昨日までの3日間のブログで、江戸~明治前期の「住吉郡中野村」の、産土神「中井神社」と、寺院「佛願寺・林願寺」を見ました。現在の大阪市東住吉区の「針中野2丁目」にあります。
今日は、その「中野村集落」が、庚申街道を挟んで、現在の「針中野1丁目」にまたがる「環濠集落」であったこと、中野村は「平野郷(平野庄)の散郷(枝村)」の一つであったことなどを、古い絵図や地図などを参考にして確かめたいと思います。
平凡社『日本歴史地名大系』によれば、「中野村領域」は、現在の、東住吉区の「中野1~4丁目・針中野1~4丁目・西今川3~4丁目」と、平野区の「平野西1~2丁目・喜連西1丁目」にまたがっていたとあります。勿論、各町の全域であったり、その一部しか含まなかったりする町もあると思われます。
< 中野村領域を含んでいた現在の町名 >
先ずは、江戸時代の「延宝年間」(1673~61年)の3枚の「土橋家文書」(阪大所蔵)を見ます。
拙書・大和川叢書『於吉奈我河考Ⅱ』に収録する際に、自らトレース・作成した図を引用します。
図1では、「狭山西除川」が新開地となっていますので、1704年の大和川付け替え後に書き加えられたか、写されたものかもしれません。その東側に「平野郷内中野村」とあります。
下の図2では、「平野村領之内中野村」、図3では「平野領内中野村」と記されています。
同様の村として、「今林村・新在家村・今在家村」があり、平野郷には計4つの散郷がありました。
細長い丸は、それぞれの集落があった場所を示しています。
< 図2 > <図3>
以上の絵図から、中野村は「平野郷散郷4ヵ村の一」であったこと、その集落は、1704年までは北流する「狭山西除川右岸」に接し、対岸には「砂子村」、南は「湯谷嶋村」に接していたことと、集落は濠の囲まれた「環濠集落」であったことが分かります。
次に、明治22(1889)年の町村合併で、「砂子(すなご)村・湯谷嶋(ゆやしま)村・鷹合(たかあい)村」と共に、「南百済(みなみくだら)村」の大字(おおあざ)となった時代の資料を見ます。
大正11(1922)年に刊行された『東成郡誌』によると、「大字・中野」には、次のような小字(こあざ)があったことが記されています。
● 天童河原(てんどうかわら) 1番~33番
● 川島(かわしま) 34番~69番ノ2
● 川原(かわら) 70番ノ1~90番
● 平等(びょうどう) 91番~143番
● 小久保(こくぼ) 144番~208番
● イ シコ(いしこ) 209番~269番
● 南長池(みなみながいけ) 270番~322番
● 中野(なかの) 323番~369番
最後の、「大字・中野 小字・中野」が、江戸期に集落のあった場所です。
尚、西除川跡の「摂津・富田新田(とんだしんでん)は、町村合併より以前の明治16(1883)年に、湯谷嶋村・北田辺村・桑津村」に分割編入されていました。
「南百済村中野」とその周辺の「小字」を、上記書の地番を参考に色分けしたものです。
知人の中川正広さんが、今川・西除川調査時に作成されたものを使わせてもらっています。
小字名にピンクの色付けをしたものが「大字中野」に属するものですが、「平等」のみ追加しました。
地割の「小字・中野」の部分を見てみましょう。
「庚申街道」やその他の道路の他に、水路が示されています。
江戸期の環濠の名残が、大正期まで残っていることが分かります。
『東成郡誌』から、「佛願寺」が331・333番地、「林覚寺」が328番地であることが分かり、色付けしました。
また、中野の西側に西除川跡の小字(天童河原)があり、その西の道路沿いに「大字・砂子」との境界線(①)が見えます。また南の水路際に東西に伸びる道路があり、そこに「大字・湯谷嶋」の境界線(②)が引かれています。
「庚申街道」と境界線②は今も生きていて、北西側が「針中野1丁目」、北東側は「針中野2丁目」です。
境界線②の南は、「針中野3~4丁目」でその縦割り線は、ここでやや西寄りに向きを変える「庚申街道」(下図③)ではなく、真南に出来た近年の道路(④)で区切られています。
明日からは、現状を歩いて、環濠の跡などを確かめてみたいと思います。
★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 7月25日 要旨 ☆★
● 《 地下鉄千日前線・今里駅、開業(1969) 》
大阪市東成区大今里にある「今里交差点」。5叉路ゆえに信号のない時代に存在した「今里ロータリ-」の名が今も生き続けています。そのすぐ東側に、地下鉄千日前線の「今里駅」がありますが、千日前通の地下に「谷町9丁目」から当駅までを部分開業したのが、昭和44(1969)年のこの日のことでした。