< 東住吉区南田辺にある東住吉山坂郵便局 >
一昨日のブログで定義づけた「鶴ヶ丘界隈」。
今日はその一部、北西部に位置する町並みを探索します。
西に「南長池」上の高架線「JR阪和線」、北を東西に「南港通」があります。
今回見るのは、主に大阪市東住吉区の「山坂4丁目」と「南田辺2丁目」。
二つの●が、旧町名「山坂町4丁目」と「田辺西之町7丁目」の標識が残っていた所です。
南北の道筋を大きく見ると、西側は阪和線(長池)に沿って、東側が方角通りに走っています。
阪和線に沿った道筋がある所は、3月10日~12日に採りあげた、江戸期の「松原新田」の集落と、大正期に開発された「松原住宅」を踏襲しています。
3月9日のブログの「松原荘」の石柱は、●印の所にありました。
東側のほぼ東西南北の区画のある所は、昭和以降の開発と見られます。
「山坂4丁目」の①の個所。左の「南港通」から住宅街に入る道は、段々南港通から離れていきます。
これが「松原住宅」開発の際に造られた南北の道路に、直交する道路の向きです。
ここを直進せず右に入るのが、地図のオレンジの道。この道だけがくねくねしています。
5月18日のブログで、堺・松原の看板屋「山ちゃん」のコメントでご指摘のあった、もとの「長池」の縁を通っていた道の名残でしょう。昭和の初めに池を埋め立てて、現在の阪和線の線路を敷設した時の造成地と思われます。道路東に比べ一区画が大きいことからも推察されます。
②の位置から北側を望んだものです。南港通の中央分離帯で直進は出来ませんが、向う側にも同じ向きに道が続いています。地図を見ても、元々は続いていた「松原住宅」を、「南港通」が分断して通されたことが分かります。
同じく③。ここには南港通に信号があって、北側に渡れます。
地図④の位置から南を見たものです。
この道路が、右手(西側)の「山坂4丁目」と左手の「南田辺2丁目」を分けています。
この左手の辺りに「松原新田の集落」があったものと推定されます。
地図で黄色く塗った所で、細い道が入り組み、突き当りで終わる道もあります。
④の道を進んだ⑤の地点で、二股に分かれます。
右が、「松原住宅」に沿う道。左が、この付近で初めてほぼ真南に走る道路です。
正面の住宅は「山坂4丁目」。左の道が、「南田辺2丁目」との境界になります。
右側の道路に面してと、左側の道路に面しての建物が出来ると、⑥の所でこんな空間が生まれます。
⑦の東西道路は、車がスピードの出せない「ゆずり葉の道」です。
最後に⑨。定義からは外れますが、 「南田辺3・4丁目」の境界道路の北端、南港通を渡った「南田辺1丁目」の角に、郵便局があります。
古く「田辺西之町」の時代からこの地にあった郵便局の名は、何故か「山坂郵便局」です。
★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 6月25日 要旨 ☆★
● 《 稲田観音禅寺開基、鈴木正三、忌日(1655) 》
大和川付け替え以前、楠根川・菱江川が久宝寺川に合流する付近にあった若江郡稲田村。江戸中期から明治にかけて、果実も種も赤く先がとがっている「稲田桃」の産地として知られ、曹洞宗の「観音禅寺」の桃がその起りとされています。南北朝時代の大伽藍は焼失、1648年に天草代官・鈴木三郎九郎重成を施主に、兄の鈴木正三(しょうざん)を開基として寺を再興しました。正三は、明暦元年(1655)年のこの日、75歳で亡くなりました。