大阪市東住吉区山坂3丁目の8番と9番街区の境界道路に、「松原荘」の石柱が3基、建っています。
「南港通」の北側で、道路の東側のビルの名前は、「まつばらしょう」ではなく、「マツバラソウビル」。
その東隣には、人気の「石窯(いしかま)パン」のお店があります。
「荘」は、「荘園」の略と思われ、「庄園」の字もあてられるように、「しょうえん」と読むのが一般的。ただ、「そうえん」と呼ばれることもあるようです。
ところで、どうして、この地に3基もの石柱が集められて、保存されているのでしょうか。
上の中央の写真だけは古く、現在はこの木は伐採され、無粋な看板が括り付けられています。
南側の南港通や北側の道路よりは、一段高くなっています。
< 南港通の北側歩道より望む。松原荘の石柱が左に2基、右に1基。 >
< 道路途中より、一段低い南側の南港通を望む。この辺りの左右に石柱。 >
この付近のやや西側から南西方向にかけて、かつて「松原新田」という地名がありました。
江戸期、元々は住吉郡南田辺村内の原野で、寛文3年(1663年)に同村の浜田五兵衛が幕府の許可を得て開墾、翌年に検地を受けて松原新田と名付けられました。
松原市に伝わるような、「松原荘(庄)」という荘園の存在は、中世のこの地には確認されていません。
「松原荘」の意味するところや、ここに集められていることも、今のところ、私には謎のままです。
★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 3月9日 要旨 ☆★
● 《 幕府、河村瑞賢に再度の川普請を命じる(1698) 》
大和川付け替え不要に結びついた、1687年完了の河村瑞賢の川普請から12年目、元禄11年(1698年)のこの日、もとの木阿弥(もくあみ)になることを危惧した幕府は、河村瑞賢に再度の川普請を命じました。工事区域は広範囲に及びましたが、大きな改善を望む甚兵衛らの要望は、またも無視され、小規模な工事に終始しました。一方では、新開池・深野池の一部や淀川河口の新田開発を許可しています。