中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記 中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 昨日のブログ「口縄坂」にあった「大阪府立夕陽丘高等女学校跡碑」の真東約1kmの地に、昭和9(1934)年5月の移転先で、わが母校、現在の「大阪府立夕陽丘高等学校」があります。


 「口縄坂」に続く道を「谷町筋」に出、少し南の「夕陽丘」信号(地下鉄四天王寺夕陽丘駅上)から東へ「JR桃谷」駅」に通じる、緩やかな下りのある道を進みます。
 「上町筋」の「上本町9」交差点を過ぎると、文教地区に入ります。

 南側(右側)の「天王寺区役所」の先、北側の「大阪警察病院」に隣接するのが、「夕陽丘高校」です。


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       < 天王寺区役所 >                       < 大阪警察病院


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          < 大阪警察病院敷地内から見る大阪府立夕陽丘高等学校

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 目に飛び込んできた校舎とグランドの、あまりの変貌ぶりに唖然としました。

 というのも、昭和36(1961)年3月卒業したあと、数年は在籍していたバレー部後輩の練習も時々は見に行ってましたが、大学卒業後に大阪を離れた時期もあって、実に45、6年ぶりの訪問だったからです。


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 南側フェンスには、平成7(1995)年に設置された「音楽科」生徒の活躍を示す幕が張られています。


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 < 南側通用門から
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 これまでの道路を左折(北向き)し、正門の方に向かいます。

 この日は、クラブ活動も全くないのか、正門は施錠され閉ざされていました。


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 当初、「大阪府立夕陽丘高等女学校」が移転してきた、現在の天王寺区北山町10のこの地は、「大阪府女子師範学校」とその附属小学校・幼稚園の跡地で、更には、古代の難波宮から南に伸びる朱雀大路跡地と重なるとみなされています。


 昭和23(1948)年の学制改革で、「大阪府立夕陽丘高等学校」(略称・夕陽)に改称、「大阪府立天王寺高等学校」(略称:天高)の男子生徒と教職員の交流をはかり、共に男女共学校として再スタートしました。

 原則として、当時の国鉄関西本線の北側を夕陽の、南側を天高の通学区域として交流されたようです。


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                                    < 同窓会館「清香会館」


 外から見る限り、唯一見覚えのある建物が敷地の北東角に残っていました。

 同窓会である「清香会」の名をとったものでしたが、現在の名前や用途は確かでありません。

 下の卒業アルバムの写真を見ても、右下にその建物が写っています。

 
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 全体的には、南側に隣接していた「けいさつ病院」(写真左)の敷地と、大幅な交換がされた模様です。

 一部だけ張り出した所にあった、当時は屋外競技だった土のバレーコートが懐かしく想い出されます。


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   < 奥に西側の「けいさつ病院」の建物が見える当時のバレーコート


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   < 試合は9人制。因みに写真中央が、中衛センターの私です。



★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 1月11日 要旨 ☆★


● 《 中敬三、旧制四条畷中学に転任(1928) 》 

 父・敬三は、大戦終了まで教職に就いていましたが、昭和3(1928)年のこの日付けで、愛知県岡崎市立高等女学校から大阪府立四条畷中学校(現在の大阪府立四条畷高等学校)へ転任しました。