< 大依羅神社の由緒書 >
大和川付け替え以前は、「依網(よさみ)池」の畔に鎮座していた「大依羅(おおよさみ)神社」。
同じ「よさみ」でも、池名には「依網」、神社には「依羅」の字が当てられています。
現在の正面は北側。「府立阪南高校」の校舎の東側で、住吉区庭井2丁目の19番街区です。
< 北側鳥居 > < 式内・府社 大依羅神社の石柱 >
< 大依羅大明神とある灯篭 >
境内に残る、「享保十四年己酉(つちのととり)十二月八日」の日付がある「大依羅大明神」の灯篭。
「奉祈/杉本村・苅田村・庭井村/安全」とも刻まれています。
因みに、日付けを西暦になおせば、1730年1月26日。何ら関係はありませんが、その10月31日、享保15年9月20日が中甚兵衛の命日です。
< 手水舎 >
< 境内にそびえ立つ神木のクスノキ >
< 東向きに建つ拝殿・社殿 >
初めての大和川付け替えの検分が行なわれた前の年、万治2年(1659年)の8月に造営された社殿は南向きで、正面鳥居も南側でしたが、昭和44(1969)年9月の火災で社殿を失いました。
2年後に再建された社殿は東向きに改められ、正面鳥居も前述の如く、北側に改められました。
春の例祭は従来通り4月16日ですが、夏と秋は、去年より7月と10月の第一日曜日に変更されています。
< 南側に建つ四脚門と、門扉上部に彫られた三つ巴(ともえ)紋 >
境内南側の四脚門からは、旧来の正面への参道が見えます。
3月24日のブログの「依網池址」の石柱のある「庭井2号公園」前からの参道です。
< 南側参道と鳥居 >
こちら側の門の脇にも由緒書が掲げられたり、神社名の石柱も建てられたりしていますが、木が生い茂って正面からは読み取れません。
★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 3月26日 要旨 ☆★
● 《 縄文~弥生の貝塚3例目「宮ノ下遺跡」と命名(1992) 》
2500~1900年前に当る縄文晩期から弥生時代にかけての貝塚が、東大阪市の近鉄布施駅北口付近で見つかり、平成4(1992)年のこの日、「宮ノ下遺跡」と名付けられたことが報道されました。近畿地方のこの時代の貝塚としては、大阪市中央区の森ノ宮遺跡、東大阪市の鬼虎川(きとらがわ)遺跡に次ぐ3例目です。その後の調査では、1500年前の古墳時代中期にかけてのの農耕や漁労に関する遺物も出土して、すぐ北側に迫る河内潟沿岸での半農半漁の生活ぶりが浮かび上がりました。