小 板 橋
ゆきずりのわが小板橋
しらしらとひと枝のうばら いずこより流れか寄りし。
君まつと踏みし夕(ゆうべ)に いひしらず沁みて匂ひき。
今はとて思ひ痛みて
君が名も夢も捨てむと なげきつつ夕わたれば、
あゝうばら、あともとどめず、小板橋ひとりゆらめく。
「明星(みょうじょう)の女流詩人の中で、最も美しき人とうたわれ、その歌の風情と、姿の趣をあわせて、白菊の花にたとえられた」(長谷川時雨)という、明星派の歌人「石上露子(いそのかみ・つゆこ)」。
富田林寺内町の旧家「杉山家」の跡取りだった、本名「杉山孝子(すぎやま・たかこ)」は、それが故に、想いを寄せた人との交際を諦めざるを得ませんでした。
明治40(1907)年の「明星」に掲載された、この悲恋の詩「小板橋」が代表作の一つになりました。
大和川に流れ込む「石川」の近くの流れに架かった橋とみられています。
「与謝野晶子(よさの・あきこ)」らの名に隠れ、「伝説の歌人」と言われ続けた「石上露子」の生涯が、まとまった形で明らかになったのは、昭和34(1959)年11月25日刊行の松村緑編『石上露子集」でした。
露子が74歳で亡くなったひと月半後のことで、自身が目を通すことは、ありませんでした。
本には「明星」掲載の全作品のほか、自伝も紹介されました。
が、自伝をもってしても、若き日の恋のお相手は、未だ明らかにはならなかったのです。
昭和59(1984)年、露子が筝曲「京極流」の創始者である「鈴木鼓村」に宛てた恋文17通が、その二代目宗家に保存されていることが、明らかになりました。
関係者は他界し、公になっても、迷惑がかからないだろうとの考えで発表されたようです。
恋文は、青園謙三郎編『鈴木鼓村と石上露子』で公表され、これにより、明治28(1895)年秋頃から、露子の歌がにわかに激情的になり、優れた作品が集中していた謎が解けたとされています。
「石上露子」は、明治15(1882)年6月11日、「杉山団郎」の長女として誕生、家を継ぐため恋を捨て、養子を迎えて、生家で生涯を終えました。
昭和34(1959)年の今日・10月8日のことです。
露子の母は、日下(くさか)の河澄(かわずみ)家から嫁いできた「奈美(なみ)」。
因みに、露子(本名・孝子)と私の母は従姉妹関係にありました。
杉山孝子が、亡くなる前年・昭和33(1958)6月19日に、私の父に宛てた葉書です。
葉書は5円。富田林局の6月20日、午後0~6時の消印があります。
尚、山崎豊子の小説『花紋(かもん)』のヒロイン「三室みやじ」のモデルは、この「石上露子」です。
また、没後50年だった平成21(2009)年には、それを記念して、宮本正章著『石上露子百歌』が刊行されています。
「 月見草 ふたたび同じ 夕暮れの 河原に咲けど 誰に摘むべき 露子 」
「 思う日は わがふるさとの 河内路を むかし男も 越えけるものを 露子 」
大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日」の10月8日の頁も、石上露子の忌日として捉え、解説しています。