橋家文書」をもう一度見直してみたいと思います。


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            < 図1 >                          < 図2 >


 <図1>では、「今川」に架かる「」(平等橋か)へ伸びる道路(大正期の「八尾街道」より北側に、「環濠」があるように描かれています。

 大正期の地番図に描かれている環濠と一致します。私の結論の裏付けの一つです。


 一方、環濠集落かどうかは不明ですが、「中野村集落」の位置を示している<図2>では、「今川」に架かる橋に通じる道の南側にも広がっています。


 環濠内にしか中野村集落がなかったとすれば、「東住吉100話」が語るように、「中野鍼」の位置をも含むことになりますが…。

 だとすれば、環濠の南が「湯谷嶋」の小字「下湯谷嶋」となっている大正期の境界と、江戸期の湯谷嶋領とのそれが異なっていることになります。


 もう一枚、非常に興味のある、絵図があります。





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                           < 図3 >


 <図3>では、「狭山西除川」右岸にある「平野郷内中野村」の集落が、今川に架かる橋(平等橋か)を渡って平野郷に伸びる「住吉堺道」(近代の「八尾街道」)より、北側に示されています(ピンク色)。

 これが、環濠集落の位置を表していると思われますが、もう一つ、道を挟んだ南側にも隣接して集落の印が描かれています。

 この絵図では、中野村領の環濠外の集落なのか、湯谷嶋村領の枝郷なのか、確定できませんが、ここに平安時代から存在した「中野鍼」を含む小さな集落があったのではないのでしょうか…。


 これまでを総合して、少なくとも、環濠が東西道路の北側に存在したと見る方が良いのではと考えます。あくまでも私見ですが…。



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 現在の「東住吉区針中野1~4丁目」は、西の「近鉄南大阪線」と東の「今川」に挟まれています。

 北の区切りは「南港通」。北西隅の北側には「地下鉄谷町線」の「駒川中野駅」があります。

 南東隅に位置する近鉄南大阪線の「針中野駅」の南側を、東西に伸びる道路が南端です。





 言い換えれば、最寄駅の一つ「針中野駅」の北東側に広がる町が「針中野」。

 一般的には、駅名は付近の地名や名所旧跡などに由来して名付けられることが多いようですが、この「針中野」の町名と駅名もそのような関係にあるのでしょうか?


 実は、東住吉区に「針中野1~4丁目」の町名が誕生したのは、昭和55(1979)年。

 まだ30数年の歴史しかありません。その以前は、近鉄線の西側の「駒川1~5丁目」を含む「中野通」という町名の一部でした。


 一方、「近鉄南大阪線」のそもそもの開業は、大正12(1923)年。「針中野駅」の開業も同じです。

 およそ90年の歴史があることになります。

 駅名の由来は「中野鍼」。当時の「大阪鉄道」の開通に中野家が尽力、「鍼」の字をやさしい「針」に変えて、「針の中野」の最寄駅であることを示す駅名になったとされています。

 今この駅名と、或いは地名をも冠して「針中野・中野鍼」とされる所以です。


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★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 7月31日 要旨 ☆★


● 《 第五回内国勧業博覧会閉幕(1903) 》

 明治36(1903)年、主会場を「天王寺」、水族館を開設した「堺大浜」を第2会場として、3月1日からこの日までの5ヵ月間、「第5回内国勧業博覧会」が開催されました。初めて海外からも18ヵ国が参加して事実上、国内初めての「万国博」。会期中435万人余の入場者も、明治期の博覧会では最多を記録しました。天王寺会場の跡地には、初代「通天閣」を含む「新世界ルナパーク」が明治45(1912)年に誕生、今年100周年を迎えました。