大阪市阿倍野区西田辺町1丁目、人呼んで「一番街」辺りにある、細い路地。
上の写真は、「南港通」を挟んだ北側の、昭和町5丁目側から見たもので、建物の隙間がその路地ですが、知らない人なら、気付かずに通り過ぎてしまうくらいです。
昼間は殺風景なこの路地も、看板や提灯に灯りがともる頃には、洒落た飲食街に変貌します。
石畳にでも張り替えれば、法善寺横丁のような雰囲気を醸し出しそうです。
会社務めの頃、京阪・香里園駅近くにも、似た雰囲気の界隈がありましたが、駅前開発で今は昔の話。この場所は、いつまでも残して欲しい街角の一つです。
石造りの立像ですが、左に「八に○」の「酒の壷」、右に「通」の字の「通い帳」をもつ、お馴染の姿。
何時の頃に、誰が、どんな目的で設置したのか、今では知る人もいないのでは・・・とは、街の声。
どなたか、由来をご存知の方はおられませんか?
今は、新しい赤い前掛け(よだれ掛け)を付けていますが、次の写真のような哀れな姿の時もありました。
由来を明確にして、大切にしてもらいたいものです。
★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 3月7日 要旨 ☆★
● 《 付け替えに代わる治水工事の嘆願書提出(1687) 》
河村瑞賢の治水工事後、付け替え運動が出来なくなり仲間は一挙に半減しましたが、瑞賢の工事の恩恵に洩れた村々は、改善工事の実施を訴え出ました。貞享(じょうきょう)4年のこの日のことです。農民自身が考えた工事の内容は多岐にわたりましたが、大和川水系の秩序を戻すための「法善寺前二重堤の復元」と、河内国内での多くの流れの合流を避けるため、菱江川を水はけのよくなった摂津国まで流す「放出新川の掘削」が主な要望でした。大きな見地での改善策には、多くの田畑を守りたい意気込みが見えます。