中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 八尾市植松町にある「渋川神社」の東角から見た風景です。

 一方通行の中央の道路の右側に、しばらく続いているのが、古地図で「安中新田会所」跡地と分かる場所に建っている「旧植田家住宅」。左側の手前角は「安中元地蔵」です。


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     < 冒頭写真の道路奥の拡大図 >          <の位置から方向を望む


 自動車と自転車が電車の通過を待っています。この路線が「JR大和路線」。

 その左手まもなくの所に「JR八尾駅」があります。

 JR線の向う側に「長瀬川」が流れています。

 「長瀬川」は、古大和川の「久宝寺川」跡に残された灌漑・運搬用水路(疏水)です。


 冒頭の写真を撮った地点が、久宝寺川の左岸堤防辺り、即ち、「安中新田」の西の端に当ります。

 ここから長瀬川までの距離の倍ぐらい行ったところが、久宝寺川の右岸堤防、新田のもう一方の端です。


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 「安中新田」の検地は、他の新田同様、宝永5年(1708年)に行なわれましたが、その3年後の正徳元年(1711年)に描かれた「安中新田分間絵図」を、旧植田家住宅のギャラリーで見ることが出来ます。

 分間絵図とは、1間(けん)=約1.8m を何分(ぶ)、1分=約3mm で表示したもので、この絵図では1間を2分で表しています。およそ300分の1の縮尺です。


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            < 安中新田分間絵図の会所付近部分図


 先程の写真は、絵図の●印の位置から撮ったものです。

 中央の通りは、絵図には「植松本田道(うえまつほんでんみち)」と書かれていて、「長瀬川」を橋で渡り、東の端まで新田地を横断しています。

 「本田(ほんでん)」とは、「古田(こでん)」とも言い、新田開発以前からの旧来の村の田地のことです。

 植松村の本田は、久宝寺川を挟んで両側にありましたから、それを行き来する「野通い道」と見られます。

 また、旧河川敷に相当する所に、「植松古田」(右岸側)、「植松渋川古田」(左岸側)もありました。


 因みに、拙家史料によると、付け替え前の植松村の本田は、右岸側が630間(約1,150m)、左岸側は550間(約1,000m)が、久宝寺川の堤防に接していました。



★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 5月8日 要旨 ☆★


● 《 甚兵衛兄・太郎兵衛、確認最終文書(1695) 》

 昭和29(1954)年の大和川付け替え250年顕彰事業以後、甚兵衛の兄の名は「太兵衛(たへえ)」、甚兵衛は三男とされてきましたが、文書で実際に確認出来るのは「太郎兵衛(たろべえ)」一人でした。
 甚兵衛が今米村庄屋を務めている元禄8年(1695年)正月の村の文書に、3人の今米村年寄の筆頭にその名が確認されますが、4年後の元禄12年(1699)では、消えています。親戚筋との係争に関する文書で、甚兵衛が「兄太郎兵衛」と語る人物は、一連の最終文書である元禄8年のこの日の奥書に、「今米村証人・太郎兵衛」としてありますが、これがその名を確認できる最終文書です。引退・死亡など詳らかではありません。