中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記 中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記

 東大阪市にある「近鉄けいはんな線」(旧称=近鉄東大阪線)の「吉田(よした)」駅」。

 「近鉄大阪線」の一本北側を走り、大阪市営地下鉄「中央線」の「長田」で接続している路線です。

 大阪城の真東に位置し、「荒本駅」と「新石切駅」の中間駅。


 この駅の北側が旧今米村(現・東大阪市今米)で、駅名や案内表示にあるように、駅の東、大通りから北へ入ったすぐ近くに、「中甚兵衛の碑」が建っています。


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 「贈従五位中甚兵衛翁碑」が建っているのは、旧今米村社「春日神社」の跡地、「東大阪市今米公園」。

 公園の前の道が、旧村のメイン通り。村社は、今米村の南のはずれにあり、大和川付け替え以前は、この通りをもう少し北に入った両側に村落があり、その北東の端に中甚兵衛の生家がありました。


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 地図は、幕末の今米村の一部とその周辺の村との境界を示したものです。

 赤線がメイン通り、鳥居を横に描いた赤い部分が春日神社、黄色い部分が付け替え以前の集落があった所、①が、1400年代の半ば頃からあった中家屋敷跡で、甚兵衛の生家でもあった所です。


 江戸期の初めから、その制度のなくなる明治初年まで、ずっと今米村の庄屋を務めました。

 幕末の30年ほど、庄屋2人制がとられてからは、もう一人を、②と③が交代で務めています。

 ②は、1704年の大和川付け替え後に、吉田川筋の新田開発時に建てられた新田会所兼住居。

 ③は、1760年頃に、②から分家されて建てられたものです。

 現在は、①と②は存在せず(明治期に転売または廃家)、③のみが存続、昭和29(1954)年の大和川付け替え250周年の記念事業をきっかけに、「甚兵衛生家」として広まってしまいました。


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 その誤りを正し、後世に伝えるために、現在、お住まいの方々のご協力も得て、道路際のオープンスペースに、「中家屋敷跡」のポールが建てられ、平成17(2005)年のこの日に除幕されました。


   中家屋敷跡  明治末まで、ここに甚兵衛をはじめ中家代々の屋敷がありました。

             屋敷は東西25間、南北30間あり、石垣で囲まれていました。
                                         平成17年2月 東大阪市


 ここで、1間(けん)は約1.8m。屋敷地は、東西が46m弱・南北が55m弱、その広さは』約2500㎡(750坪)。村落は自然堤防上にありましたが、洪水を考慮して屋敷周りは石垣を積んで、更に土地を高くしていました。現在は周囲の様子も様変わりし、それほど高く感じなくなっています。

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 先の地図のT字型の個所から、中家屋敷跡の東(左)および南の方向(右)を望んだものです。

 右の写真の右端辺りに、「中家屋敷跡」のポールが建っています。


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 屋敷地裏側には、かなり埋もれていますが、古い時代の石摘みが残っています。



★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・この日何の日』 2月24日 この日何の日 ☆★


● 《 「旧今米村・中家屋敷跡」標柱設置(2005) 》

 江戸期の「河内郡今米(いまごめ)村は、明治22(1889)年以降、中河内郡の東六郷村・盾津(たてつ)村・盾津町・河内市の大字のそれぞれの時代を経て、今も東大阪市今米として続いていますが、平成の区画整理で全てが、旧今米村の領域とは一致していません。また、「司馬遼太郎」でさえ、甚兵衛は当時の盾津村に住んでいたとするなど、時代の誤認があるようです。

 本書でのその他の内容は、本ブログにも示しています。