中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 1704年の大和川付け替え直後に落札し、年貢を免除される3ヵ年の「鍬下年季(くわしたねんき)」の期間中に開発を終えた新田に対し、宝永5年(1780年)、検地が実施されました。

 正式な面積の測定と、土地の品位に基づく石高を決めるものです。


 その開始に当って、それまで仮称で呼んでいた新田名に正式名称が付され、村として発足しました。

 吉田川跡全域の「吉田川筋新田」には、今日・2月25日に「川中新田」と命名されています。


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             < 宝永5年8月『河内国河内郡川中新田検地帳』


 同時に、今米村集落の南に建てられた「新田会所」地は、新田地の一部、今米村本田外嶋に続く旧堤防部分と替地が行なわれ、新田領内に組み込まれました。


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            < 宝永5年8月『川中新田会所屋敷替地之覚』


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          < 今米村集落に隣接する川中新田会所地。右図②。


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         < 宝永5年の検地結果を示す『河州河内郡川中新田絵図』


 尚、川中新田の「請負人」は、大坂菊屋町から会所に住まいを移した「河内屋五郎平」(まもなく三郎平と改名)と、隣村の今米村庄屋「中九兵衛」(中甚兵衛嫡子)の二人です。

 苗字からとった「河」と「中」で、「川中新田」と名付けられたのでしょうか。

 「河」の字が「川」に変えたのは、別の請負人(河内屋)が開発した新田に名付けられた「河内屋北新田」、「河内屋南新田」の略称、「河北」「河南」との紛らわしさを避けたものとみられます。



★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 2月25日 要旨 ☆★


● 《 吉田川筋新田を「川中新田」と命名(1708) 》
 大和川付け替え工事に引き続く新田開発事業も、堤奉行・万年長十郎が担当しました。その手代も検地役人に名を連ねています。検地に先立ち、新田名が付与されたことなどは、上述の通りですが、一般には庄屋は置かず、開発当初からの「請負人」や後の「支配人」と呼ばれる人が、従来村の庄屋役を務めました。